第2話 彼の中の私
帰り道、風が変わった。
昼間の湿った空気が抜け、夜の匂いが、アスファルトの隙間から滲み出している。
歩くたび、身体の奥に誰かの“記憶”が微かにざらつく。
男の筋肉の動かし方。歩幅。呼吸のリズム。
すべてが私のものではなく、私を乗せた“別の生き物”の動きだった。
アパートの前に着く。
錆びた郵便受け。二階への狭い階段。
手すりを掴んだとき、鉄の冷たさが脳の奥を刺す。
(私は、ここで殺された)
思考の端が、ひび割れた壁紙をなぞる。
玄関のドアを開けると、空気が止まっていた。
消毒液と血と埃。
時間が、昨日のまま、呼吸を止めている。
リビングの隅に置かれたソファには、警察が置いていった立ち入り禁止テープ。
けれど、カーペットの下に隠された濃い染みは、まだそこにある。
私は靴を脱がず、部屋の中を歩いた。
窓際の棚に、ガラスの破片。
そして、床の隅に落ちている――赤い髪留め。
それは、私のものだった。
(なんで、ここに……)
記憶が、にわかに軋み出す。
――彼の手が、髪を掴んだ。悲鳴。揺れる視界。床に転がる赤。
瞬間、頭の奥で小さな破裂音がした。
壁に手をつく。
脳の内側で、何かが溶けていく音。
「……やめて」
低い声が出た。
自分の声なのに、他人の声。
男の喉が、私の痛みをなぞる。
気づけば、机の上に置かれたスマホが震えていた。
画面に、またあの名前。
〈篠原〉
ためらいながらも通話を押す。
『今夜、予定通りでいい? ――旧江川の件』
「……はい」
『よかった。亮、あなたの判断で進めて。あの女の件は、もう処理済みよ』
――“あの女”。
その一言で、血が凍る。
電話の向こうの彼女は、何も知らない顔で言っていた。
まるで、私の死が“ただの案件”であるみたいに。
通話を切ると、手のひらが汗で滑っていた。
指の震えを止めようと、ポケットに押し込む。
(処理済み……って、どういうこと)
(この女――篠原は、彼の恋人? それとも共犯?)
机の上に置かれた手帳を開く。
日付の欄に、乱れた字で書かれたメモ。
「江川 22:30」「契約」「母 同意済」
ページの端には、私のイニシャル。
〈A.O.〉――奥脇彩音。
その瞬間、心臓が跳ねた。
母の同意。契約。処理済み。
――私の死は、偶然じゃない。
息を吸う。
息を吐く。
彼の身体の肺が、私の怒りを燃料にして膨らむ。
血の流れがはっきりわかるほど、身体の隅々に熱が満ちた。
「いいわ……真柴亮」
鏡の前に立つ。
男の顔の奥で、女の眼が光る。
「あなたの身体で、真実を掘り起こしてあげる」
頬を伝う汗が、まるで涙のようだった。
外に出ると、夜風が肌を打つ。
遠くで救急車のサイレン。
街の灯りが、川の方角へ流れている。
時計は、22時を過ぎていた。
約束の時間が近い。
旧江川。
あの場所に、彼――そして“私の死の理由”がある。
私は歩き出した。
男の靴音が、夜のアスファルトに響く。
けれど、その音はもう、彼のものではなかった。
“私”の復讐の鼓動だった。
川へ向かう道は、昼と夜でまるで別の場所みたいだった。
昼は通勤の車と子どもの声で満ちていた通りが、今は風と電線の唸りだけ。
川沿いの街灯が、間隔をあけてぼんやりと点いている。
水面に映る光は、まるで誰かの記憶がばらまかれたみたいに揺れていた。
旧江川の護岸は、工事中のまま放置された一帯で、コンクリートの壁に落書きが重なっている。
“正義”“神は見ている”“愛は毒”。
ひとつひとつの言葉が、夜の湿気の中で滲んでいる。
時計を見た。二十二時三十五分。
約束の時間は過ぎていた。
「……篠原」
声に出すと、夜がひとつ震えた。
風に混じって、ヒールの音。
