塩と酸 世界を味付けた二つの魂
@Rex01
第1話
第1章 海から生まれた塩
世界がまだ若く、風が名を持たなかったころ。
海は太陽の子であり、砂漠はその影だった。
そして、その境で初めて“味”が生まれた。
それは、ある干上がった入江でのことだった。
昼の光に照らされた潮の跡が、白く光っていた。
それを見つけたのは、裸足の少年だった。
少年は海辺の小さな村に暮らしていた。村人たちは乾いた魚を貝殻で削り、僅かな水で命をつないでいた。だがその日、彼が拾った白い粒は、ただの砂ではなかった。
指先に触れ、舌に乗せた瞬間、世界が震えた。
――その瞬間、サリーナが生まれた。
白い光が、少年の舌の上から立ちのぼり、風とともに形を成す。
少女の姿をしていた。
透明な髪は塩の結晶のように光り、瞳は海の色を映していた。
彼女は初めて息をし、そして声を発した。
「わたしは、海の涙」
その声は少年には届かず、風の中に溶けていった。
けれどその日を境に、村人たちは白い粒を使い始めた。
肉を、魚を、命を、腐らせぬために。
サリーナは彼らを見守りながら、自らの力を理解していった。
塩は、命を守る力を持っていた。
そしてその力は、時に人を狂わせた。
ある夜、村の巫女が夢の中で彼女を見た。
巫女はサリーナを「清めの神」と呼び、彼女に祈りを捧げた。
その祈りがやがて“塩”という名を持ち、儀式の中心となった。
死者の額にも、祭壇の供物にも、塩は欠かせなくなった。
サリーナは誇らしかった。
人間が彼女を通じて腐敗から逃れ、生き延びていくこと。
それは、自分がこの世に生まれた理由のように思えた。
だが、時間が経つにつれて、彼女は別のものを目にする。
人々が塩を奪い合い、村と村が争い、血の上にも塩が撒かれた。
「清め」と「呪い」が、同じ粒で行われるようになったのだ。
サリーナは泣いた。
だが涙さえ、海に戻ればまた塩となって結晶する。
悲しみは、やがて力に変わっていった。
――私は、命を守るための苦味。
――けれど、守るとは、奪わぬことなのだろうか。
その問いを抱えたまま、サリーナは砂漠の果てへと歩き出した。
彼女の足跡のあとに、小さな白い花が咲いたという。
それは塩の花、やがて人々が“生命の花”と呼ぶものだった。
砂漠の風は熱く、彼女の肌を削った。
だがその痛みさえ、彼女には心地よかった。
なぜなら痛みとは、生の証だからだ。
旅の途中、サリーナは商人の隊商に出会う。
彼らは「白い黄金」と呼ばれる塩をラクダに積み、
遠くの国々へ運んでいた。
ある夜、焚き火のそばで一人の若い商人が呟く。
「この塩があれば、王に仕えられる。
でも、同じ塩で民は飢える」
その声に、サリーナはそっと寄り添った。
彼女の声は風に混じって彼の耳に届く。
「塩は力を与える。だが、その力をどう使うかは、あなたたち次第」
商人は目を見開いた。
“神の声”を聞いたと思い、翌朝、仲間にこう告げた。
「塩は海の涙だ。奪えば枯れる」
その言葉は、やがて長い旅路で“塩の掟”として伝わっていった。
塩は尊ばれ、同時に恐れられる存在になった。
サリーナは人々の信仰の中に根を下ろし、やがて神殿に祀られるようになる。
だが、彼女の心には小さな欠片が残っていた。
――何かが足りない。
保存すること、守ること、それだけでは世界は閉じていく。
時間が止まるような静けさ。
命とは、もっと“動くもの”ではなかったか。
ある夜、サリーナは夢を見る。
赤く染まった壺の中で、何かが静かに泡立っている。
香りは酸っぱく、けれど甘い。
その中で、もうひとつの声が囁いた。
「あなたの静けさを破るために、私は生まれる」
目覚めたサリーナの頬に、一粒の水滴が落ちた。
