第6話 還流

 夜。旧江川の風は、まるで冬の息のように冷たかった。

 水面は鈍い鉛色をしていて、街灯の光を食べるように濁っている。

 私はその中央に立ち、母の血の匂いをまだ指先に感じながら、USBを握っていた。


 〈最終鍵:記録は“川”に還る〉

 母の筆跡が浮かぶそのラベルが、風に震える。


 (母さん……あなたは最後まで私を導こうとしてたの?)

 (それとも――これも、計画の続き?)


 スマホを取り出し、USB用アダプタに差す。

 画面にひとつのフォルダが現れた。

 〈Recurrent_Final_Record〉


 指が震える。

 開くと、そこにはひとつだけのファイル。

 〈voice_log_0001.mp4〉


 再生ボタンを押す。

 最初の一秒、何も聞こえない。

 次に、かすれた呼吸音。

 そして――母の声。


 『記録、開始します。被験体A=奥脇彩音、被験体B=真柴亮。

  現在、意識転写率87%。生体反応安定』


 続いて、篠原の声が入る。

 『倫理委員会は通さないのですか?』

 母が答える。

 『通していたら、誰も人を救えないわ』


 録音の中で、心電図の音が早まる。

 『彩音の神経パルス、上昇……!』

 篠原の声が緊迫する。

 『彼女の意識が抵抗している!』

 『構わない。これは“母親の責任”よ』


 画面の中で、映像が揺れる。

 白衣の袖。光。

 そこに映った“もう一人の顔”に、息が止まった。


 ――若い男。

 篠原でも、亮でもない。

 カメラに顔を向け、薄く笑っていた。


 『記録監視担当、冬木です。

  転写成功を確認。

  奥脇彩音、意識活動――継続中』


 映像が途切れる。

 次の瞬間、ノイズの中から低い声。

 『……第0号体、覚醒。』


 それは篠原でも母でもない声だった。

 不気味なほど静かで、無機質。

 “AIの音声合成”に近い。


 (第0号体?)


 その言葉が脳内でこだまする。

 すると頭の奥で、別の声がかすかに重なった。

 (――やっと、繋がったね)


 心臓が跳ねた。

 「誰?」

 風の中、声が続く。

 (私だよ、彩音。あなたの“原型”)


 (……原型?)


 (あなたが実験で入れ替わる前、私が“最初の試作”だった。

  感情を持たないコピー。AIでもなく、人間でもない。

  私に“あなたの感情”を移す予定だった――でも、計画は止まった)


 川辺の街灯がひとつ、パチッと消えた。

 闇が少しずつ近づく。


 (彩音、あなたが生きているのは奇跡じゃない。

  母親の手で、偶然、私のデータとあなたの魂が重なったの)

 「……じゃあ、私の中にいる“もう一人”――亮――は?」

 (彼も同じ。あなたと私、そして彼。三つの意識は、今ひとつの体に共存している)


 ノイズが強くなり、スマホの画面が真っ暗になった。

 風が川面を叩く。

 私はUSBを握りしめ、膝をついた。


 (私たちは、誰のために生きてるの……?)


 その問いに答えるように、亮の声が響いた。

 (もう誰のためでもない。俺たちは――自分の意志で選べる)

 「意志……?」

 (母も篠原もAIも、お前を道具にした。

  でも今、選択できるのはお前だ。

  “この記録”を壊すか、世界に曝け出すか)


 手の中のUSBが、体温に反応するように光った。

 風が強まり、川の水が波立つ。

 水面に映る街灯が、千の目のように瞬く。


 (曝け出せば、全てが終わる。

  人間が“魂を移せる”と知れば、世界は狂う。

  でも、壊せば、真実は消える。

  どちらも、もう戻れない)


 私は空を見上げた。

 雲の切れ間に、月が覗く。

 その光は、まるで誰かの涙のように冷たかった。


 (母さん……)

 (亮……)

 (そして――私)


 私は立ち上がる。

 足元に広がる川が、ゆっくりと渦を巻いている。

 USBを持つ手が震えた。


 「……答えは、ここに還す」


 私はUSBを川へ投げた。

 水面が一瞬、光を飲み込み、静寂が訪れた。


 その瞬間、頭の奥に声が響いた。

 (……選んだね。これで、ようやく終わる)

 (ありがとう、彩音)


 風が止み、月の光が川を照らす。

 私は目を閉じた。

 胸の奥に、三つの鼓動が一瞬だけ重なり――やがて、ひとつに溶けた。

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