幸せの調べ
閉店後のフォルトゥナは、昼の喧騒を忘れたように静まり返っていた。
摩耶の部屋では、小さなランプの光が机の上に淡く広がっている。
壁際には、磨き上げられたガラスの棚と、箱に詰められた無数のパワーストーン。
昼間の店の華やかさとは違う、深い呼吸のような時間が流れていた。
摩耶は椅子に腰を下ろし、天然石を種別ごとに分けた箱を机の上に並べていく。
柚希はその向かい側で、帳簿を広げながら今日の売り上げを計算していた。
ペン先が紙を走る音と、摩耶の指先が石に触れる微かな音だけが響く。
摩耶が手をかざすと、石の表面に光がにじむ。
やわらかく脈打つように、石たちのあいだを淡い波が走り、音のない音が空気を震わせた。まるで、目に見えない歌を歌っているようだ。
――開店中には見せない光景だ。
閉店後、柚希の前でだけ、摩耶は魔法を抑えずに使う。
柚希の前では、隠す理由がないから。
柚希は帳簿から目を上げ、その光景を眺める。
摩耶の魔法は、いつ見ても美しい。
石の奥で生まれる光は息づくように揺れ、世界がひとときだけ優しさに包まれる。
同時に、少しだけ羨ましくもあった。
柚希には、魔法そのものは見えない。
ただ、その余波――世界に生じる光の変化や、空気の震えとしてしか感じ取れない。
摩耶には、この光がどんなふうに見えているのだろう。
帳簿を閉じてノートを片付けると、柚希も席を立ち、摩耶の隣に座った。
ふたりの共同作業の時間だ。
摩耶が選んだ石を、柚希は台座に合わせていく。
ブローチにするか、ヘアピンにするか。
並べられた石を見ながら売値と形態を決める。
金属の線を曲げ、ペンチで留めながら、全体のバランスを見て飾りを足す。
小さな光の粒が、机の上を転がるたびに空気がやわらかくなる。
「摩耶、それは?」
柚希が尋ねる。
「これ? クリスタルとトパーズ。ブレスレットにしようと思って。」
摩耶は並べた石の列を指でなぞり、糸を通す準備をしていた。
「わかった。じゃあ、私は仕上げのチェックしておくね。」
柚希は完成したアクセサリーを専用のかごに入れ、伸びをした。
「そろそろ寝るね。おやすみ、摩耶。」
「おやすみ、柚希。」
摩耶の笑顔に見送られ、柚希は二階の寝室へ上がっていく。
布団に入ると、下の階からかすかに作業の音が聞こえた。
ペンチの金属音、石を選ぶカチカチという音、何かを呟く小さな声。
その音を子守歌のように聞きながら、柚希は静かに眠りへ落ちていった。
* * *
文化祭の朝。
校舎の中は、笑い声と呼び込みの声で満ちていた。
「すごい人混みだね……もう、これだけで疲れちゃいそう。」
柚希がため息をつくと、隣の摩耶が笑った。
「でも、ここはいろんな“楽しい”が集まってる。……気持ちがいい。」
摩耶は深呼吸をして、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
少し緊張しているはずなのに、どこか晴れやかだった。
「意外。摩耶はこういう場所、苦手だと思ってた。」
「うん、得意じゃないけど……雰囲気を感じるのは好き。」
摩耶の笑みがやわらかく光をまとった。
「あ、発表会もう始まる!」
柚希の声に、ふたりは講堂へ向かう足を早めた。
講堂に入ると、独特の静寂が広がっていた。
ざわめきが遠のき、やがてピアノの前奏が流れる。
ステージには合唱部の生徒たち。
未桜と悠真が並んで立ち、まっすぐ前を見つめている。
最初の音が重なり合う瞬間、空気が一変した。
声が響き、旋律が空間を満たしていく。
光が音に変わり、音が光に溶けていく――そんな錯覚さえ覚える。
摩耶のまわりで、淡い輝きが揺れた。
柚希は息をのむ。
「……歌の魔法が動いてる。」
摩耶は目を閉じ、微笑みながら囁いた。
「ここには“楽しい”がたくさんある。
それが、私の力になるの。ねえ、柚希……あたたかいね。」