それは海から吹く風の雫。
しかし、それは塩ではなかった。
少しだけ、酸っぱい匂いがした。
彼女は立ち上がり、東の地平線を見つめる。
夜明け前の空は淡く赤く、どこか血のように温かかった。
「あなたは誰?」
風に問うと、遠くから答えが返ってくる。
「わたしは変化。
あなたが守った命の、その先に生まれるもの」
サリーナの唇がかすかに震えた。
彼女は初めて、“保存”の向こうに“変化”という言葉を知る。
そして、それが――後に“酢の精”ヴィナとの出会いへとつながっていく。
第二章 酸の誕生
砂の海を越えた先に、豊かな水の国があった。
ナイルの流れは悠久で、季節ごとに土を潤し、人に恵みを与えた。
エジプトの人々はその水で葡萄を育て、太陽の熱で酒を醸した。
だが、ある夏、ひとつの壺が放置された。
蓋が割れ、風が吹き込み、液がゆっくりと変わり始める。
それは腐敗ではなかった。
むしろ、生命の別のかたちだった。
壺の底で静かに泡立つ赤い液体。
その中から、銀色の光が立ちのぼる。
香りはつんと鋭く、けれども心を目覚めさせるように爽やかだった。
――ヴィナが生まれた。
彼女の髪は赤銅色、瞳は熟れた葡萄のよう。
彼女が笑うと、空気がすこし酸っぱく変わる。
最初にその香りに気づいたのは、神殿の女官ナリだった。
ある朝、彼女は祭壇に供えるワインを取りに行き、
壺を開けて思わず顔をしかめた。
酸っぱい匂いが鼻を突く。
けれど、なぜかその香りの奥に、甘い記憶があった。
ナリは一口だけ舐めてみた。
舌が驚きに震え、心が目覚めたように冴えわたる。
「これは……死んでいない味」
そう呟いた瞬間、壺の中から柔らかな声がした。
「そう。わたしは、変わっただけ」
驚いたナリが壺を覗くと、そこに少女が浮かんでいた。
透明な液体の中で微笑むその姿は、夢とも幻ともつかぬ美しさ。
ナリは恐れず、問いかけた。
「あなたは誰?」
「わたしはヴィナ。
腐ることを怖れない心――それがわたしの力」
ナリはその夜、ヴィナの声を神に捧げた。
以来、酢は神殿の台所で使われるようになった。
腐敗した肉を洗い、傷口を癒やし、祈りの供物を清める。
それまで“悪しき変化”とされた酸味が、祝福に変わったのだ。
ヴィナは人々の喜びに微笑みながら、
時にナリの夢に現れ、こう囁いた。
「あなたたちは変わることで、生き延びるの。
同じ形では、永遠に続かない」
ナリはその言葉を日記に記した。
それが後に“発酵の記録”として残ることを、彼女は知らなかった。
だが、変化を受け入れられぬ者もいた。
神官たちは言った。
「酸は穢れだ。清き塩を侵す邪なるもの」
サリーナの信徒たち――“塩の巫女”たちがエジプトにもいた。
彼女らは塩を聖なる粒とし、腐敗の兆しを断ち切ることを使命とした。
その教えに反して、酸味を尊ぶ女官の存在は、異端だった。
ナリはある日、神殿を追われた。
ヴィナは彼女の涙を拭いながら、静かに言った。
「悲しまないで。
あなたが変わったということは、世界も少し変わったのよ」
ナリは微笑んだ。
「なら、変わることを誇りに思う」
その夜、ヴィナはナリの魂を見送り、風となって旅立った。
彼女の香りは海を渡り、砂の向こうへと流れていく。
――サリーナが歩いた砂漠の道の、その果てへ。
星が沈む頃、二つの力が出会う。
サリーナは白い砂丘の上に立ち、風の中に漂う未知の香りに顔を上げた。
それは、塩の乾いた匂いとは異なる。
刺激的で、甘く、そして涙を誘う香り。
「……あなたね」
声がした。
赤銅色の髪を風に揺らし、ヴィナが現れる。
その微笑みは炎のように自由で、どこか挑発的だった。
「わたしを呼んだのは、あなたでしょう?
