第16話 十一月十五日
「それでね――」
扉の先にいたお母さんは扉を開ける音を聞いてそそくさと詰め寄ってきた。いつものことながらに素早く靴をぬいで、リビングに向かう。
その間もお母さんは大きく声を荒げてきた。
いつものように正座をしてお母さんの気が済むまで耐える表情に切り替える。正座になるとお母さんは荒げる声を数段下げて仁王立ちをするのが決まっての行動だった。けど、その日は一向に荒げた声が下がらないで、片足でタンタンタンっと足踏みをやめなかった。
いつもを知っているから、どういうことなのか分からなかった。機嫌が一向に収まらないのは絶対によくないことだけど、不思議になってお母さんを眺めた。
すると、私はお母さんに殴られた。
衝撃だった。
想像もしてなかった予想外の行動。だからか殴られた時の右頬の強烈な衝撃に気づくのにも数秒遅かった。気づいたうえでも現実だということを信じられなかった。茫然とお母さんを見返した時に、血走った怒りの目で、左手を伸ばしてくるお母さんに底の見えない怖さを感じて抵抗できなかった。ただただ震えて殴られていた。
あの時の一瞬一瞬のお母さんの顔が焼き付いて、家族として、親としてのお母さんは一発殴られるごとに亡くなっていった。
そこからの記憶は曖昧で、声を出せず、私を守ることに無我夢中で、したこともない受け身をし続けた。
そこまでが覚えていることで、次の記憶はお母さんのベッド上だった。
意識が戻った時の光景は無機質な天井に小さな豆電球。見慣れた部屋も、初めて来たみたいな別の場所みたいで、そんな感傷に浸っていると、遅れて痛みに気づいて自然と身体は蹲る。
その痛みを何とかしようと、ベッド横にあったはずの固定電話に手を伸ばそうとした。蹲って唸る身体で顔だけを上げて電話を探した。
そんな小さな動きにも痛みが走って視線を巡らせた。だけど、どんなに見渡しても見当たらない固定電話に薄々この場にはないことに気づいた。固定電話は隠されてしまっていた。
立ち上がれずにベッドで藻掻いているとゆっくりと扉が開いて、お母さんが入ってきた。お母さんと目が合ったとき、逃げようと身体を強張らせたけど、余計に痛みが走ってそれどころじゃなかった。
お母さんは目が合うと崩れ落ちて謝ってきた。
昨日の暴力の一件に怖さを感じたけど、お母さんの嘆いて謝る姿に怖さの欠片も感じなかった、むしろ恨む気持ちが徐々にこみ上げってきた。
その気持ちも恨みから軽蔑に代わって、関わることに嫌気がさした。お母さんを気にすることはもうしたくない、視界の中に入れるのも嫌になって、痛みが現実に戻した。
それよりも身体の痛みを直したくて、病院に行かせてほしいとお願いした。
けどお母さんは頭を上げない。何度もおでこを床につけて漏れる声で謝ってくる。声が聞こえていないと思って、反応があるまで何度も声を上げてお願いした。
するとピクっと動きを止めて、聞こえたのか床に当ててたおでこをゆっくりと上げて、ぐちゃぐちゃに濡れた顔で私を見上げた。その時のお母さんは汚かった。
ようやく顔を上げたお母さんに強く責めるように電話する事をお願いした。
「嫌だ。嫌だ! ……なに! なに! ……アンタ上から言ってんのよ⁉」
さっきまで顔をぐちゃぐちゃに濡らしていたお母さんは急に糸が切れたみたいに、一気に逆上してきた。申し訳ない様子は薄れて、いつもの帰りが遅いときみたいになる。
急な態度の豹変に驚きはした、けど強気な気持ちを崩さずにお願いする。
いつもとは明らかに強気な私を従えさせられないと踏んだのか、声を小さくして自分を守るために提案をしてきた。「暴力をしたことをいわないなら……」と視線を外して言ってくる。
そんなことを口にし始めて、だんだんと小声になって言う。
「ダメな母親だけど……」「つかまりたくない……」「暴力さえしなければ……」
その一言一言に、後悔の念が込められていた。
私にとってそれは、ただの駄々をこねた言い訳にしか聞こえなかった。けど、お母さんのお願いを受けないと、ただただ時間の無駄だと思って仕方なくそれを飲み込んだ。
お母さんはそれを聞いたとき、俯いた顔を上げて私の手を取って大喜びで部屋を出て行った。扉を閉める音、玄関扉の開く音に年季の入った錆びた扉の閉まる音。このときは救急車を呼んでくれるのか病院まで送ってくれるのだと思っていた私は、なぜお母さんは家を出たのかわからなかった。タクシーでも呼びに行ったのか軽い気持ちで待つことになった。
ガチャ、と玄関のカギの差し込まれる音が聞こえて、転寝していた私は薄い意識の中でお母さんが帰ってきたのを感じとって眠りについた。
疲労も溜まっていたのか数時間眠った。それは、起きた時の窓から差し込む光で夕方だってわかったから。起きてすぐ「私は痛みに強いのかも?」と、蹲って立ち上がれないほどの痛みだったのに、眠ることの出来た私に驚いた。
そんなことを思いながらある違和感に気づいた。
なんでこんな時間まで家にいるの?