「うん。すごくあたたかい光。」
その光は、ふたりにしか見えない小さな魔法。
だけど確かに、会場全体が少しだけやわらかく明るくなっていた。
* * *
発表会が終わり、再び拍手が響いた。
客席が少しずつ静まり、やがて人々が外へと流れていく。
エントランスホールに、午後の光が差し込んでいた。
未桜と悠真が駆け寄ってきた。
「どうでした?」
未桜が息を弾ませて尋ねる。
「最高だったよ。光が見えた気がした。」
柚希が微笑むと、未桜は照れたように笑った。
「ローレライ……懐かしいなあ。」
柚希はふと口ずさむ。
静かな旋律が、誰もいないホールに流れていく。
未桜が自然に歌声を重ね、悠真がハーモニーを添える。
柚希は主旋律を譲り、アルトへ回った。
摩耶もそっと声を合わせる。
――うるわし乙女の
リズムをとるように、間奏のピアノを弾くように、摩耶の指先が静かに動いた。
音と光が結びつき、目に見えない糸が空中を渡る。
声の粒が光をまとい、照明がゆるやかに揺れた。
四人の顔に自然と笑みが浮かぶ。
「あ、やばい! クラスの出し物の交代時間だった! すみません、お先に!」
未桜が慌てて走り去る。
悠真が追いかけようとしたそのとき、摩耶が呼び止めた。
「悠真くん。……少し、話があるの。」
「はい?」
彼が振り返る。
摩耶は深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「十年前、あなたを助けたのは、私に魔法を教えてくれた人です。」
悠真の表情が静かに引き締まる。
「……はい。」
「その人に、あなたが“ありがとう”と言いたくて探しているとお伝えしたら、
“君が幸せならそれでいい”と、伝えてほしいと。」
摩耶は悠真の右手を取った。
ポケットから取り出したのは、昨夜仕上げたブレスレット。
クリスタルとトパーズが連なり、光を宿している。
「それからこれを、預かっています。」
彼女はそれを悠真の手首にはめ、そっと微笑んだ。
そして、悠真の右手の手袋に指をかけ、ゆっくりと外していく。
「……あ」
最初は戸惑い、彼は反射的に手を引こうとしたが、
次の瞬間、その動きが止まった。
「……火傷の痕が、消えてる。」
悠真は目を丸くして、露わになった手の甲を見つめ、指先で痕のある場所を撫でた。
「見た目だけ。ブレスレットを外したら現れてしまうけど、でも、きっとその方が過ごしやすいでしょう?」
「ありがとうございます……すごく、うれしいです。」
悠真は両手で摩耶の手を強く握りしめた。
「よかったね、悠真くん。」
柚希が笑いながら言う。
「これで、未桜ちゃんとしっかり手をつなげるよ?」
途端に悠真の顔が、ゆでダコのように真っ赤になった。
わかりやすいなあ と柚希は心の中でほくそ笑む。
「あ、あの……未桜にも、このこと話していいですか?」
「うん、いいよ。このご縁は、未桜ちゃんがつないでくれたから。
でも、それ以外の人には内緒ね。」
「はい。本当に、ありがとうございました!」
悠真は深々と頭を下げ、手袋をつけなおすと、光の中へ走っていった。
* * *
「よかったね、摩耶。」
柚希の声がやさしく響く。
「うん。ちゃんと、言えた。」
摩耶は笑った。その笑みはいつもより少しだけ大人びていた。
「ねえ摩耶。さっき歌ってるとき、照明がゆらゆらしてたの……あなたの力?」
「うん。ちょっとだけ、強くなったみたい。でも、ちゃんと調べてから話すね。」
「うん。待ってる。」
柚希はそっと摩耶を抱きしめた。
窓の外には、夕暮れの光が降り始めている。
遠くで文化祭の音がまだ響いていた。
――光はつながっていく。
手から手へ、歌から歌へ。
そして、静かな心の奥で、また新しい灯りがともる。
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