“変化が足りない”って、風が教えてくれた」
サリーナは瞳を細めた。
「あなたの香りは、腐敗の予兆。
世界を守るため、私はそれを止める」
「止める? あなたはいつも止めようとする。
でも、止めた命は死んでしまうのよ」
二人の間に、潮風と砂嵐が吹き抜けた。
塩の粒と酸の香りが混じり、夜空が淡く揺らぐ。
ヴィナは笑いながら一歩近づく。
「あなたの静けさ、悪くないわ。
でもね、静けさだけじゃ音楽は生まれない」
サリーナは答えなかった。
ただ、彼女の周囲の砂がゆっくりと白く固まっていく。
ヴィナの足元では、赤い砂が溶けるように泡立つ。
海と火。
保存と変化。
二つの力が初めて触れ合った夜、
空から星の雨が降り注いだ。
翌朝、砂漠の中央に一つの湖が生まれていた。
水は澄み、表面には白い塩の結晶が浮かび、
その下には淡い酸の香りが漂っていた。
人々はそれを“奇跡の湖”と呼んだ。
傷ついた旅人がその水で身体を洗うと、痛みが癒えたという。
それはサリーナとヴィナの初めての共作だった。
だが二人はまだ、互いを完全には受け入れられなかった。
サリーナは秩序を守ろうとし、ヴィナは変化を求め続けた。
湖のほとりで、ヴィナが囁く。
「あなたとわたし、どちらも必要なのにね」
サリーナは小さく息を吐く。
「きっと、まだ世界がそのことを知らないのよ」
風が吹き、湖面に二人の影が揺れた。
一方は白く、一方は紅く。
やがて二つの影は波に溶け、遠く東の空へと伸びていった。
そこには、まだ知られぬ文明が待っている。
塩の道と、酢の壺が交わる場所――
彼女たちの次の旅の舞台、ローマへ。
第三章 塩の道と酢の壺
風は東から西へ、砂とともに物語を運んでいた。
塩を背負う商人の列は、朝日に溶けて銀の帯のように延びている。
それはやがて「塩の道」と呼ばれることになる。
道のどこかに、サリーナがいた。
彼女は白衣の旅人の姿で人々に紛れ、
干上がった唇にひとつまみの塩を与えて歩いた。
その粒は小さくとも、命を繋ぐ力を持っていた。
一方、ヴィナは壺の中に潜んでいた。
彼女はローマの市場に運ばれる葡萄酢の香りに魅せられ、
壺から壺へと渡り歩き、人々の手を通じて世界を旅していた。
紀元前の終わり、地中海は交易の海となっていた。
塩は兵糧、酢は医薬。
どちらも戦と繁栄の裏にあった。
その時代に、一人の商人がいた。
名をユリウスという。
彼はローマから東へ向かう塩の隊商に加わり、
未知の大地を目指していた。
彼は幼いころ、父の言葉を聞いていた。
「人は塩で守られ、酢で癒やされる。
だが、どちらも過ぎれば命を蝕む」
その言葉の意味を知りたくて、彼は旅をしていた。
ある夜、砂嵐の中で、ユリウスは不思議な夢を見た。
白い砂の上に立つ女と、赤い衣をまとう女が対峙していた。
その二人の間に湖があり、波打つたびに色が変わっていく。
「あなたたちは誰だ?」とユリウスが問うと、
白い女が静かに答えた。
「わたしは塩。命を留めるもの」
赤い女は笑って言った。
「わたしは酸。命を動かすもの」
目が覚めると、ユリウスの頬には潮の香りが残っていた。
その夜、彼は初めて塩の精と酢の精の存在を信じるようになる。
旅の果て、彼は中央アジアのオアシス都市にたどり着いた。
そこでは、東の民が奇妙な調味液を作っていた。
塩水に果実を漬け、日差しに晒す。
しばらくすると、液は酸味を帯び、香りが立つ。
「これは塩でも酢でもない」とユリウスは呟いた。
村人は笑い、「それはすえん(酢塩)だ」と答えた。
壺の中で、サリーナとヴィナが息をひそめていた。
長い旅の中で、彼女たちは少しずつ互いの力を理解し始めていた。
サリーナは保存の中に変化を見、
ヴィナは変化の中に秩序を感じ始めていた。
夜、ユリウスが焚き火の前で小さな壺を温めると、
塩と酸の香りが混じり、穏やかな蒸気が立った。
それを飲んだ兵士の咳が止まり、疲れが和らいだ。
「神の水だ」と兵士たちは叫んだ。
ユリウスは微笑んだ。
「いや、人の知恵だよ」
サリーナはその言葉に静かに頷いた。
