食卓に明かりが灯るまで
ナキヒコ
食卓に明かりが灯るまで
九鬼は味も匂いもないスタバのコーヒーを置いた。
窓辺席には、もう西日が差し込む時刻だ。
見えづらい液晶画面にため息をつき、効かないエンターキーを連打する。
『英語の授業で、ネイティブ風の音読を恥ずかしがる¥:』
セミナーで使う模擬授業は、周辺の記号を拾いまるで暗号だ。
「いつまでやるかな……」県立高校の教師になり、もうアラサー。
固い音が響き、顔を上げる。
吸い込まれるような青い瞳と出会う。
ガラス一枚を隔てた向こうに、美少女の顔があった。彼女は窓をノックした手を上げ、艶やかな黒髪に添える。露わになった耳にピアスが光った。
彼女は小首を傾げてにっこりと笑い、人差し指を口に立てた。ピンク色の唇がかすかに動く。そして、流し目をよこしながらゆっくり歩いていく。
オレンジ色のカーディガンの小柄な背中が、雑踏に消えるのをただ見送る。
冷たさを感じて足元に目を落とす。コーヒーカップが倒れていた。
やりかけの仕事を背負ったまま、アパートの部屋に帰り着く。鍵を出す前に、中からテレビの音が聞こえた。そのままドアを開ける。たたきには、見慣れたスニーカーが揃っていた。
「せんせー、おかえり。また鍵開いてた。お留守番しておいたよ」
いつもの低く澄んだ声。
「またやっちまったか。悪いな、無理に留守番しなくてもいいぞ。盗まれて困るような物もないしな」言いながら、軽いドアを後ろ手に閉じる。
「おかえりとか、ただいまとか、あんまり言う機会がなくてさ。お留守番してるとなんか楽しいんだ。せんせーはどう?」
時田操はいつも通り、六畳一間のちゃぶ台に頬杖をついていた。ぱっちりとした目が上目遣いにこちらを見る。
「そんなもんかね」濡れた靴を脱ぎながら適当に答える。
「そこは、ただいま、って言うところじゃないの」時田がクスクスと笑う。
彼は隣の部屋の住人で十九歳の社会人だ。ラフな服装で足を伸ばしている。
古い鍵はよく滑り、施錠し損ねて出かけることが度々ある。
「なんかいいことあった? ニヤけてるけど」
「いいことっていうか、見ただけかな」あれは少女の人違いだろう。
上着を放り投げた。時田がキャッチして口を尖らせる。「香りが消えちゃうよ」
ちゃぶ台の上で、カップに入ったピンク色のアロマキャンドルの火が揺れる。
「また点けてるのか」「使わなきゃ減らないし。僕、結構好きだしね」
部屋のあちこちに、大量のアロマキャンドルが残っている。「PC貸してよ」
素直に渡してやる。中にあるのは、授業計画風の暗号だけだ。学校の機密は何も持ち帰らない。「こんな古いゲームの何がいいんだか」
「居心地がいいから」時田はチャットベースの古いMMORPGを好む。
「チャットはするなよ」その条件で九鬼のキャラクターを貸している。他人が使うのは一応規約違反だ。「はーい。どうせエンターキー効かないし」
九鬼はキッチンに立った。エコバッグから食材を取り出して手を洗う。炊飯器が蒸気を噴いている。「米、何合炊いた?」「三ごうー」いつもどおりだ。
「そろそろ替えようよ」時田がエンターキーを叩く音がする。「壊すなよ」と振り向いて釘をさす。「あ、ごめんなさい。でも、もう壊れてると思う……」
時田は首をすくめて画面に目を落とす。長い睫毛と、通った鼻筋の輪郭をキャンドルが火照ったように照らしている。
彼が隣に越してきたのは一月ほど前だ。チャイムにドアを開けると、驚くほどの美少年が佇んでいた。なぜか戸惑ったような顔で彼は、「お隣に入る社会人です。トキタミサオです」と自己紹介した。そして挨拶の品を差し出す。受け取る手の重みで食用油だとすぐに察した。
「九鬼明。教師をしている。何かあれば……」そこで、時田のお腹が鳴った。小柄な身をかがめ、耳まで赤くする。「もう、外からカレーの香りがすごくて……」
「食べていく?」「いいんですか?」頬を染めた顔に、輝くような笑みが広がる。
それ以来よく夕食を共にする。若者と接することは教師の仕事の役に立つという下心が招く理由の一つ。時田は最初は遠慮がちだったが「贈答品の食用油が切れるまで」という条件をつけると、ためらわずに来てくれるようになった。
