蜂の毒は春の始めまで
ここでまた少し、
『妖神』について語るとしよう。
今回十六夜鉄弥を襲った蜂は
正しくは『彼岸蜂』と呼称される妖神だ。
彼岸蜂は取り憑いた人間の心の岸辺に毒を打ち、
徐々に体を蝕む。
ただそれは、何も目的もなく、
ただ無作為に行うことではない。
その人間の悲願となること、
その願いを叶えるために、
彼岸蜂は人間に毒を打つのである。
人間が願いを叶えなければ
毒が体を支配していき、
やがて何にも結果を残せない時に
取り憑いた人間を殺す。
言い換えてしまえば、
これは一種の荒療治とも捉えられる。
人間の努力を促進するために毒を打ち、
悲願を叶えさせる。
妖神とは、妖怪ではないのだから。
妖の神…そう、つまりは神の一部なのだ。
妖神は神であるが故に人間に手を出し、
妖神を呼び出すには、
それ相応の儀式が必要となる。
そして、妖神と人間を繋ぐ儀式を行い、
双方の架け橋となる人間が
この真っ黒な髪をした千歳千尋である。
千歳のようにその役割を担う人間は
日本を中心に活動しており、
和泉も千歳に助けられた過去がある。
和泉は自分の姉が妖神に魅入られ、
それを退治するために千歳を頼った。
だが、姉の体を気に入った妖神は
千歳との交渉の場を無下にして
そのまま姉と共にしばらく帰って来なかった。
姉の存在を失った和泉は
自分の意識すら見失ってしまい、
心に大きな隙ができていた。
そして、和泉のその隙に侵入したのが
『不死鳥』の妖神である。
ところが不死鳥は
和泉の自我を取り込むこともなく、
ただ和泉の肉体を借りるだけだと言った。
それからだ。
和泉が千歳を手伝うようになったのは。
和泉はその不死鳥の宿る体を駆使して、
妖神に悩む者を救っている。
と、蜂と二人のことまで、
十六夜に詳しく聞かせた。
「…父の会社の経営が傾いて、
人を雇えなくなったらしいんだ……。」
聞けば、十六夜の父親は
ブランドホテルの正社員で
それなりの地位の役職を任されていた。
十六夜自身も詳しくは知らないようだが、
父親は朝早くから夜遅くまで
仕事に出ていたと言う。
家族3人で食卓を囲むことはほとんどなく、
仲良く遊びに行ったこともない。
それほど仕事が忙しかったのだろうが、
年頃の息子を放っておいて仕事ばかりなのは、
十六夜の心を傷つけた。
でも、それだけならまだ良かった。
父親がいない分、
母親との時間を大切にして、
母親に褒めてもらうために
バドミントン部で成績を残し続けていた。
…その平和な日々が崩れ始めたのは、
父親が勤めるホテル会社の
経営が傾いたのがキッカケだった。
そして、その経営の崩落を促したのが、
父親の部下だったという。
烏城高校からこの廃工場まで来る道のりに
開発途中の広い土地があるのだが、
そこに新たな事業として
大きなナイトプールを作る計画があり、
一連の契約や進捗管理を十六夜父が任された。
まず彼は部下達に指示を振って
あの周辺の土地を買い取り、
ナイトプールを建設するための会社と
契約を結ばせた。
工事が始まり、全てが順調に進んでいたと
彼はそう思っていた。
だが、その全てにおいて、
決して小さくはない問題が発生していた。
「父は…父さんは悪くないのに……。」
まず土地。通常の値段よりも
3倍近い金額で買い取られていた。
次に工事。名前も知らないような
小さな会社相手に随分と高い契約をされていた。
一体何が起こったのか、
賢明で真面目な彼はすぐに気がついた。
そう、横領が行われていたのだ。
彼の部下は、土地を持っていた不動産屋と
小さな建設会社の上司と結託して、
会社から必要以上のお金を奪い取った。
しかも、それがバレないように
虚偽の報告書をでっち上げ、
もう引き返せない所まで
急ピッチで工事を進ませた。
結果、会社は経済的な打撃を受け倒産寸前。
責任を問われていた部下計4人は
会社に呼び出されたその日に夜逃げをし、
全ての責任を十六夜の父親に押し付けた。
損害賠償の請求こそなかったものの、
彼は責任を負わされ解雇。
そして、彼は闇に溺れた。
「和泉に分かるか…?
ある日突然父親が仕事を失って、
その怒りを向けられる子どもの気持ちが。
毎日のように物は壊すし、
話しかけたら怒鳴られる。
そんな生活に、お前は耐えられるか……?」
壊れた父親の行いによって、
十六夜は心を苦しめられた。
更には、十六夜の母親さえも、
夫の変貌ぶりから目を逸らすように
実家に帰ってしまった。
十六夜も誰か友達の家に
避難することを考えはしたが、
元より人と関わるのが苦手な十六夜は
それすら出来なかった。
だが、普通なら死にたくなるような境遇で、
十六夜は心を折られなかったのだ。
父親は部下に騙されて、仕事を失った。
母親もいなくなった。
ならば、息子である自分だけは、
父親のことを信じてあげなくては。
母親は離婚すれば赤の他人になれるが、
息子である十六夜にとって、
父親はどこまでも父親だ。
父親譲りの目を今まで憎んでいたが、
それとこれとは話が別だ。
仕事に一生懸命で、真面目だった父親を
心のどこかでは尊敬していたのだ。
そう思い至った十六夜は、
より一層バドミントンに力を入れ、
春にある小さな地方大会で
優勝しようと決めた。
それが、償いだと思ったから。
「…その日は、雨が降っていた。
もうバド部のみんなは帰ったあとで、
俺は一人で渡り廊下で素振りをしていた。
今思えば、夏でもなければ
晴れてすらない雨の日に
蜂がいるなんておかしいけど、
そんなことを気にする余裕もなかった。」
その渡り廊下で、十六夜は刺された。
春に開催されるという
小さな地方大会が2週間後に迫る中、
毒が全身を汚染していき、
もうラケットすら握れなかった。
そして、始業式の日には、
立つ力まで尽きていた。
あの時和泉がいなければ、
間違いなく死んでいただろう。
妖神も妖神で、随分と大雑把だ。
大会を前に毒が巡ってしまえば、
優勝するどころか出場することも
ままならないというのに。
「だが、二人のおかげで助かった…。
体はまだ重いが、
大会までには回復しそうだ。
いや…仮に回復しきらなくても、
俺は父のために全力を尽くす。
それが、息子としての俺の役目だから。」
十六夜は千歳と和泉に頭を下げた。
全てが吹っ切れたような顔で、
清々しい程の笑顔を浮かべて、
健やかに笑う十六夜を見て、
和泉と千歳もにこやかに笑った。
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