Foggy Head

「わたしね、おかしいけど、おまえになら殺されてもいいと思ったんだ。

 おまえにひどいことをしたわたしが許せないなら、殺してもいいよ。

 ――どうせわたしは、本当だったらあのときおまえに殺されて死ぬはずだったんだから」


 混乱しきったラッドの頭には理解のできないことを、アトラがつらつらと語る。ラッドの霧がかってぼやけた脳内に、アトラの声が響いて明滅する。


「でもね、ラッド。わたしを殺したらエンシアも死んじゃうよ。なんかね、治すのがうまく行かなくて、魂が同化しちゃったんだ。

 ――ラッド、おまえは、わたしとエンシア愛した女を殺せるの?」


 エンシアが、ラッドの目を見た。感情の読みにくい表情をしていたが、その目の奥は真っ直ぐにラッドだけを見つめている。

 ラッドが無意識に一歩後退あとずさると、足元に散らばる紙を踏んで靴底が滑った。床に尻もちをつく。脚にくくっていたオイルランタンが外れて、ころころと転がってラッドから離れた。

 ラッドはエンシアから目が逸らせないまま、喉を震わせた。


「……なんで、おれだったんだ?」


 気の抜けた、かすれた声が喉からこぼれる。刹那の間黙して、アトラがおもむろに口を開いた。


「おまえじゃなかったんだ。本当に欲しかったのは」


 床に尻をつけたまま、身体を逃がそうとしたラッドが手のひらで床を掻いた。紙束の上に転がっていた砂礫が掌底に食い込む。アトラもエンシアもその場から動かずに、真っ直ぐにラッドを見下ろしている。


「ねえラッド。昔、弱った魔獣を見逃したことがあったでしょ? 覚えてない?――あれ、わたしなの」


 んふふ、とアトラが笑う。隣に立つエンシアの身体を抱いて、頭にそっと頬を寄せる。エンシアの細い手が、同じ見た目のアトラの手に添えられた。


「わたしのこと、優しくなでてくれて、元気出してねって、パンもくれたエンシアが欲しかったの」


 うっとりとした様子で、エンシアの顔に頬ずりをするアトラ。ラッドの胸に甘えるときも、アトラは同じ表情をしていた。


「……でもね、エンシアには、わたしだけじゃだめなんだ。だってエンシア、おまえのことが大好きなんだもん」


 アトラの腕の中で、エンシアが口元を緩めた。自分を抱くアトラの腕を撫でながら、ラッドに薄墨色の視線を向ける。


「だからわたし、おまえも欲しかったんだ」


 エンシアの隣に立ったアトラの姿がゆらりと揺らめく。次の瞬間、アトラはラッドの眼前に立っていた。そのままゆっくりとかがみ込んで、ラッドの鼻先に顔を近づけてくる。――微かに、あの霧の饐えた臭いがする。

 追いつかない感情に引きつったままのラッドの頬を、アトラの存在感の曖昧な湿った指先が撫でる。


「ねえラッド。おまえ、わたしのことも好きなんでしょ? わたしのイカれたところも好きなんでしょ?」


 アトラの目が、ラッドの赤い瞳を見つめながら笑顔を作る。


「三人で、ずっと一緒にいようよ。わたしが人間の格好してるのが嫌なんだったら、もとの形に戻るよ」


 アトラの姿が揺らめいて、霧の中でよく見かける、あの黒い魔獣の姿に変わる。魔獣の小さな頭が、ラッドの胸に甘えるように擦りつけられた。


「んふふ……ラッド、大好き。嘘じゃないよ。最初はエンシアのためだったけど、わたしもおまえが欲しくなっちゃったんだ」


 魔獣の喉の奥から、声が聞こえる。

 ラッドは何も喋れなかった。胸に甘えてくる魔獣アトラの頭を振り解くこともできずに、心地よさそうに目を細めるその顔を、ぼんやりと見下ろす。真っ白に焼き尽くされた頭の中。ラッドの口から、うわ言のように言葉がこぼれた。


「おれは……」


 泳いだ目が、アトラの奥にいたエンシアに吸い寄せられる。ゆっくりと歩み寄ってくるエンシア。エンシアはラッドの目を見て微笑んで、足元に転がっていたオイルランタンを拾い上げた。


「ラッド、選んでいいよ。わたし、ラッドの決めたようにする。ラッドがアトラもわたしも許せないなら、死んでもいいの。ラッドが直接殺せないなら、わたしがアトラを殺すよ。――そうやって、アトラと話して決めてたの」


 ランタンを手にとったエンシアが、ラッドから離れた壁際まで下がる。アトラがラッドの胸元から離れて、それに倣うようにエンシアの後を追う。

 エンシアの足元におとなしく座ったアトラに、エンシアがランタンの中身をかけた。ラッドがこの日のために用意した、爆発的に火がつく特別な油だ。鼻腔をかすめる肺に沈むような不快な臭気。エンシアが、いつの間にか手に持っていた小さな箱をラッドに見せた。その中には、火種起こしが入っている。