「人はもう、私たちがいなくても守れるのかもしれない」
ヴィナが肩をすくめた。
「でも、時々は思い出してほしいのよ。
変わる勇気と、守る優しさ――両方の味を」
二人の声は風に溶け、砂漠を渡った。
やがてユリウスは長い旅の末に病に倒れた。
彼は最後の力を振り絞って、
小さな瓶に塩と酢を混ぜた液を封じた。
瓶の口に刻まれた文字は、
「Vita」(命)だった。
その瓶は彼の死後、東へ渡る。
時を経て、中国の塩山の麓で発見され、
それを模した調味法が生まれた。
――塩で守り、酢で磨く。
それは新しい文明の“味”だった。
サリーナはその地を訪れ、静かに空を見上げた。
「あなたの力は、思っていたより優しいのね」
ヴィナが風に乗って笑った。
「あなたの力も、思っていたよりしなやかだったわ」
長い時を経て、二人の精霊は初めて微笑み合った。
そして、ローマの石畳にも、東の都の市場にも、
彼女たちの気配が漂うようになった。
塩の道は地を結び、酢の壺は人を結んだ。
それは、世界が初めて“味”によってつながった瞬間だった。
けれど、人間はすぐにその力を計り始める。
塩に税をかけ、酢を独占し、
富と権力の象徴として“味”を使い始めた。
サリーナは胸を痛める。
「また同じね。人は力を分け与えられても、欲に変えてしまう」
ヴィナは静かに頷く。
「でも、前よりましよ。
少なくとも、今は食卓で戦っている」
サリーナは目を瞬かせる。
「食卓で?」
「そう。誰が美味しいか、誰が正しいか。
争いは変わったけど、まだ続いているの」
二人の笑い声が夜の風に混じり、
オリーブの木々の間を通り抜けていく。
その風は海を越え、
やがて中世のヨーロッパへと届く。
戦と飢えと疫病の時代へ――
そこでも再び、塩と酢は人を救い、人を狂わせる。
第四章 苦境下の塩と酸
風が冷たくなった。
血と煙の匂いが大地に染み、鐘の音が遠くで鳴り響く。
十字の旗が翻り、泥に塗れた兵士たちが進んでいた。
中世の戦場――。
そこに、またサリーナとヴィナの影があった。
塩は、兵の命をつなぐ糧。
酢は、傷を癒す薬。
人が戦う限り、二人はそこにいた。
ある夜、塹壕の中でサリーナは兵士の手を包んでいた。
彼の指は凍え、傷口は黒ずんでいた。
彼女が触れると、皮膚の上に白い結晶が生まれた。
それは痛みを封じる小さな祈りのようだった。
「また人は、自らを傷つけているのね」
サリーナが呟く。
その背後から、ヴィナの声がした。
「でも、傷を洗うのも人間よ。
痛みのあとに、優しさが生まれる」
サリーナは振り返る。
「あなたはいつも希望を語るのね。
けれど、どれだけの命が塩にまみれて終わったと思う?」
ヴィナはため息をつく。
「それでも、腐らせるよりましだわ」
二人の視線が交錯する。
戦場の上を、黒い鳥たちが飛び去っていく。
そのころ、修道院の一室で、
一人の修道女が酢を布に染み込ませていた。
名をマリアという。
彼女は戦場から運ばれた負傷兵を看護していた。
酢で傷を洗い、塩で血を止める。
それが唯一の医術だった。
サリーナとヴィナは、マリアの手元に宿っていた。
彼女が傷口を拭うたび、二人の力が溶け合い、
痛みの中にわずかな安堵が生まれる。
マリアは夜ごと祈った。
「神よ、この酸と塩の力を、どうか命のために」
その祈りに、サリーナはそっと微笑んだ。
「人はようやく知り始めたのかもしれない。
私たちは裁きの力ではなく、癒やしの力だということを」
ヴィナが首を傾げた。
「でも、まだ気づいていない。
味の中に心があることを」
数年後、戦が終わり、疫病が広がった。
町では、死体が通りを埋め、
人々は恐怖に塩を撒き、酢を焚いて病を祓った。
それは迷信でありながら、奇妙な効果を持っていた。
腐敗を止め、悪臭を抑え、わずかに命を守った。
サリーナは街の広場で立ち尽くす。
「私たちは、恐れの象徴になってしまったのね」
ヴィナは肩を寄せる。
「でも、恐れの中にこそ祈りがある。
人は何かを信じていないと、生きていけないもの」
