風の交わす約束

 午後の光がアーケードの硝子天井をくぐり、フォルトゥナの店内にやわらかく差し込んでいた。

 ショーケースの前で、柚希は目を細める。

「へえ、合唱部なんだね。」

 彼女の声は、どこか懐かしさを帯びていた。

「はい。文化祭で発表会をやるんです。たくさんの人に聞いてもらいたいから、このポスターをお店に貼ってほしくて。」

 未桜は筒状に丸めたポスターを、丁寧に広げて見せた。

 光沢のある紙の上に、ステージの写真と“響け、心のハーモニー”の文字。

 未桜の胸元では、見覚えのあるムーンストーンのブローチが、控えめに光を返していた。

「わあ……私と、あっちの摩耶もね、学生のころ合唱部だったの。」

 柚希は目を細め、ポスターを受け取ると指先で縁をなぞった。

「懐かしいな。赤澤先生、まだ元気?」

「元気ですよ! 会いに来てくれたら、先生もきっと喜びます!」

 未桜と目を合わせ、悠真が嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、柚希は胸の奥で小さく頷いた。

 ――なるほど、そういうこと。

「それじゃあ、ほかのお店も回らなきゃ。」

 二人は軽くお辞儀をして、扉の方へ向かう。


 そのとき、外から聞き慣れた声がした。

「おや、悠真くんじゃないか。」

 振り返ると、スーツ姿の男性が立っていた。

「わあ、琢磨さん! お久しぶりです!」

 悠真が嬉しそうに駆け寄る。

「すみません、僕ら急いでるので――」

「ああ、いいよ。また後で連絡して。電話番号、わかるよね?」

「はい、あります。ありがとうございます!」

 軽く会釈して、悠真と未桜は去っていった。


 残された琢磨は、店の中を見回しながらため息をついた。

 そして、後ろにいたメガネの男性に向かって手を振る。

「知り合い?」

「昔、隣に住んでた子だよ。……ほら、入ってみな。」

 男性――緑門知也みどりかどともやは、少し戸惑いながら店に足を踏み入れた。

「コンセプトショップ巡りって言うからさ。北欧雑貨とか、照明ギャラリーの類かと思ったよ。」

「まあ見てみろって。損はしない。」

「確かに外見のインパクトはあるけども……」

 口ではそう言いながらも、知也の目はすぐに見開かれた。

「うわぁ……すごいな。」

 天井のランプシェードはアンティーク調で、

 棚には淡く透ける天然石とドライフラワーが静かに並んでいる。

 照明の配置は不均一なのに、どこに立ってもやわらかい陰影が生まれる。

「光の温度が全部“人肌”だな。」

「そう。だから落ち着く。俺たちの会社で使ってるLEDじゃ出せない。」

「……確かに。」

 琢磨は懐かしげに微笑んだ。


 そのとき、ポスターを貼り終えた柚希が振り返り、声をかけた。

「いらっしゃいませ。お久しぶりです。」

「覚えててくれたんですね。」

「もちろん。今日はお連れさまとご一緒ですか?」

「ええ、同じ部署で。今度一緒に会社を立ち上げるんです。」

「へえ、すごい。どんな会社なんですか?」

「新しい照明のブランドを作ろうと思ってて。」

 知也は名刺を差し出しながら笑った。

「緑門知也といいます。琢磨が“お手本にしたい光がある”って言うもんだから、半信半疑で来たんですけど……これは、確かに。」

「どんなふうに見えます?」

 柚希の問いに、知也は少し考えてから答えた。

「……“守られてる”感じ、ですね。

 光って、普通は“照らす側”にあるはずなのに、

 ここでは、照らされる人も光の一部になってる。」

 柚希のまなざしがやわらかく揺れた。

 そして、微笑む。

「それ、とてもうれしい言葉です。

 このお店、私と摩耶で一緒に作ったんです。

 “誰かを包み込むような光”がほしい、って思って。」

「たしかに、包まれてる感じがします。」

