ひとになるとき

白菊

 神は彼をつくった。地上に彼をつくり出した。今、この瞬間のことである。

 神は彼を〝彼〟と表すにふさわしい形を、彼に与えた。つまりは人間ヒトの、オトコからだである。それは完全なものであった。形のために骨を与え、肉を与え、それらの組織を覆うはだを与えた。むろん、そこには血を与えた。すべて後ろへ流したブロンドの髪を伸ばす膚で覆う骨の中には脳を与え、それを全身の神経と繋いだ。額には眉を、その下には眼瞼まぶたを、その奥には黄色の虹彩を持つまなこを与えた。その眼は見ることをし、耳は聞くことをし、鼻は嗅ぐことをし、複雑な神経によって膚の中で繋がっている脳へ情報を送った。そこに一切の異常はなかった。


 彼は首の中には声帯を持ち、またそれを動かす筋肉も持っていた。口脣くちびるの奥には舌を持ち、それを動かすことに障礙しょうがいを持たなかった。それらを発声のために使おうという発想もまた持たなかった。


 彼は誕生と同時に、その體に黒服を着けていた。黒の、前にぼたんが縦に並んだ服である。彼は首元に白の帯状な布を結んで垂らしており、その上に、着けている服とは生地の異なる服を重ねていた。おなじ黒であるものの、生地の異なるために光の受けようもまた異なり、下に着けている服とはいくらか色に受ける感じが異なっている。そちらもまた前には縦に並ぶ鈕があり、鈕は反対の穴を通っている。


 腰より下も、黒の生地によって覆われている。二股に分かれた下半身用の服である。その生地は上體じょうたいが一番外側に着けているものとよく似たものであって、およそおなじ色に見える。


 彼の足は黒いなめがわで保護されていた。いくらか光沢のある、馬革の靴である。


 彼はこうした形で、直立のなりで乾いた土に横たわって誕生した。彼は呼吸して、體を動かして起き上がり、足で立った。


 彼は空気が動いて鳴るのを聞いた。風だった。

 彼は、視界の端で動くものを見た。虫だった。

 彼は鼻腔から刺激を受けた。——匂いだった。

 どれも不要であり、しかし無害であった。彼は呼吸を続けて、立ったままでいた。


 何事も起こらなかった。日が沈んでいった。體が当初と様子を変えていた。彼は脚の関節を曲げて、地面にしりをつき、脚を伸ばした。それから初めにそうしていたように、背を地面につけた。體はなにか感覚を起こしながら、元の状態へ戻っていく。彼は視線の先に戻ってきた空を見つめ、呼吸を続けた。


 彼は眼瞼を開いて空を見つけた。それから理解した。行なうべきことを行なうのには、このままでいては効率が悪い。

 體を動かして、立った。脚を動かして、先へ足をついた。広大な場所に対して小さな一歩を、規則正しく繰り返した。


 次第しだいに風景が栄えてきた。遂に町へ出てくると、膨大な情報が彼を飲み込もうとした。彼は足を止めて、見て、嗅いで、聞いた。存在と匂いと音とを適切に結びつけた。人間にんげんがいる。それが声を出している。動くことで音を立てている。人間がいる。それがものを摑み動かしている。それによって音が立っている。この音はそこで、この音はあそこで——刺激が無害なものに落ち着くと、彼は體を動かした。


 右方でドアが勢いよく開いた。がたいのいい男が飛び出してくる。「まったくあいつぁこんな時間までなにをしてるってんだ!」

 彼は男を見た。男は彼に気づいて「ちょうどいい!」と声を上げた。「ちょっとうちの店を手伝ってくれないか!」

 彼は頷いた。それで、「奥へ行ったら、おれの世界一の美人な妻がいるから、そいつに声をかけてくれ!」と男に押し込まれるままドアの中へ這入はいった。

 彼はその通りにした。もっとも、声をかける前に女が反応した。彼は美醜を見分ける能力を持ち合わせておらずその女が今し方男がいったような女であるかは判断がつかなかった。

「あら、どちら様? ああ、本当なら帰っていただくべきなのだけれど、今はちょっと勝手が違うの。とっても忙しくてね、手伝ってくれるかしら!」

 彼は頷いた。

 女も頷いた。「ありがたいわ! お皿を洗ってくださる? どんどんくるから、手際よくお願いね!」

 彼は頷いて、「あっちよ!」と女の指先が向けられた方へ向かった。

 流し台にたんまりと食器が置いてある。彼はその場の様子を見て、流し台へ突き出した棒の根元の右側についたものを動かした。流し台に突き出した棒の先から水が出てきた。それを見ているうちに、がしゃんと音を立てて食器が追加された。

 彼は理解して、青い長方形なものを手に取った。濡れていて、揉んでみれば泡が出てくる。そばになにか長細い容器があった。それを見れば、食器の洗浄に使うものらしかった。

 彼はその容器の中身を含んでいるらしい長方形なもので皿を洗った。手際よく、と女がいったから、その通りにした。

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