 エンシアの細い指が、箱を開けて中身を取り出す。火薬が塗りつけられた小さな木の棒。箱に塗られた着火剤に擦り付けると、エンシアの指先が明るく灯る。


「おい、何やってんだ……」


 うわ言のように呟いて、緩慢な動きで立ち上がろうとするラッド。紙束で手が滑って、再び尻もちをついた。


「何って……火をつけるんだよ。ラッドがもういいって言ったら、ここでふたりで死ぬの」


 じゃり……っ。ようやく立ち上がったラッドの足元で、にじられた砂礫が悲鳴を上げる。紙に足を取られながらおぼつかない足取りでエンシアのもとまで歩いた。


 無言のまま、しばし見つめ合う。エンシアがゆっくりとまばたきをした。エンシアのその瞳は、かつてラッドに向けていたように、穏やかな感情をはらんで揺れていた。


「エンシア……」


 低い声で、名前を呼ぶ。エンシアの細い指が持っている赤く燃える火。ラッドは皮膚が焦げるのも厭わずに、それを手のひらで掴んで消した。


「やめろ。アトラに火がついたら――おまえ、また死ぬんだろ?」


 熱い火に触れた手のひらがひりつく。エンシアの華奢な指先から火種を奪い取って、後方に投げ捨てる。華奢な身体を抱き止めて、震える手のひらでエンシアの背中を撫でた。


「おまえ、ずっとおれのそばにいたんだな。気がつけなくて悪かった」


 力を込めて、薄い体を抱きしめる。胸の中でエンシアが咳き込んだが、構わずにきつく抱いた。


「エンシア……もういい。おれはおまえに怒ってない。もう死ぬなよ。ずっと一緒にいよう」


 細い髪をかき混ぜて、耳元にささやきかける。ラッドの胸の中で、エンシアがくぐもった声を上げた。


「うん……ラッド、大好きだよ……」


 腕に抱いたエンシアのぬくもりが、手を離せば消えてしまいそうな気がした。硬く抱いた細い身体。あの日、自分の人生から永遠に喪ったと思っていた、最愛の恋人。抱きしめ返してくれる細い腕。その存在を確かめながらゆっくりと、ゆっくりと腕をほどく。


 エンシアの白い頬が、薄く紅く染まっている。額にそっと口づけを落として、しばしの間、見つめ合った。窓から差しこむ晴れた朝の光。光を反射して白く輝くエンシアのまつげ。エンシアの薄墨色の目が、足元にいるアトラに向けられた。


 エンシアの視線につられるように、ラッドはふたりの足元に座ったまま黒い瞳でこちらを見上げているアトラを見る。目が合うと、魔獣アトラの尖った鼻先がふらりと揺れた。くつろいだ様子のアトラに向けて、ラッドが低い声を投げ捨てる。


「おいアトラ、おまえ、ふざけんなよくそが」


 のんきな様子で細められていた魔獣の目が、まんまるに開かれた。


「えっ、なんで怒るの? 今そういう流れじゃなかったでしょ」


 黒い魔獣は、口を閉じたままラッドに気の抜けた声を返した。どこから声を出しているのかはわからない。霧の状態でも喋れるようなので、人間の物理法則とは違う何かがあるのだろう。エンシアを背にしてアトラに向き直ったラッドは、粗雑に頭を掻いた。


「うるせえな、そういう流れだよ。おまえもこっちに来い、このイカれが」


「……しょうがないな」


 アトラが魔獣の姿で「はー」と息を吐いて、ふわりと霧に溶ける。黒い毛並みに載っていた油が霧を通過して床に跳ね落ちて、びちゃりと濡れた音を立てた。霧散したアトラが、ラッドの目の前に人間の形を作る。造作の端々にエンシアの雰囲気を残した、別人の女の姿。赤い色をした涼やかな造作の目が、ラッドに向けて笑顔を作った。


「どう? かわいい? おまえ、こういう子好きそう」


 にっこりと目を細めて笑うアトラに、ラッドはため息を返す。


「おまえ、本当に腹が立つ」


 アトラの、エンシアよりも少し肉付き良く作られた身体。その肩に手を触れると、皮膚の奥に指先が飲み込まれるような感触があった。実体があるのに存在があやふやな、そんな感覚。背筋が粟立って、ラッドが反射的にその手を離す。


「この姿、無理して作ってるから触り心地が変でしょ。わたしのこと触るなら、エンシアの中にいるときかわんこの時のほうがいいよ」


 んふふ、といつもどおりに笑うアトラ。その身体にもう一度手を触れて、輪郭のぼやけた身体を抱きしめた。


「おまえ、わんこなんてかわいいもんじゃねえだろ」


 反射的に息を吐いてから、ラッドは自嘲気味に笑った。


「……おれが一番のイカれだな。おまえも好きになっちまった。もういいよ、なんでもいい。おまえともずっと一緒にいてやるよ、ちくしょう」


 不安定な触り心地のアトラをぞんざいに撫でながら、その耳元に語りかける。アトラの赤い瞳が、ラッドを見上げて笑顔の形に歪んだ。


「んふふ……ありがと」

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