夢のような日
昨日は雪が降っていた。今朝には雪はもう残っていなかったけれど、雪の日の寒さだけはしっかりと残っている。人が住む想定で作られていないので外気の冷たさが染み込んでくるこの倉庫は、ラッドがエンシアのために整えたふたりだけの仮の家。
エンシアが自宅から持ってきた分厚い毛布に
「ラッド、いい匂いがする」
「やめろ、嗅ぐな。くせえだろ」
毛布の中で、ラッドがのけぞってエンシアから距離を取る。エンシアの細い腕に身体を絡め取られて、ラッドの小さな抵抗は無駄に終わった。
「くさくないもん。なんかね、薄い子犬の匂いがする」
「なんだよそれ、くせえんだろ。やめろよ。……恥ずかしい」
小さな身体を抱きしめ返して、柔らかい薄墨色の髪をかき混ぜる。首筋に寄せられた柔らかい頬が、ラッドの鎖骨をすりすりと撫でる。
「ラッド、照れ屋さんだよね」
「……そうだよ、悪いか?」
「ううん、だいすき」
まっすぐにそう言われて、ラッドの口元はだらしなく緩んだ。抱き合っているのでエンシアからはラッドのこのひどい顔は見えない。万が一にも見られたくなくて、ラッドはエンシアの細い背中をぎゅっと抱き寄せた。
「……なあエンシア、なんか飲まないか? 温かいの淹れてほしいんだけど」
エンシアの耳元に向けて声をかけると、くすぐったかったのか、エンシアの身体がぴくりと揺れた。ラッドの肩口に顔を埋めたまま、エンシアがくぐもった声を返してくる。
「うん。先週行商で面白いの買ったんだ。美味しいかわからないけどそれにしていい?」
「頼む。なんかさっきからいい匂いがするなって思ってたんだ」
冗談めかした口調で返すと、ラッドの肩から顔を上げたエンシアがんふふ、と笑った。
「うそ。そんな匂い全然しないよ」
「……おまえの匂いかも」
エンシアの頭頂に顔を寄せると、小さな手がラッドの顔をぐいっと押しのけた。目を細めたラッドの視界に映るのは、紅く染まるエンシアの白い顔。
「……えっち!」
「はは」
エンシアの薄墨の瞳と目が合うと、その目は柔和に細められた。どちらからともなく唇を重ねて、きゅっと抱き合う。
「ん……」
エンシアの甘い吐息。胸の中がぐらりと揺れる、かわいい声。
壁際の棚に置いたバスケットを、エンシアがごそごそといじっている。手製の小さなテーブルの上に食器を並べて、ラッドはエンシアの白い服を着た背中に目を向けた。エンシアの隣に立って、自分の家から持ってきたバスケットを開ける。無意識にその中を覗き込んだらしいエンシアが、驚いたような顔でラッドを見た。
「わあ、ケーキ! これどうしたの!?」
こちらを見つめるエンシアの嬉しそうな顔に、ラッドは少しだけ圧倒されて
「昨日焼いたんだ。まずくはなかった」
バスケットからケーキを出す。四角い紙の型に入れられた焼き菓子。不器用なわりにうまくできた。中に混ぜ込んだドライフルーツには、エンシアの家で育てた果物が使われている。先月エンシアの家からおすそ分けでもらったものがまだ残っていたので、今回ありがたく使わせてもらった。
ラッドの手に乗ったケーキをまじまじと眺めて、エンシアが口元を緩める。
「ラッドが焼いたの? 嬉しいなー。次はわたしもお菓子焼いてこようかな」
涼やかな造作の顔に子どもっぽい朗らかな笑顔を浮かべるエンシア。まっすぐに見つめられて、気恥ずかしくなったラッドはケーキをバスケットにしまってエンシアに背を向けた。
テーブルのもとまで歩いて、ケーキを切る。うまく切れなくて断面がぼろぼろになってしまった。皿に載せて、あちこちに散らばってこぼれたかけらと戦いながらテーブルを片付ける。テーブルの準備ができたところで、飲み物の準備ができたエンシアが湯気の立つポットを持って歩いてきた。
「おいしそうー。中に入ってるのってこの前のやつ?」
「そう。この前もらったやつ」
顎を引いて答える。ラッドの向かいに座ったエンシアが、テーブルに置かれたカップを手に取る。ポットから注がれる、灰がかった茶色の液体。香ばしくて甘い、不思議と心が緩むような香りがする。エンシアの薄墨色の瞳が、ラッドの目を見て細められた。
エンシアがカップをテーブルに置いて、膝の上で指を遊ばせる。少しだけうつむいて、照れたように目だけをラッドに向けて、小さな声で尋ねてくる。
「食べていい?」
「おう」
短く答えて、視界の中でフォークを持ったエンシアを見つめる。目が合うとエンシアはにこりと笑って、ラッドの焼いた見た目の悪いケーキを口に入れた。エンシアの口元が、くにゃりとほころぶ。
「おいしい。……わたし、幸せ者かも」
んふふ、といつものように控えめな声で笑うエンシア。細められた瞳はラッドをまっすぐに見据えていて、ラッドはその目をまっすぐに見つめ返そうとした。――意気地がなくて、目が泳ぐ。
「……おれ、おまえをもっと幸せ者にしたい」
ラッドの声を受けて、エンシアの表情が変わった。丸く開かれた瞳。テーブルの隅に置いていた小さな木の箱をエンシアに向けて差し出すと、エンシアの色素の薄い頬が真っ赤に染まる。ぎしっ。テーブルに身を乗り出したラッドの足元で、椅子がきしむ。
「エンシア、おれと結婚してくれ。次のおまえの誕生日に式を挙げよう。ドレスも家も、買える金が溜まったんだ」
そっと箱を開けて、中にしまわれた小さな指輪をエンシアに見せる。エンシアの指の径に合わせて作った、飾りのないシンプルな銀色の指輪。彫金細工が趣味の同僚に教えてもらって作ったが、ラッドが不器用なせいでとんでもない時間がかかってしまった。先週にようやく完成して、今日、絶対に渡すと決めていた。エンシアの白い肌になじむように、艶消しの加工を施してあるすこしいびつなその指輪を見つめて、エンシアが小さな手のひらで赤い顔を覆った。
「……わたし、もう十分幸せだよ。嬉しい。結婚しようね」
手のひらの隙間から聞こえる、くぐもった声。その奥に隠されたかわいい顔が見たくてそっと細い手首に指を触れると、エンシアが手を下ろした。ラッドを見つめる潤んだ瞳から、涙が一粒ぽろりと落ちた。その涙を指先で拭って、見つめ合う。どちらからともなく唇を重ねた。
「ん……」
エンシアの甘い声。十分に満ち足りているはずなのになにか足りないような気がして、エンシアの柔らかい唇を舐める。小さな口が開かれて、ラッドの舌を受け入れた。
――全身が熱い。身体の熱は、もう引いたはずだったのに。
「エンシア、悪い、もう一回したい……」
小さな声でそう告げると、控えめな笑い声が返ってきた。それから、エンシアが静かに頷いた。
エンシアのその小さな指に指輪を嵌めて身体を重ねたその夜を、つないだ指に触れる指輪の感触を、ラッドは一生忘れないだろう。
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