「せんせー、何見てるの?」「テレビ」
子役時代からの有名女優が歌っている。いつまでも背格好が変わらない。
「痩せすぎかな」かつてふっくらしていた頬が、今はシャープだ。
「そう? 僕は素敵だと思うなぁ。子供の頃からずっとファンなんだ。うち離島で、民放一局しか入らなくて、島中みんなで同じドラマを見てたんだよ」
懐かしげに微笑む彼の頬もそげて見える。今日の献立に卵を追加することにした。
食に無頓着に思えるのが、招く理由の二つ目だ。魚を捌き、鍋に火をかけた。料理開始から体感で五分。電子レンジに溶き卵を入れる。コンロはひとつ。レンジの上で昨日の残り物が待機している。プロ仕様のアルミパンもあるが今日は出番なし。サラダ用のキャベツを刻んでいると、「油、どのくらい減った?」脇から時田の金髪の頭がまな板をのぞく。
「料理中に背後に立つな」「……なんか、プロっぽい感じ」「学生時代はその道も考えていた」「やっぱり? ちょっと感じてた。だって、道具いつもピカピカだし」
「せんせー、手際はプロだけど、味は普通だよね。僕は好きだけど」
「レシピ通りに作るからな」九鬼は目分量に一切頼らない。
「あと、食べている間は話さないように」「うちじゃみんな話してたけどなぁ」
時田は食事の前後にきちんと手を合わせる。「ごちそうさま」
魚は綺麗に骨だけだ。
「いつもありがとう……」と何か言いかけて、はっとしたように時計を見る。
「ごめん、もう行かないと。あと片付けできないや」「いいよ、こっちでやっとく」
立ち上がる時田の顔色が悪い。「レバニラ炒めの残りが嫌だったか?」「あー。うん……」好き嫌いがすぐ顔に出る。特にピーマンだ。
時田の背中を見送る。しなやかにフローリングを歩く足には赤いペディキュア。マニキュアも同色で、耳にピアスが光る。彼はこの時間からの仕事に行く。あえて詮索していない。余計なことを知り、教師の立場とこの食卓を天秤にかける羽目になるのは御免だ。時田は靴を履きながら肩越しに白い歯を見せた。「お魚美味しかった。今日のは甘かったから、明日は辛いのがいいな」「分かった」
一人残ったちゃぶ台で、キャンドルの火を吹き消す。思いのほか部屋は暗くなった。
キャンドルのピンクは、何の香りの象徴だろうか。細い煙が換気扇に寄っていく。
何も匂わない。煮魚を口に運ぶが、かすかな苦みが広がるだけだ。
九鬼は学生時代に感染症にかかり、味覚と嗅覚に後遺症を負った。
障害は明かしていない。知れば、時田は来なくなるだろう。味音痴の自分一人のためだけなら、真面目に料理を作る必要がない。あの子はきっと遠慮する。
リハビリの成果が上がらぬうちに意欲を失い、キャンドルは三年間放置していた。
今は時田が火を灯してくれる。「つけてると食欲がわくから」と彼は笑う。
あの子の味のリクエストに応えることもリハビリになる。夕食に呼ぶ三つ目の理由だ。米粒一つ残らない茶碗と、時田の赤い箸が綺麗に並んでいる。九鬼は作ったものを食べてもらう嬉しさを、今は噛みしめている。やはりこちらが天職だったようだ。
「いいフローラルね、九鬼先生。ついに彼女ができたって、噂になってるわよ」
そう言って彼女は部屋のブラインドを上げた。正午の陽光がまともに当たり、九鬼は目を細めた。寮の栄養士は年配だが颯爽とした印象の女性だ。白衣を翻してデスクに着く。向き合うと、丸椅子がいつものようにきしんだ。
担任のクラスに寮の運動部員を抱える九鬼は、彼女と話す機会が多い。
「運動部員が量を食べること自体は、問題ないですよね。工藤先生」
工藤は教師ではないが、九鬼は先生と呼ぶ。
「そうねえ。無理に身体だけ大人にならなくても? っていうのは、持論だけど」
「一人、経済的に余裕のないご家庭の寮生がいるんです。僕が、捕食のおにぎりを作ろうと考えています。監修をお願いしたい」
運動部員のある寮生が身体作りの過程で過食に陥り、保護者からクレームが入った。現在、寮の食事は減量中だ。それを不安に思う生徒もいる。
「保護者の許可があればいいわ。でも、特定の生徒に肩入れするのは大丈夫?」