そのとき、一人の少年がパンを焼いていた。
戦後の混乱の中、母を亡くした少年は、
塩を少しだけ手に取り、酢を生地に垂らした。
それしか調味料が残っていなかったのだ。
だが、不思議なことが起こった。
そのパンはふっくらと香り立ち、
焼き上がったとき、町中に温かな匂いが広がった。
飢えた人々が集まり、
ひと口ずつそのパンを分け合った。
サリーナはその光景を見つめ、静かに言った。
「こんなにも優しい味が生まれるなんて」
ヴィナが笑った。
「ね、言ったでしょう? 腐ることは悪じゃないの。
変わることが、命を続けるってこと」
その夜、空に光が走った。
北の空のオーロラが揺れ、
二人の姿を淡く照らした。
マリアの修道院から、かすかな祈りの声が聞こえる。
「塩よ、命を守れ。酢よ、命を動かせ。」
二人は目を閉じ、その声に応えた。
そして気づく――
人が味に込めた祈りは、いつの時代も変わらない。
翌朝、マリアはパンを焼く少年を見つけ、
彼に言った。
「その味を忘れないで。
それが神の奇跡でも、精霊の業でもない。
あなた自身の心なのだから」
少年は頷き、笑った。
彼のパンは町に広まり、
“塩と酢のパン”として受け継がれていく。
それは、飢えと戦争の時代に生まれた、
最も素朴で、最も人間らしい食べ物だった。
サリーナが呟く。
「味は記憶になるのね」
ヴィナが応える。
「そして、記憶は未来をつくるの」
二人の声は煙とともに立ち昇り、
風に乗って、遥か東の島国へ向かっていく。
そこには、発酵の国――
日本があった。
第五章 発酵という魔法
潮の香りが町に満ちていた。
江戸の海――まだ東京と呼ばれる前のこの町では、
漁師たちが早朝から舟を出し、
帰るころには市場が魚の銀色で輝いた。
その一角、下町のすし屋「吉辰(よしたつ)」の暖簾が、
ゆるやかに揺れていた。
酢の香りが通りまで漂っている。
それは、どこか懐かしく、温かな匂いだった。
店の中で、一人の職人が黙々と酢飯を握っていた。
名を**匠(たくみ)**という。
歳は三十ほど。
無口で、笑うと目尻が柔らかくなる男だった。
桶の中で、白米が湯気を立てている。
そこに、温かい酢を回し入れ、木べらで切るように混ぜる。
そのたびに、酢の精――ヴィナが小さく息をつく。
「まあ、なんて優しい手つき」
匠の肩越しに、透明な姿で彼女が囁いた。
サリーナも隣で静かに見守っていた。
「塩の加減も見事ね。
多すぎず、少なすぎず、まるで海そのもの」
二人の精霊は、この国の“発酵”という文化に驚いていた。
腐敗ではなく、変化を生かす知恵。
生きた菌とともに生きる術。
それはまるで、彼女たち自身の融合だった。
ある日、匠の店に若い武士が訪れた。
名は新太郎(しんたろう)。
彼は初めて食べる“握り寿司”に半信半疑だった。
「生魚を、そのまま食うなど……」
匠は静かに笑った。
「海の恵みを、海の力で守っているんです。
塩と酢で。」
新太郎は一口食べた。
舌に、まろやかな酸と、穏やかな塩気が広がる。
瞬間、彼の目に涙が浮かんだ。
「……これは、母の味だ」
匠は驚いた。
「お母上が酢飯を?」
「いや、違う。
けれど、幼いころに嗅いだ梅の香りと、
夏の汗に混じる潮の匂いを思い出したのだ」
その言葉を聞きながら、ヴィナは微笑む。
「ねえ、サリーナ。
味って、記憶をほどく鍵なのね。」
サリーナが頷く。
「塩は涙の味。
それがある限り、人は心を失わない。」
匠は夜遅くまで桶を磨き、
火を落とした後、しばし香の残る空気を味わった。
すると、どこからか二人の声が聞こえた。
「ありがとう」
「私たちを、こんな形にしてくれて」
匠は驚いて辺りを見回したが、誰もいなかった。
ただ、桶の底に残った一粒の米が、
月明かりに透けて輝いていた。
その日を境に、匠の寿司は評判を呼び、
江戸の町に広がっていく。
人々は言った。
「口にすれば、心が温まる」
「まるで人が人を想う味だ」
サリーナとヴィナは、軒先でその光景を見つめていた。
サリーナがぽつりと呟く。