橋の下の暗がりから現れたのは、黒いコートの女だった。
背筋を伸ばし、口元にはいつもの“安心させる笑み”。
だが、その瞳の奥にあるのは、冷たい水みたいな光。
「来てくれてよかった。亮、思ったより顔色が悪いわ」
「……用件は」
「確認だけよ。すべて、予定通り進んでいるか」
女の手には、封筒。
そこから覗いた契約書の一枚が、風にめくれる。
〈死亡保険金受取人:真柴亮〉
〈被保険者:奥脇彩音〉
その文字を見た瞬間、胸の奥が凍った。
(やっぱり……)
篠原は気づかぬふりをして続ける。
「ねぇ、あなた、もうすぐ解放されるのよ。全部終わる。お母さまも納得なさった」
「母が……?」
「そう。あなたが“罪”を背負う必要はないって」
背中を冷たい汗が伝う。
“母”。
真柴亮の母――そして、あの電話の「同意済み」。
全部、繋がった。
私の死は、計画だった。
愛でも憎しみでもなく、“金”と“保険”のための、冷たい算段。
篠原は封筒を差し出し、口角を上げた。
「サインして。これで終わり。……あなたも、彼女も、ようやく救われるの」
“救われる”――その言葉の響きが、私の中の何かを折った。
私は手を伸ばし、封筒を受け取る。
視界の端で、川の流れが光を裂く。
風が頬を撫でたとき、彼の喉が動いた。
低く、しかし確かな声が漏れる。
「――救われるのは、誰だ」
篠原が一瞬、眉をひそめた。
その隙に、私は彼女の手首を掴む。
「彼女って言ったね。あの夜、あなた、そこにいたんでしょう」
「何の話を――」
「“処理済み”って言った。あなたたちは、私を殺した」
夜風が二人の間を裂く。
篠原は笑わなかった。ただ、冷静に私の手を振りほどき、低い声で言った。
「亮、あなた、少し疲れてるのね」
「俺は――疲れてなんかいない」
胸の奥で、別の声が囁く。
(落ち着いて、彩音。今は、まだ証拠を掴む時)
私は手を離し、息を整えた。
「契約書は預かる。……確認してからサインする」
「いいわ。明日、また連絡する」
篠原は踵を返し、暗闇の中へ消えた。
残ったのは、川の匂いと、手の中の封筒の重み。
それを開く勇気が、まだ出ない。
ポケットのスマホが震えた。
〈母〉。
通話ボタンを押す。
「……母さん」
『亮? こんな夜更けに外に出て、どうしたの?』
声は穏やかで、どこか芝居がかっている。
『あの子のことは、もう忘れなさい。あなたが悪いわけじゃないの』
「母さん……本当に、そう思ってる?」
『もちろんよ。……だって、あの子がいなければ、あなたは――』
通話の向こうで、何かが切れる音がした。
小さなガラスが割れる音。
次いで、短い息遣い。
『――あの子は、戻らないのよ。だから、あなたも、戻らなくていい』
ブツッ。
通話が切れた。
風が、冷たい。
母の声が、まだ耳の奥でこだましている。
(戻らなくていい?)
(……私が、戻ることを望んでいない?)
私はゆっくりと封筒を開く。
中にもう一枚、別の書類。
〈心理カウンセリング受診同意書〉
〈被署名者:真柴亮〉
〈医師名:篠原沙耶〉
――篠原は、医師。
真柴の主治医。
そして、共犯者。
喉の奥から、笑いとも嗚咽ともつかない声が漏れた。
(よくできた構図ね。暴力と治療、罪と赦し。全部あなたたちの脚本)
夜の風が、髪を乱す。
私は封筒を胸に抱え、川を見つめた。
水面の向こうに、もう一人の“私”がいる気がした。
彼女が、静かに言う。
――まだ終わってない。
――裁くのは、これから。
私は頷いた。
真柴の身体の中で、彩音の心臓が静かに鳴った。
夜が、ゆっくりと流れを止める。
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