一ヶ月後にドラフト会議を控えて、食事量を制限されたあの生徒は、いつも冷や汗を垂らしている。「こうしている間にも、筋量が減るのが怖くて……」
「彼の場合、食べられないことが、負担になっている。一ヶ月と区切るつもりです」
「それがいいわ。人間の栄養は色々。ああ、好き嫌いはきちんと聞いておくのよ。美味しいが一番大事だから。手紙は書いたげる」「ありがとうございます」
工藤はPCを開き、保護者宛ての手紙を打ち込み始める。不意に手が止まった。
「でも、あなたが握ると、アロマぷんぷんのおにぎりになりそう。それは大丈夫?」
「ある人によれば、これは食欲増進になるそうです」
「ユニークな人ね。やっぱり彼女できた?」「違います」話す間に手紙がプリントアウトされる。「リハビリがんばってね。あなた、とてもいい顔になった」
以前、味を感じないのだからと自暴自棄気味な食生活に陥り、倒れたことがある。
それ以来、この人が九鬼の「先生」だ。ずっと頭が上がらない。
赤いキャンドルが夕餉の卓を照らしている。
時田の黒い瞳に、いつもの輝きがない。赤い箸が宙を彷徨う。今晩の主菜は、ピーマンに、ピリ辛の肉を詰めたものだ。息をついて目をつぶり、やっと口に入れた。肉とピーマンにバラしたりせず、次もそのまま口に運んでいる。
九鬼が噛みしめたピーマンはしっかり苦い。苦みだけはわずかに感じられる。記憶と味が一致する貴重な食材だ。個人的には毎日でも食べたい。ただ、時田に出すなら、それは「好き嫌いを克服させる」という押しつけだ。やはり罪悪感を覚える。
「昨日の今日で、無理に食べさせて悪かった。残してもいいんだ」
時田はちょっと驚いた顔でこちらを見た。髪を押さえて小首を傾げる。
「気持ちが美味しい」ピンク色の唇から白い歯がのぞく。少し照れくさそうだ。
時田は綺麗に食べ切った。「いつもごめん」と言いながら、慌ただしく席を立つ。
九鬼はPCで通販サイトを眺めていた。あの靴はもうだめだ。
「あ、せんせー。明日は苦いのがいい」玄関から外の冷気が入る。咳き込む音が聞こえた。「分かった」ふと、玄関に目を移す。時田は今日は珍しくサンダル履きだ。興味本位で聞く。「靴のサイズはいくつだ?」「二十四・五」夜の闇の前で、振り返らずに言う。また小さな咳が聞こえた。「そうか、それくらいだと思っていた」PCに顔を戻す。「ごめん、実は二十五」なぜかしょんぼりとしたような声が届く。
振り返るが、閉じたドアがあるだけだった。
アラームに目を覚まし、スマホを探す。ちゃぶ台を這いずっていた。五時三十分。
身体を起こし、腰をさする。調べ物をしている間に床で眠ってしまった。
カーテンの隙間から床に一筋の朝日が差し込んでいる。すぐに起き上がる気になれず、首を回しながら何気なくちゃぶ台のキャンドルに火をつけた。
ベッドに横たわる人影が浮かび上がった。九鬼はぎょっとして立ち上がる。鍵の点検をせずに眠ってしまっていた。
足音を立てないように近寄り、窓辺から顔をのぞき込む。
艶やかな黒髪がシーツに扇のように広がっている。白い肌、閉じた長い睫毛。ピンク色の唇から微かに寝息が漏れる。耳には見覚えのあるピアスだ。スタバのガラス越しでは判別できなかった。頬の肉が寂しい。また少し痩せた。
「ん……」少女は身体を震わせる。ゆっくり目が開き、黒い瞳が露わになる。茫洋とした顔が、こちらを向いた。
「せんせー、なんでここにいるの?」かすれた囁き声だった。
「スタバの子は、君だったんだな」
時田の目が見開かれた。布団が舞い、上体がはね起きる。見覚えのあるオレンジ色のカーディガンが現れた。彼はゆっくり部屋を見渡してうつむいた。
「ごめんなさい……。部屋間違えた。昨日すごい疲れてて、確かめもせずに……」
「とりあえず、コーヒーを入れるから」「うん、ごめん」
九鬼はレンジの前でごはんの解凍を待っている。昨日の残りではおにぎりを作るのに足りない。目をやると、時田はちゃぶ台の前で黒髪のウィッグを膝に乗せている。
キャンドルは灰色のものに替えられていた。火に頼る部屋は薄暗い。
顔を上げ、「何も聞かないの?」とこちらを見る目に、怯えの色がある。