「人はいつから、こんなに優しくなれたのかしら」
ヴィナが答える。
「きっと、痛みを知ったから。
腐ることも、枯れることも、
その先に香る“変化”を見つけたのね。」
江戸の夜、潮風が暖簾を揺らした。
二人の姿はもう人には見えない。
けれど、寿司桶の湯気の中に、
ほのかに白と紅の光が混じっていた。
――それが、塩と酢の祈り。
人とともに変わり、人とともに生きる、
“発酵という魔法”の正体だった。
季節が巡り、匠が老いるころ、
町にはもう多くのすし屋が並んでいた。
弟子たちは味を受け継ぎ、
誰もが「この塩梅(あんばい)こそ命だ」と語った。
サリーナはその言葉に静かに笑う。
「“塩梅”――なんて美しい響き。
塩と酢、つまり私たちの名が一つになった言葉ね。」
ヴィナが頬を染めて笑った。
「ええ、まるで愛のようだわ。」
二人は再び風に乗る。
この国の“旨味”という新しい味が芽吹くのを感じながら、
時代は、また西へと動き始めていく。
第六章 白い涙と酸っぱい革命
十九世紀初頭、産業革命の煙が空を覆っていた。
蒸気の音が街を満たし、人々は油と鉄の匂いに包まれて生きていた。
塩はもう、海から掬うものではなくなっていた。
工場の煙突から出る蒸気の中で精製され、
真っ白な結晶として瓶詰めにされていく。
サリーナは、灰色の空の下に立っていた。
「こんなに純白なのに、なぜこんなにも冷たいのかしら」
人々はその白を“科学の勝利”と呼んだ。
不純物のない塩。
だが、そこにはもう、海の匂いも、風の響きもなかった。
一方、ヴィナもまた、変わり果てた姿を見つめていた。
巨大な蒸留器の中で、透明な液体が滴り落ちている。
それは、化学的に合成された酢酸。
「これが私……?」
ヴィナはガラス越しに自分の姿を見た。
「発酵の音も、果実の香りも、どこへ消えたの?」
サリーナが静かに歩み寄る。
「人は便利を求めたのよ。
けれど、便利はいつも魂を薄めるわ。」
工場の外では、労働者たちが疲れ切った顔で行き交っていた。
粗末なパンとスープ――
そこにも塩と酢は使われていた。
だが、それは“味”ではなく、“最低限の栄養”だった。
そんなある日、ロンドンの街角で、
一人の若き化学者が試験管を掲げていた。
名をアーネスト・フレミングという。
彼は塩の電気分解を研究し、
「塩から力を取り出す」方法を見つけようとしていた。
サリーナは彼を見つめた。
その瞳の奥に、奇妙な輝きを見た。
「この男は、私たちを利用するつもりね」
ヴィナが囁く。
「でも、もしかしたら――救うかもしれない。」
ある夜、フレミングは研究室で倒れた。
過労と孤独の果てだった。
そのとき、夢の中に二人の女性が現れた。
「あなたは誰だ?」と彼が問うと、
白い衣のサリーナが言った。
「私は塩。命を守るもの。」
赤い瞳のヴィナが続ける。
「私は酸。命を動かすもの。」
フレミングは涙を流した。
「僕は、君たちを壊してしまったのか?」
サリーナは首を振る。
「いいえ、人は壊してなどいない。
ただ、心を測り間違えたのよ。」
ヴィナが笑う。
「でも、あなたはまだ覚えている。
人が“味わう”という行為の意味を。」
目覚めたとき、フレミングは一つのメモを残した。
> “科学は塩を白くし、酢を透明にした。
だが、味を持つのはいつも人間の心だ。”
彼はその後、研究をやめ、
小さな酢工場を開き、自然発酵の方法を復活させた。
ヴィナはその樽の中で静かに息づいた。
微生物が泡を立て、
空気の中で酸がゆっくりと育っていく。
「これが、本当の革命ね」
ヴィナが囁いた。
「そうね。
人がまた、味を“感じる”ことを思い出した。」
サリーナが微笑む。
そのころ、世界は再び戦へと向かっていた。
塩は保存食として兵士の荷に詰められ、
酢は消毒液として戦場に運ばれた。
だが、サリーナとヴィナは、もはや悲しまなかった。
「人はまた傷つくだろう。
けれど、今度は癒やし方を知っているはず。」
工場の煙の向こう、朝日が昇った。
白い煙が金色に染まり、