病院に行くか、救急車を呼んでくれる話じゃなかったの?
それに、なんで……?
天井に手を伸ばして、ぐるぐる巻きに包帯されている手を見つめた。
その時だった。
微かに扉の開く音がして、お母さんがお椀をトレーに乗せて現れた。
自らの手に巻かれた包帯を見て、それからお母さんを睨んだ。
それは病院についての追求と包帯について、どちらの説明も求める為で、お母さんは私の視線に気づいて、トレーをベッド横の机に置いてちょっと前に聞いた弱弱しい小声で答えた。
家を出てとりあえずご飯を買いに行った。それは病院に行く前にしておかないといけないと思って、そのあとに病院までどう運ぶか考えているときにあることに気づいた。
たとえ暴力したことを隠そうとしても、お医者さんは騙せないのでは。身体の痣は転んでぶつかったとかの嘘では隠せなくて、結局捕まったりするんじゃないか。病院に連れて行ってはいけない。
という感じで病院には絶対に連れてはいけないし、誰かに見られて虐待を疑われたくないからと痣のある部分を隠すことにした。帰ったらなんて説明しようと困ってはいたけど、ちょうど熟睡していたからそのうちに済ませた。
身震いがして鳥肌が立った。
今では視界にも入れたくないと思っている人に身体を触られて、しかも寝ているときの意識の無い間にされていて、暴力したことを言わない約束までしたのに、捕まってしまうかもと痣を隠すために雑に包帯を巻かれた。
それを今話していても、不快感がこみ上げたのかあの時みたいに身震いした。
その瞬間、怒りを通り越してお母さんに対して思っていた感情が無くなった。お願いすることも説明を促すことに対して何も思えなくなった。私の中でただの他人になった。
ベッド横に置かれたお盆を手に取って、お母さんがスプーンでそれをすくいとって私の口へと運ぶ、受け入れたくはなかったけど今も手を器用には動かせないから仕方なく食べた。
全力で拒否することも出来たかもしれないけど、早く身体を直すほうが大事だと我慢した。そこから二日寝たきりで三日目にやっと学校に行けるようになった。パートに出かけるお母さんは毎朝、家を出る時に痣が消えるまで出るなと言っていたけどそんな言葉にはなんの縛る力もない。
ぎこちない歩き方と頭の包帯に頬の絆創膏、ぐるぐる巻きにされた両腕。
教室のみんなは驚いていたし、先生には事故でもあったのか聞かれたけど約束をしていたから嘘をついてやり過ごした。
今考えれば約束なんか守る必要なかった。
そこから、暴力をしたという後ろめたさからお母さんから怒られること、ご飯がなくなること、話しかけてくることもなくなった。
私もお母さんを避けるようになって会話することはなくなった。
「それから、何か月か立ってー、その頃……」
佐々木は途中で言い淀んでふいにこちらを見て、僕はその視線に答える。
ずーっと僕を見る佐々木と見返す僕。眉間にしわがよって何か言いたげな顔をする佐々木。急に話しを止めてじーっと見つめ合っているいまに、疑問を抱き始めたその時—―。
――野々山くんって、名前なんだっけ?