「なぜ、スタバでノックした?」背後でごはんの解凍が終わる。
「あの日昼勤でさ。帰りに偶然見かけたの。一度この姿を見てもらいたくて」
時田は一つ小さな咳をした。白い顔に火影が揺れる。
「おかげで靴がだめになったよ。目はカラコンだな」
「うん……ごめんなさい。これが僕の本当の姿なんだ」
「男の姿でここに来ていたのは、俺に気を遣ってくれていたのか。正直、君は女の子にしか見えないが」
「声」先ほどから、時田の声はハスキーで艶っぽい。
「女の子として通える高校に行ったんだよ。皆いい人で本当に楽しかった。でも、声変わりで、一度笑われちゃって。それから、この姿では声が出ない」
「いまは普通に話せているな」
スタバの窓の向こうでも、声はなかったのだろう。
「不思議だよね。いま自分でもびっくりしてる。ここ、家みたい」
たかが数年の教員経験では、こんなときの正解がすぐに思いつかない。九鬼はキッチンに顔を向けた。壁のアルミパンに、昇る朝日が届いた。鈍く輝いている。
「職場では平気なのか」間を持たせようとして、つい詮索になってしまう。
「うん。理解してもらってる。夜はあまり話さないでいいから、本当の自分でいられるんだ。僕は倉庫で働いてる。夜勤が多くて静かで、合ってる」
背後で、時田が立ち上がる気配がした。
「帰るね。ほんとに色々ごめんなさい。もう、出入りしない方がいい……かな」
レンジを開けると、蒸気が噴き出した。まだ当分握れない。
「今晩から食事中には話そうか。声を出す練習をしよう。未成年じゃあるまいし、これまでとおり、何も気兼ねしないでいい」気の利くことは何も言えなかった。
「……うん」嬉しそうな声の返事で救われる。
「それと、今度からは四合炊いておいてくれ。おにぎりを君の分も作る」
一人で、昨日と色の違うキャンドルを眺める。時田は九鬼の障害に気づいているのだろう。毎日違う香りをたて、多様な味のリクエストでリハビリを助けてくれていた。
その夜、時田は自分の姿で部屋に来た。
鎖骨も露わな黒のニットとグレーのプリーツスカート。部屋にいて、胸を衝かれることもあるが、「僕はそういうの、なしだから」と笑う。九鬼には、ありがたい気遣いだった。初めから拒絶してもらう方が考えないですむ。
ただ、もう女の子として接することにする。
その夜は秋祭りで、部屋の窓から花火が見えた。時田は夜空に咲く花を背景に、自撮りではしゃぐ。「フォロワーが増えるか」食事の後片付けをしながら九鬼は言う。
先ほど教わった彼女のSNSは、フォロワー数はこじんまりとしているが、女の子としての日々のスナップが綴られていた。いつの間に撮ったのか、料理の写真もある。
「それだけじゃないよ。今の楽しさを忘れたくなくて」
ちゃぶ台の白いアロマキャンドルの向こうで、小柄な背中が夜空を向いていた。風が吹き込み、火と黒髪が揺れる。
今晩は青いキャンドルに火が灯っている。「もう肌寒いね」と、カーディガンの前を合わせながら、時田が窓を閉めた。火は一度ゆらめいて真っ直ぐになる。
「作りたてって、こんなに美味しいんだ。新鮮って感じ」
時田は九鬼手製のポテトサラダに声を弾ませる。金髪は染めているのではなく、地毛らしい。それが肩まで伸び、彼女はもうウィッグを使わない。
「芋は保存が利くが、新しいうちは水分も多い。結構違うだろう」
食卓には、お互いの好物を並べるようにしている。その方が会話が弾む。
「お惣菜でしか食べたことなかった。ほんとに違うね」
微笑む彼女の頬は、以前と変わらず張りがない。ただ、痩せるのは止まった。
ちょっとした満足感を覚えながら、九鬼もサラダを頬張る。
違和感を覚えた。咀嚼しながら、なんだろうと思ったのは数秒だ。わずかに酸味がある。息をのむ。同時にアロマキャンドルの香りが鼻を抜けた。麻痺していて気づかなかった。どうも先ほどから感じていたらしい。
少しずつ良化していたものが、やっと表に現れてきたようだ。彼女のおかげだ。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
