旅の支度

 シャワーを浴びて帰ってきたアトラを連れて、部屋をチェックアウトする。シーツをめくってせいでマットレスがひどく汚れていたので、多めに金を渡した。物珍しそうにきょろきょろとあたりを見まわしているアトラの肩を掴んで引くと、よろけた彼女の黒い頭がラッドの胸にぶつかる。


「行くぞ」


 短く言って、先を歩く。一拍の間を置いて、彼女の小さな足音がついてくる。


 アトラは何も自分の持ち物を持っていなかった。娼館から渡された品のない服と、歩きづらそうなかかとの高い靴一足のみが、彼女の私財のすべてだった。白い素肌を外気に晒さぬように羽織ったラッドの外套を引きずりながら歩く姿は、大人ぶって親の服を着た子どものようで趣がある。


 目覚めた冒険者たちが活動を始める朝のこの時間帯は、外にはそれなりに人がいてがやがやとうるさい。霧が晴れていくたびに霧の中から現れる廃墟を改修したり潰して新しく建物を建てたりして、霧の周りをぐるりと囲むようにして小さな街並みができている。冒険者ごろつきどものせいで治安が悪いので一般人なんかはほとんどいないが、引退した冒険者やこのあたりの人の多さに商機を見出した商人なんかが暮らしていて、今ではこのあたりはラッドが暮らしていた村よりもにぎやかになっている。


 ラッドは冒険者なんかになるつもりはなかった。あの小さな村で大切な家族とエンシアを守りながら暮らしていければそれで良かった。それなのにすべてを失って、いつの間にかこんなところにいる。ラッドは他の冒険者たちからは恐れられているので彼らとろくに話したことがないのだが、もしかしたら他にも、ラッドと似たような経緯でこの道を選んだ者がいるのかもしれない。


 道行く者たちはラッドの姿を捉えると左右に避けて道を開ける。もともと変な噂が立っていて、ラッドは他の者たちからけられがちだった。そんな折に不躾な冒険者が絡んできて村のことを馬鹿にしてきたので腹を立ててぶん殴ってやったところ、余計に避けられるようになってこんなふうになってしまった。自ら望んで死に向かい、明日の命の保証もないような暮らしをするいかれた野郎どもと慣れ合うつもりもないが、腫れ物のように扱われるのは不本意ではある。


 時折アトラがちゃんと後ろをついてきているか確認しながら、ラッドの威容のせいで開かれた道を歩く。洋服屋の手前で立ち止まると、ラッドに追いついたアトラが、ラッドの腕を掴んだ。反射的に振り払って、目深に被らせたフードの奥に隠れた涼やかな顔をにらみつける。


「触るな」


「なんで? 昨日はあんなに触ってきたのに」


 再びラッドの腕を掴もうとして伸びてきた手を避けて、一歩後退あとずさる。眉根を寄せて険しい目つきで彼女をにらみつけると、愉快そうな笑顔を返された。――アトラこいつはだいぶ、性格が悪いようだ。突っぱねると拗ねて落ち込んでしまうエンシアとは全然違う。


「好きで触ったんじゃない。そうしないと寝れねぇんだよ」


 低い声で悪態をつく。手で促してアトラを店に入らせる。カウンターの向こうに座っていた店員がアトラに浮かべた笑顔は、その後ろに控えたラッドの姿を捉えると固く引きつった。


「こいつの服と下着を二着ずつ見繕ってくれ。冒険者用のしっかりしたやつだ。丈が合わないなら詰めてくれ」


 恰幅のいい女の店員に向けて、アトラの細い肩を押す。彼女に被せた自分の外套を剥いで羽織り直すと、店員は大きく広げた目をぱちぱちとしばたかせた。無理もないだろう。一匹狼のラッドが仲間を連れてきたかと思えば、その仲間はどう見たって娼婦の格好をしているのだ。経緯がわからずに困惑もするだろう。


 店員はぎこちない動きで顎を引いて、おずおずとした態度で下着同然の格好をしたアトラを店の奥に連れて行った。

 壁にもたれて、ふたりの帰りを待つ。途中で店に入ってきた冒険者が、壁にくっついているラッドを見て静かに店を出た。ラッドの方から他者に危害を加えたことはあの一度きりしかないというのに、他の冒険者たちには目が合えば噛みつかれるとでも思っているような態度をとられる。もう慣れてしまったけれど、たまに無性にムカついて本当に噛み付いてやろうかと思うときもある。


 十分じゅっぷんと少し経って店の奥から帰ってきたアトラは、新米の少年冒険者といった感じの風貌になっていた。汚れが目立ちにくい色味のポケットがたくさんついたズボンに、似たような色味の体型が隠れるシルエットのシャツに外套。女性らしい顔つきが隠れるような大きなキャスケット帽と彼女の小柄な体には少し大きな斜めがけかばんもつけていて、ラッドの注文にはなかったがこれは店員の配慮だろう。女の冒険者は、なにかと大変な目に遭いやすいのだ。なるべくならひと目で女とわからない格好をしたほうがいい。店員の配慮に多めに色を付けて金を払って、店を出る。


「ラッド、あんためちゃくちゃ怖がられてるね」


 彼女の細い脚に合わせて歩調を緩めたラッドの隣を歩きながら、アトラがにやけた声でそんなことを言ってきた。

 そんなことはラッド自身が一番、痛いくらいによく知っている。わざわざ傷口をえぐるようなことを言ってくる彼女に半眼を向けると、アトラがラッドの腕を掴んできた。反射的に振り払う。


「さっきのヤツ、あんたに無理矢理手篭めにされたりしてないかって凄く聞いてきたよ。あんた、なんだと思われてるんだろうね?……まあ、手篭めにはされたけど」


「うるせえ。だまってろ」


 低い声でぴしゃりと言って、ラッドは歩調を早めた。

 長身に比例して脚の長いラッドの隣を歩くのは、アトラの見るからに体力のない小さな身体では苦しいようだ。早歩きに疲れて肩で息をし始めた彼女をちらりと見て、ラッドは早めた歩調をもとに戻した。


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