繰り返す世代
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年8月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
その日の朝は、普段と違って、早朝から蒸し暑さと気温がうなぎのぼりで、昼間は表に出ることが、億劫になるということを想像させるだけのものであった。
日差しが差し込んでくる朝は、それまでの梅雨の時期に比べれば、心地よい感覚だと思っていたが、今年の夏は、例年にも増して、早朝から湿気がひどく、呼吸困難に陥りそうな気がするくらいだった。
それでも、散歩をしている人は相変わらずで、ジョギングの人も、ひたすらに走っているという雰囲気を醸し出していたのだ。
都心部の、
「市民の憩い」
と言われてきた公園では、公園のほとんどは、中心部の池である・
池を中心としたところに遊歩道があり、そこに距離も書いていることからも、
「ここが、ジョギングコースである」
といっているというものだ。
しかも、歩道には、
「歩行者専用」
と、
「ジョギングコース」
とに分かれている。その途中には、一定の距離をおいて、ベンチが配置されていて、休憩ができるようになっていたのだ。
いつも、そこに座り、休憩をしている人も決まっているようで、
「朝が早い老人」
が数名、池の水面を見ながら、その眩しさに、
「夏の到来」
というものを感じていることであろう。
この公園は、絵葉書などにも使われていて、以前から、
「この年の象徴」
とばかりに言われてきた。
公園の池の中には、
「中島」
のようなものがあり、そこを、渡し橋のようなもので遊歩道とつながっていて、
「いかにも、どこかの離宮を思わせる」
という感覚であった。
その途中には、
「東屋」
のようなものもあり、まるで、
「宮廷文化」
というものを思わせる感じになっているのであった。
実際に、ここができたのは、江戸時代のことであり、そもそもは、
「お城の一部」
といってもいいだろう。
実際の、
「縄張り」
というものの中にはあったが、配置的には、
「内堀と外堀の狭間にある」
という場所であった。
内堀から中は、
「大名屋敷」
というものがあり、郭として、
「三の丸」
「二の丸」」
「本丸」
と城郭ができていて、その中心には、天守台が残っている。
実際には、
「天守閣が存在した」
とされているが、実際には、現存はしていない。
「復興計画」
というものもあったが、管轄する市の方で、閣議を開き、検討したところ、
「再建するできるだけの資料がない」
ということで、今のところ再建計画はない。
聞こえはいいが、
「要するに、再建するための金がない」
ということを、体よく言い訳をしているだけであった。
実際に、いろいろなところで、
「天守復興運動」
というのが行われている。
実際に、藩主としては、全国でも竜力大明の治めたお城ということで、
「かなり大規模な天守だった」
ということは分かるというものである。
実際に、どこまでの天守だったのかということは、どこまでの資料が残っているのかは分からない。ただ、当時の時代背景から考えると、
「天守に対しての意見はさまざまだったに違いない」
といえるだろう。
実際に、この城がここに築かれるようになったのは、
「天下分け目」
と言われた、
「関ケ原の合戦」
のすぐ後のことである。
関ヶ原の戦いによって、論功行賞によって得られた土地に、転封された、
「戦の功労者」
によって、
「城が新たに築かれた」
という時代でもあった。
というのは、
「まだまだ大阪城にあって、幕府への不満を持った、豊臣恩顧の大名たちの抑えにならないといけない」
ということで、方々に、
「城が築かれる」
ということになるのであった。
だから、関ケ原以降に建てられた城の中には、
「堅固な城」
というのも結構あり、その後の、
「豊臣家が滅亡する」
ということになった、
「大坂の陣」
というもの以降、今度は、その城が、幕府にとって邪魔となってきたのであった。
「豊臣の抑えということで築かれてきた城」
ということであるが、
「仮想敵」
というべき豊臣家が滅んでしまい、今後は、
「元和偃武」
と言われるように、