「俺の味覚や嗅覚がおかしいのに、いつ気づいた?」静かに尋ねる。
時田はすっと背筋を伸ばし、箸を置いた。
「入居前の見学に来たらさ、外までアロマの香りが漂ってた。きっと素敵なお姉さんが住んでるんだろうなぁって思ったんだ。そしたら、せんせー出てきて……」
ふっと息を漏らして笑う。「こんなにアロマの香る部屋。普通、ずっとはいられないよ。あれ? って思うじゃない」
いま蘇ったかすかな嗅覚でも、食欲がわくと思えない。この子はずっと我慢してくれていたのだろう。リハビリはまだ続くが、食事の間は消していいと思う。
「助けてくれていたんだな」と頭を下げる。「これからは……」
顔を上げると、時田の顔が蒼白だった。彼女は目をつぶり、口元を押さえ、「うう」と小声で唸る。そして席を立つ。あっけにとられて見送るうちに、トイレのドアが閉じられ、水の流れる音。苦しげなうめき声で、吐いているのが分かる。
九鬼は少しためらったあと立ち上がり、キッチンの流しにもたれた。玄関の時田のスニーカーが目に入る。踵が潰れていた。
ドアが開き、ハンカチで口を押さえた時田が出てくる。潤んだ目と、青白い顔。
「背が伸びているんだな。もしかして、それで食べられないのか?」
うつむいた時田の足下に、涙が一粒落ちた。
「ごめんなさい。先生のお料理だけは食べられたのに……無理になっちゃった」
ぽつぽつと彼女が語るには、両親とも長身で、特に父親は二十歳を過ぎても身長が伸びたという。病院で診てもらってはいるが、成長が止まらないでいる。
「仕方ないんだけど」彼女は狭い玄関で、両手を広げる、カーディガンの袖から手首が三センチは出ていた。「これもすぐに着られなくなる。こうして、何もかも離れていくんだって思うと、だんだん、食べられなくなった」
消え入るような声が続く。「どうなるのか……ただ、怖い」
彼女は顔を上げた。噛みしめた唇が真っ白になっている。
「ありがとう、先生。ごめんね」
とっさに腕を掴んだ。出て行けばもう来ないと思った。
「君が来ないと、俺はまたリハビリをさぼる。助けてくれ」
掴んだ手の甲に彼女の手が添えられる。肌が冷たい。
「さっきから匂い感じてるよね。だって先生、顔に出るんだもん。分かるよ。僕がいなくても、もう大丈夫」柔らかく手をほどかれた。
微笑みと涙を残して時田は部屋を出て行った。
トイレのドアを開けた。中は綺麗に掃除されている。消臭剤が匂った。
「食べ物が怖いのね」
工藤は静かに言う。九鬼はすべてを打ち明け、助言を請うていた。
「医師に相談はしているそうなのですが、自分にもできることがあるはずだと」
「そのキュートなお隣さんは、あなたの恩人だものね」
「私の料理があの子の症状を進めた。自分のことばかり考えていました」
九鬼は膝の上で拳を握る。椅子がきしんだ。
「成長を抑制する食事、というのはこちらの常識にはない。でもね、プロは何事にもいくつかの答えを持っている。料理の道にも虚実はあるのよ」
工藤はいつになく真剣な顔でPCを操作する。プリンターからA4用紙が一枚排出された。見ると、様々な食材のたんぱく質の量が記されている。
「低たんぱく食、ですか。説得力はあるかもしれませんが、実際の効果は……」
「今は、食べ物は安全と思ってもらうことが大事。効果より説得力よ。その子はあなたになら、騙されてくれるんじゃないかな。もちろん医師には相談すること」
時田の体重から算出すると、最も厳しい制限で一日に摂取できるたんぱく質は三十グラム程度だ。ごはん一杯で五グラム、卵一個で七グラムにもなる。この条件で満足のいく食卓を維持するのには、相当な努力が必要だ。
それだけのものを、もう彼女にはもらっていた。
「緊急避難ということですね。やります。ただ、また来てくれるかどうか」
あれから二日経つが、時田はいつも部屋におらず、すれ違っていた。
どこかでお腹を空かせていると思うと、立ち上がりそうになる。
「あなたのアロマおにぎり、好評らしいじゃない? 野球部の子は喜んで食べてる」
それまでとは打って変わる気軽な口調だった。
「人によると思いますが」少し戸惑いながら顔を上げる。