それはまるで塩が涙を流しているようだった。
そしてその光の中で、
ヴィナの酸っぱい香りが風に混じる。
それは、再生の匂いだった。
第七章 人の味
風が穏やかに流れる。
それは、都市の隙間をすり抜ける空調の風。
ガラスと鉄でできた街のどこにも、
もはや海の匂いも、果実の香りもない。
塩も酢も、今はスーパーの棚に並んでいた。
透明な瓶、白いパッケージ、整然としたラベル。
「無添加」「減塩」「オーガニック」。
言葉が味を覆い隠す時代。
サリーナは棚の前で立ち尽くしていた。
「これが、わたしたちの姿……?」
ヴィナが瓶の中の液体を見つめる。
「形は違っても、まだ人の手が注いでくれるのよ。
だけど――あの温度がない。」
二人は、あの江戸の桶の湯気を思い出した。
人が混ぜ、香り、心で味わった時間。
今、人は時間を味わうことを忘れていた。
塩は計量され、酢は添加され、
料理は“効率”の中で完成していく。
だが、その中にも――
わずかに残る火のぬくもりがあった。
東京の片隅、小さな定食屋「海路(かいじ)」の厨房で、
一人の若い女性が鍋をかき混ぜていた。
名を**美咲(みさき)**という。
彼女は祖母の味噌汁を再現しようとしていた。
「同じ材料なのに、味が違う……」
そう呟いて、鍋の前に立ち尽くす。
その湯気の中に、二つの光が揺れていた。
サリーナとヴィナだった。
「焦らないで」
サリーナが囁く。
「塩は、心が静まるときに溶けるのよ。」
ヴィナが微笑む。
「そして、酸は涙と笑いを混ぜるときに香るの。」
美咲の頬を一筋の涙が伝う。
その雫が鍋に落ちた瞬間、
味噌汁の香りがふわりと広がった。
彼女は一口、味見をした。
「……ああ、これだ。」
祖母の味だった。
懐かしく、やさしく、そして少し酸っぱかった。
ヴィナが目を細める。
「ね、酸っぱさは悲しみの記憶なの。
でもそれが、味を深くする。」
サリーナが頷く。
「塩は涙の名残。
人が悲しみを知るたび、世界は美味しくなるのよ。」
夜、美咲の店は常連で賑わっていた。
彼女の作る料理はどこか懐かしく、
人々はその味を“帰る場所”と呼んだ。
サリーナとヴィナは、厨房の隅で見守っていた。
「ねえ、もう私たちの役目は終わったのかしら」
サリーナが問う。
ヴィナは首を振った。
「終わらないわ。
だって、人はまだ“美味しい”の意味を探している。」
外では、未来の都市が光っていた。
空を走る車、AIが管理する食堂、合成栄養のパック食品。
だが、そのどれもが、どこか“味気なかった”。
サリーナが静かに言った。
「塩がなくても栄養は取れる。
酢がなくても保存はできる。
でも、人はそれだけで満たされるの?」
ヴィナが笑った。
「いいえ。
味は、命の“会話”だから。」
二人は再び風に乗った。
都市の夜を越え、工場を越え、
まだ誰も知らない未来の海へ向かっていく。
そこには、人工の太陽が輝き、
塩を生み出す新しい海が広がっていた。
その波打ち際に、二人は立った。
サリーナが砂をすくい上げる。
「これは、もう海ではない。
けれど、人が作った“海の記憶”ね。」
ヴィナが頬に風を受けて言う。
「そしてその風の中にも、
まだ、発酵の匂いがする。」
二人は目を閉じた。
遠くで、誰かがパンを焼き、
誰かが寿司を握り、
誰かが味噌汁をすすっている。
そのたびに、彼女たちは思うのだ。
――味とは、生きること。
――塩は命を留め、酢は命を動かす。
――そして、その狭間に、人の心がある。
風が吹いた。
二人の姿がやがて光の粒となり、空に散る。
サリーナの声が最後に響いた。
「またいつか、人が“ほんとうの味”を忘れたときに――
私たちは戻ってくるわ。」
ヴィナが静かに笑う。
「そのときは、少し酸っぱくしてやろう。」
光が溶け、夜が明けた。
新しい太陽が昇り、
世界は再び、ほんの少しだけ、美味しくなった。
塩と酸 世界を味付けた二つの魂 @Rex01
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