「平和な時代になったので、武器を倉に納めて、封印する」
という意味でできた、
「元和」
という年号というものに代表されるように、
「長かった戦乱の時代が、完全に終結した」
ということを宣言するとともに、
「戦のない世を、確立しなければいけない」
ということで、
「城というものに対しての考え方」
というものも、明確になってきたのであった。
そこで出てきた発想として、
「一国一城令」
というものである。
つまり、
「一つの藩には、一つの城」
ということで、
「行政を行うための城」
になるのだ。
つまりは、今でいえば、
「都道府県庁」
であったり、
「市役所」
というような、
「執務を行うところ」
ということで残すだけで、他にある城は必要ないということで、
「すべてを廃城」
ということにしたのだ。
さらに、
「武家諸法度」
と呼ばれる、法律の中には、城に関してのものもあり、例えば、
「新たに城を築いてはいけない」
あるいは、
「城の改修を行う場合は、幕府の許しを得化ければならない」
ということにしたのだ。
もし、これを破れば、
「謀反の心あり」
とみなされて、
「お家は改易」
そして、
「藩は取り潰し」
ということになるのだ。
そうなるとどうなるかというと、
「藩に召し抱えられていた武士たちは、禄を失う」
つまりは、
「皆、失業者」
ということになり、浪人となって、街にあふれるのである。
実際に、大坂の陣の後、大規模な改易が行われ、数多くの藩が取り潰されたことで、
「失業者があふれた」
ということになったのだ。
それが問題となり、当時の
「改易ラッシュ」
というものが減ってくることになったのだが、
「城に関しては、かなり厳しかった」
ということのようで、藩主の中には、
「せっかくあった天守を、幕府から睨まれたくないという理由で、壊してしまう」
ということが結構あったという。
中には、天守代用ということで、
「御三階櫓」
というものにすることで、
「幕府の追及を逃れる」
という方法を取ったところもあった。
「それだけ、当時は、粛清というものに、大名は敏感だった」
ということである。
なんといっても、
「三河時代からの譜代大名」
と言われる、幕臣でもあった大名を取り潰したり、中には、
「将軍家とかかわりのある」
という大大名にも、因縁を吹っ掛けて取り潰すということまでやってのけているということなのだから、
「幕府というものと、大名との間にどれだけの大きな確執があったのか」
ということである。
大名というものは、中央から委任されて統治させられているというわけではないので、本来であれば、
「結構な力を保有できる」
ということになるのだろうが、それを幕府が抑えるには、結構な力を、、幕府が持つ必要があり、
それができないのであれば、
「藩の力をそぐ」
ということしかないわけである。
そのために、いろいろな対策が練られた。
「天下普請」
ということで、幕府の工事を、各大名が賄うというのもその一つである。
または、
「参勤交代」
ということで、
「半年や一年、藩主が江戸に通ってくる」
というものである。
だから、その分、大名行列であったり、藩主が江戸にいる間の費用など、目的としては。
「天下普請」
と同じで、
「藩に金を使わせて、謀反を起こせないようにする」
という方法であった。
本来であれば、
「封建主義」
なのだから、
「御恩と奉公」
ということで、
「土地を守ってくれるかわりに、幕府に奉公する」
というのが当然なのだが、これでは、ある意味、
「恐怖政治」
と呼ばれるものであった。
あくまでも、
「幕府を守るため」
つまりは、
「徳川家の繁栄だけ」
といってもいいかも知れない。
特に、江戸時代中期からは、社会問題として、
「幕府の財政圧迫」
というものが深刻になってきた。
各藩の方も、それ以前の
「天下普請」
であったり、
「参勤交代」
などによって、金を使わされているのだから、幕府ところの話ではなく、
「自分たちの尻に火がついている」
といってもいいだろう。
いろいろな対策を取ったが、結局、うまくいかず、時代は、幕末の、
「開国」
というものから、
「尊皇攘夷」
さらには、
「倒幕」
というものにシフトしていくのである。