「彼女はアロマで食欲がわくって言ったんでしょう。信じてあげたら。いくら優しい子でも、全部は嘘をつかない」
声をかけると、彼女はびくりとして振り向いた。オレンジのカーディガン。スポーツバッグを肩に掛けている。辺りはまだ暗く、夜明け前だ。
あのスターバックスの前で、九鬼は待ち伏せていた。彼女はここを仕事帰りに通ると言っていた。時田は逃げ出したりはせず、ただじっとこちらを見上げる。
「外ではまだ、声が出せないか」
彼女は人差し指を口に立て、唇を動かした。この仕草は、話せないというシグナルのようだ。そして、にっこり笑い、あの日のように立ち去ろうとする。
「お腹、空いているんだろう」銀紙に包んだおにぎりを放る。
時田の小さな手が、包み込むようにキャッチした。
「よくもそんなアロマくさい食べ物を、食べてくれていたんだな」
銀紙のままのおにぎりが、彼女の鼻に寄っていく。そしてふっと息が漏れた。
「気持ちが美味しいって、言ったじゃない」
彼女は目を見開いた。「あ、声……」涙がこぼれていく。
「香りが、家みたいだろう? 帰って朝飯を食べないか。大丈夫、信じてくれ」
今日は紫色のキャンドルが、ちゃぶ台に鎮座している。
おひたしの小皿を時田は両手で受け取った。匂いがきつかったのか、一瞬怪訝な顔をする。「飽きないように変化をつけてみた」「う、うん」
一ヶ月ほどかかったが、彼女はようやく普通に食べられるようになった。低たんぱく食は続いている。最初の想定どおり、献立作りはハードだ。調整された専門食の助けも借りつつ、日々の食卓を繋いでいる。一品二品、風味を強くして満足感を上げるのがコツだ。しかし、今日のおひたしは実験的すぎたかもしれない。
時田はランチョンマットを敷き、食器を並べている。キャンドルの火に照らされる艶やかな髪は、もう胸元まで伸びた。頬もふっくらとした。黒い瞳がこちらを向く。
「せんせー、あとは何?」「ごはんと、鶏肉のボイル。大根とネギの味噌汁」
「これ、アレだね……」ぽつりと言う。
ほうれん草のおひたしにハーブを混ぜたのは、やはり極端すぎた。
「食べないと冷める」
「うん……あのさ。油、どのくらい減った?」
そんな約束もあったな、と今さらのように思い出す。
「こういうのは、きちんとしないとだめだと思う」妙にかしこまった口調だ。
「うーん、まあ。残り少なくはあるかな」微量を残し、いまは他の油を使っていた。
彼女は背筋を伸ばした。髪がほどけるように胸元に流れ落ちた。
「先生、ここでしばらくごはん、食べさせてください。食費は出します」
「こちらこそだよ。いつまででもいたらいい。ただ、背を伸ばしたくなったり、思ったことがあれば、必ず言うように。嘘はなしだ」
「はい!」何でもしてやりたいな、と感じる笑顔だった。
「とりあえず食べよう。冷めたら、もっとまずくなる」
「先生、これほんとまずいね……」時田が上目遣いでつぶやく。
「そうだ、それでいい。嘘はなし。次からは気をつける」
「でも、いつも工夫してもらえて、すごく嬉しいんだ。ありがとう」
彼女の笑顔を眺めながら、おひたしを顔に近づけると、土の匂いがした。口に入れる。道草を食うとはこのことだろう。口に広がるのはエグ味と、濃厚な草の香りだ。
九鬼は、久しぶりに味を味わっている。今、実感している。本当にまずい。
「僕はこれでいいんだけど、先生は、物足りないよね」
「じゃあ明日から五合炊いておいてくれ」「うん、毎日炊くよ」
紫のキャンドルからラベンダーが強く香る。
「消してもいいか?」揺れる火を眺めて言う。
「僕は平気だよ」彼女は優しい目でキャンドルを見ている。
「ありがとう。君のおかげで、かなり味も戻ってきているんだ。食事どきはもう、やめよう」いつ言おうと思ううちに、後出しになってしまった。
時田は小首を傾げる。「僕、気づいてたよ。だって、せんせー顔に出るもん」
クスクスと笑い、「消すね」とキャンドルにふたをした。
食卓に明かりが灯るまで ナキヒコ @Nakihiko
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