 知也は店内を見回しながら、静かに頷いた。

「いいな……今度、スケッチしに来てもいいですか?」

「スケッチなら大歓迎です。ただ、写真はご遠慮いただいてて。」

「もちろん。描く方が、光を覚えられますから。」

 そう言って、知也はショーケースの端に目をとめた。

「これ、きれいですね。」

 手に取ったのは、アメジストのネクタイピン。

「紫は僕のテーマカラーなんです。これ、いただきます。」

「ありがとうございます。お包みしますね。」


 レジカウンターに置かれたネクタイピンを、摩耶がそっと手に取った。

 指先が触れると、店内の光が一瞬だけ微かに瞬く。

 ふわりと空気が澄みわたる。摩耶の唇が静かに動いた。


 ――「信じる手が、光をつなぐ。」


 ほんの一瞬、光がアメジストの奥でゆらぎ、すぐに静けさが戻る。

 知也は何かを感じたように、息をひそめていた。


* * *


「知也、電車は大丈夫か?」

 会計を終えた琢磨が声をかける。

「あ、やば。次の電車逃すと二十分待ちだ。先に行くね!」

 慌てて時計を見た知也は、手を振って店を出ていった。


 琢磨はその背中を見送り、ふと柚希の方に向き直る。

「……先日の火事の話、途中になってしまったので。」

 声が少し低くなる。

「少しだけ、付け足させてください。

 ――あの人は、誰かを傷つけるために力を使ったわけじゃない。

 悠真くんを助けるために、炎の中へ入っていった。

 僕は、あれが“優しさ”だと思っています。」

 柚希は静かにうなずいた。

「みんながみんな、彼を恐れているわけじゃない。

 あの光を信じている人も、確かにいるんです。

 ……それだけは、伝えておきたかった。」

 琢磨の声には、穏やかな決意が宿っていた。


 柚希が摩耶の方をそっと見る。

 彼女の肩が、わずかに震えていた。

「琢磨さん。」

 摩耶が顔を上げる。

 胸の前で重ねた手に、静かな力がこもっていた。

「そのガーネットのネクタイピン……先日お買い上げになったものですよね?」

「え? ああ、そうです。」

「少しだけ、お借りしてもいいですか?」

「もちろん。」

 琢磨が胸元から外したピンを手渡すと、摩耶はそれを両手で包み込み、目を閉じた。

 空気がわずかに揺らぐ。

 「……夢のかけらは、まだ熱を持っている。」

 炎のような赤い光が彼女の手の中で淡くともり、ゆっくりと静かに消えていった。

 琢磨は何も言わなかったが、その目に、深い感謝の色が浮かんでいた。


「ありがとう。」

 ピンを受け取り、再び胸に着けると、琢磨は軽く頭を下げた。

「また来ますね。」

 そう言い残して、穏やかな笑みのまま扉を出ていく。

 ベルの音が遠ざかり、静けさが戻る。


* * *


「摩耶……よかったの?」

 柚希が、扉の向こうを見つめながら尋ねた。

「うん。琢磨さん、信じてるって言ってくれたから。」

 摩耶の声は、どこか晴れやかだった。

 その視線の先には、柚希が貼ったばかりの文化祭のポスターがある。

「ねえ、柚希。私……悠真くんに、ちゃんと話そうと思う。」

 摩耶の声には、ほんの少しの震えと、それを上回る決意があった。

 柚希は静かに頷いた。

「わかった。一緒に行こう。文化祭。」

 摩耶は微笑む。

 その笑みの奥に、ようやく“自分で歩きだす”意志が宿っていた。


 ショーケースの上では、ムーンストーンの光が小さく瞬いている。

 まるでその決意を祝福するように。


 フォルトゥナの店内に、夕暮れの光が広がった。

 ガラスの粒が、静かな歌声のように揺れながら――

 未来へと続く“光の道”を、少しずつ照らしていた。

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