そして、幕府がなくなり、今度は封建制度から、外国の政策を取り入れた、
「立憲君主国」
というものに変わっていくことになる。
その政策の中の一環として、
「廃城令」
というものがあった。
これは、
「軍の施設として利用できるところ以外は、廃城とする」
ということで、
「そもそも、封建制度時代の古臭いものはいらない」
ということである。
特に、
「城というのは、封建制度を代表するもので、新しい政府になったのだから、廃城とするのは当たり前のこと」
といってもいいだろう。
そして、今度は、
「立憲君主国」
という。
「大日本帝国」
が、戦争に突き進んだことで、最終的に、城は、
「物理的な崩壊」
というものを迎えることになる。
それが、
「本土空襲」
というもので、
「絨毯爆撃」
と言われる、
「兵士でなくても、一般市民に対して、しかも、病院、学校など関係なく爆撃を行う」
ということで、お城も例外ではなく、
「空襲によって、崩壊した」
という大都市にあった城は数知れないといってもいいだろう。
「名古屋」
「岡山」
「大垣」
などの、有名な城は、大都市への大空襲により、崩壊してしまったのである。
つまりは、
「江戸時代初期の、一国一城令」
あるいは、
「明治初期の廃城令」
そして、
「大東亜戦争末期における。本土大空襲」
というものによって、
「三度にわたる城の崩壊」
というものがあったのだ。
だから、今実際に、
「現存している」
と呼ばれる城は、
「姫路城」
「松本城」
「彦根城」
などを代表として、
「十二城」
だけであった。
この、
「現存」
というのも、
「江戸時代以前に作られてから、一度も崩壊したり、建て直しのなかったお城」
という条件になるのである。
だから、実際に、
「途中で建て替えられた城」
というのも、その中には混ざっている。
「松本城」
であったり、
「宇和島城」
などがその代表で、しかも、
「どちらも、築城時期とはまったく違った形の天守になっている」
というのが、面白いところである。
実際に、
「お城の歴史」
というのを勉強していると面白いというものだが、今の公園を見ていて、
「ここが、昔はお城の一部だったなんて」
と最初から理解できている人がどれだけいるだろう。
確かに、道を挟んで反対側には、
「城址公園」
というものが広がっていて、
「花見の名所」
ということになっている。
そもそも、城址公園というのは、
「花見の名所」
と呼ばれているところが多い。
やはり、今も昔も、
「花見というのは、年中行事としては、かなりの地位を秘めていた」
といってもいいのではないだろうか?
城址公園の横に広がっている、大きな池を有する公園は、
「市民の憩い」
とともに、
「観光の名所」
さらに、
「デートスポット」
としても、忘れられない存在だといってもいいだろう。
そんな公園を毎日のように歩いている人は、結構多いが、中には、
「たまに歩く」
という人もいる。
それでも、初めて歩いたという人も、これもたまにいるのだろうが、そういう人に限って、
「普段なら、誰も気にもしないようなものを見つける」
ということがあって、しかるべきなのだろう。
「興味津々ということなのか」
それとも、
「気づかないことに気づく神」
というもののいたずらなのか、
「えてして、不思議なことだ」
と言われる中で、
「あるある」
とも言われることであろう。
ただ、そんな、
「興味津々」
という意識を、本人は表に出しているわけでもなければ、意識しているわけでもないようだ。
だから、
「本人の予期もしていなかったことを、いきなり発見したりする」
ということになるのだ。
それも、
「見たくもない」
というものを発見してしまったりするわけで、
「うれしくもなんともない」
というわけだ。
それが、
「それを見たために、トラウマになってしまう」
というほどの衝撃的なものであれば、本当に、
「見るんじゃなかった」
と思い、見てしまった自分の運命を恨んだりするくらいである。
その日の朝は、実際に、
「何か嫌なものを見る」
という感覚だったといえるだろう。
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