拍子抜けするような言葉を掛けられる。
「んん?」
「いや、忘れてたわけじゃなくて、覚えてる名前に自信が持てなくて……」
佐々木は視線を泳がせながら言う。
僕はそんな佐々木を見ながら、急な話題転換に疑問を抱きながら答える。
「野々山葵」
「あー。あおい! あおい? あおいぃ! 葵くん!」
僕の名前聞くなり、パァっと目を輝かせて何度も呼ぶ佐々木。
先ほどまで高所を怖がっていた人とは思えないほどの気持ちの高まりに、僕は疑問を膨らませることしかできない。
「えー。どうした?」
「葵くんはさ、私の名前覚えてる?」
「佐々木?」
「そう! あ、違う違う。名前だよ葵くん」
自然と名前で呼ぶ佐々木に内心動揺しつつ、名前を思い出そうと考えてみる。
「あー。覚えてないな」
「だよね! 忘れちゃうよね! そうそう!」
佐々木の言いたげな顔をしていた理由が分かった。
「あかり! わたしの名前は朱里! 朱里だよ葵くん!」
「朱里さん……」
佐々木は嬉しそうに自分の名前を言う。
「なんでー。さん付けに戻っちゃうの⁉ 葵くん!」
嬉しそうにしていた佐々木の顔は一変して、急激に落ち込んで頭を下げた。
「なんだか、こんな感じの会話した気がする」
既視感がして言葉が零れる。
「呼んでくれないの、葵くん? さん付けはもういいんじゃない?」
頭を上げて切実に聞いてくる。
「名前呼び、初めてだから、慣れたらだ」
僕の中で至極真っ当なことを言ったと思う。
「ふーん……」
佐々木は体勢を戻して、静かに僕を睨む。
「……ケチ」
僕には聞こえない小声で言った。
「なんだ?」
佐々木はそっぽを向いてチラチラとこちらを見る。
それは怒っているようで、話しかけてほしいようにも取れた。
「何が言いたいんだ」
「……葵くんの、ケチ」
「え?」
佐々木は静かにそう言った。
これには、既視感とかじゃなくてしっかりと記憶していた。
僕は謝らなければならない。この場合はそうすると決めていたはず。
「……んっと。ご――」
「あ・お・いー、く・ん・のー」
謝ろうと発した声は佐々木の想いのこもった声にかき消される。
そのときだった、佐々木の怒りに燃えた眼光と目が合った瞬間、僕等が待っていたものが来る。
「ンッ⁉」
「ケチーーー‼」
風であった。突風、僕等を一歩どころではない、空中に投げ出すほどのが、僕等の背中を思いっきり押した。一瞬見えたのは空中で目を瞑って叫ぶ佐々木と、大きな青空だった。最後の光景がこんな、さん付けに怒る佐々木でいいのかと内心おもしろくて、こんな最後も悪くないなと思って瞼を閉じた。
今回は死ねると思った。終わり方にしては緊張感はなかったけど、僕の人生の最期の景色にしてはありなんじゃないかと思った。けど――、
―—ケチ‼
佐々木の声が聞こえて、ゆっくりと瞼を開いた。
「また君達なのか」
その声に続いて僕等の真上から声が聞こえた。
今日も僕等は死ねなかった。
それから聞こえた声の主は、見た限り空中に浮いていて、ゆっくりと屋上に着地した。
「もう、諦めてくれたのかと思ってましたよ」
数日ぶりなのに長い間会ってないように感じる。
佐々木は案の定、テンが空中から現れたのに反応せずにそっぽを向いている。
さっきはチラチラしていたのに、一向にこっちを見ないでムスッとしていた。
「佐々木」
反応はない。
前はこれで、すぐに振り向いてくれたんだけど、これでは駄目みたい。
会話をしなければ許してはもらえない。から、まずは佐々木の目の前に移動した。
佐々木は僕と目が合うなり、目を大きく見開いて斜めに視線を逸らした。
「ごめん」
「なにが?」
今度は反応をしてくれた。
視線をチラチラとこちらに向けている。
「ケチで」
「ふーん、それで?」
頷きながら徐々に圧をかけられる。
「名前は、そのうち呼ぶ」
「そのうち? なんでよ!」
チラチラした視線はいつの間にか真正面から向けられる。
「慣れるまで時間がいる」
「さん付けなしで呼んでくれる?」
佐々木は悲し気な表情でこちらを見つめる。
「慣れたらな」
「ふーん、ケチ」
徐々にかけられていた圧はなくなって、声色に怒りが消える。
「ごめん」
「まぁ、いいよ。許す!」
仕方なさそうに言って、佐々木は満面の笑顔を見せた。
「っていうかさ! 私達の名前なんか似てない⁉」
つい今さっきまで、ムスッとしていた人とは思えない切り替えの速さ。
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