夏の終わりに

諏訪彼方

第1話

 蝉の声が、うるさいほど響いていた。

 大学の夏休みの始まり。僕は久しぶりに田舎へ帰ってきた。祖母が亡くなったため――それが、この数年ぶりの帰郷の理由だった。死が身近に来ることに、いつになっても慣れない。葬儀には出れなかったから、せめて仏壇に手を合わせたい、そう思った。


 線香の香りと、遠くで響く鐘の音。

 あの家の縁側、庭の向こうに広がる緑が懐かしい。

 幼い頃の僕は、帰省するたびいつもその庭で遊んでいた。隣には、いつも笑っていた女の子――葵がいた。


 祖母の家に着くと、両親や親戚が帰ってきていて常にざわついている。その廊下の向こうにふと目をやると、

 そこに――彼女がいた。


 白いワンピースに、肩まで伸びた黒髪。

 その横顔を見た瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。


「……玲奈、だよな?」

 声をかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。

 驚いたように目を瞬かせ、それから少しだけ微笑む。

「久しぶり、はるくん。覚えててくれたんだ。」


 覚えてるに決まってる。

 けれど、その言葉が喉でつかえて、出てこなかった。

あの頃、庭を駆け回っていた小さな彼女もういなかった。

そこに立っていたのは、僕の知らない誰か――でも、確かに“玲奈”だった。


 葬儀が終わったことにより、親戚たちは慌ただしく帰っていく。

 けれど僕は、数日滞在することにした。

 祖母の遺品整理を手伝うため、そして……たぶん、祖母や玲奈との思い出に浸りたかったから。


 夕暮れ、蝉の声が静かになる頃。

 縁側に座っていると玲奈が、麦茶の入ったグラスを差し出してくれた。


「ねえ、覚えてる? この庭でさ、よく泥団子作ってたの。」

「ああ、覚えてる。……玲奈のほうが上手だったな。僕は不器用だったから中途半端だったな」

「ふふ、うまかったでしょ?」


 笑う玲奈の声に、胸の奥がくすぐったくなる。

 けれど、思い出話をしているだけなのにどうしてこんなにも心がざわつくんだろうか。


 グラスの中の氷が、カランと鳴った。

 ふと見上げた夕焼け空の下、玲奈の横顔が赤く染まっている。それを見た瞬間、言葉がこぼれた。


「……大人になったな。」

「え?」

「いや、なんでもない。……つい、言葉が、な。きれいになったって思って。」


 玲奈の頬に、淡い紅が差したように見えた。

「大人になってからそう言われるの、ちょっと恥ずかしいね。」


 照れくさそうに笑う玲奈の声。

 その笑顔が、胸の奥でずっと鳴り続けていた夏の鐘をふたたび鳴らした。


 それから数日、僕と玲奈は僕の両親などと一緒に遺品の整理をした。古いアルバムや日記をめくるたび、祖母の優しい笑顔が蘇る。庭に出て、草むしりをしていると、土の匂いと風の音が、より幼い頃の記憶を呼び起こした。


 草むしりをしながらいろんな話を玲奈とした。その最中に、

「ねえ、はるくん。」

 と隣でしゃがみながら、玲奈がふと呟く。

「おばあちゃん、最後まで“はるくんに会いたい”って言ってたよ。」

「……そう、だったんだ。」

「うん。たぶんね、あの人、はるくんと私が仲良かったのが嬉しかったんだと思う。」

「仲良かった、か。」

「うん。小さいころ、“玲奈を守ってやる”って言ってくれたでしょ。」


 忘れていたその言葉が、まるで風鈴の音のように胸の中で鳴る。その時、少しだけ僕の方を見上げた。


「ねえ、はるくん。もし、あの約束……今でも覚えてるなら。」

「……ああ。」

「じゃあ、今度は私に守らせて?」


 その瞳には、どこか不安と、そして何か覚悟した時に発す確かな光があった。けれど、僕は何も聞けなかった。夏の空気が、何かを言わせないように張り詰めていたからだ。


 風が吹き、向日葵が揺れる。

 その影の中で、僕たちはしばらく黙っていた。


「もう、あの頃には戻れないね。」

 玲奈は呟いた。

 僕はその言葉に、思わず答えていた。


「戻らなくていい。……今の君が、いちばん綺麗だ。」


 夕日が沈む。

 

 僕らの唇が重なった。


 その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。

 それがどういう名の痛みなのだと気づくには、まだ少しだけ時間が必要だった。

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