光の記憶
夕暮れのアーケード街を、
群青色の空が街灯に染まりはじめ、店の軒先に吊るされたガラス玉が、夕陽を受けて淡く光る。
通りを行き交う人々のざわめきの中で、悠真はどこか遠くの世界に意識を向けていた。
右手にはめた薄手の手袋。
夏でも冬でも外すことのないその布の下に、彼は小さな秘密を抱えている。
手袋の中はいつもじんわりと汗ばみ、指先が少し蒸れる。だが、それでも外すことはなかった。
――あの日の記憶と、焼けた皮膚の感触を、誰にも見せたくなかったからだ。
文化祭が終われば、受験勉強が本格的に始まる。
同じ合唱部の後輩・桃瀬未桜が練習中にちらちらとこちらを見てくるのは知っていた。
彼女とは感性が合い、話も不思議と途切れない。
このまま付き合ってもいいのかもしれない――そんな予感を抱きながらも、悠真の心はどこかでブレーキを踏んでいた。
勉強と恋と、どちらも大切にする余裕は今の自分にはない。
その曖昧な距離感の中で、未桜の笑顔だけが、なぜか胸に残っていた。
ふと、通りの端に見慣れない看板が目に入った。
黒いチョークボードに白い文字。
『パワーストーンとアクセサリーの店 フォルトゥナはこちら』
「……これか。」
未桜が「かわいいお店を見つけたの」と友達に話していたのを思い出す。
そのときの嬉しそうな顔がふと浮かび、悠真は苦笑した。
彼女が惹かれたものを、自分も見てみたいと思ったのだ。
アーケードを抜けると、通りは急に静まり返った。
住宅街の中にぽつりと灯りがともる。
クリーム色のレンガ造りの小さな店――まるで時間の流れが止まっているかのような佇まい。
ブロンズの扉の横に、「フォルトゥナ」と書かれた看板が揺れている。
「へえ……かわいいな。」
つぶやきながら扉を押す。
カラン――と鈴の音が鳴った瞬間、夕暮れの喧騒がすっと遠のき、店内の空気が柔らかく沈んだ。
棚には、色とりどりの石が並んでいる。
ラピスラズリの深い青、アメジストの紫、ローズクォーツの淡い光。
それぞれが小さな心臓のように、静かに脈打っている気がした。
「いらっしゃいませ。学校帰りですね。」
声の主は、柔らかな茶色のショートボブの女性――桜庭柚希。
胸元のムーンストーンが、白い光を帯びている。
「どんな石をお探しですか?」
「えっと……もうすぐ大学受験で、学問がうまくいくようなお守りとか。」
軽い調子で言いながらも、悠真の目は店内をくまなく見ていた。
その視線に、柚希はふと“探している人の目”を感じた。
悠真の目が奥のカウンターに向く。
そこには、静かに石を磨いているもう一人の女性――白羽摩耶がいた。
その瞬間、悠真の瞳がわずかに揺れた。
(……知ってる?)
柚希の胸に、直感が走る。
悠真のまなざしの奥に、記憶の断片のような光が見えた気がした。
柚希はあえて視線を逸らし、棚のほうへ案内する。
「男の子には、このラピスラズリのストラップが人気かな。こちらは“努力”とか“冷静さ”を意味する石です。受験生にも人気なんですよ。」
悠真は青い石を手に取り、光に透かした。
深い群青の中に、金の粒が星のように散っている。
指先でそっと触れると、どこか懐かしい温度を感じた。
「……きれいだ。」
レジカウンターの奥で、摩耶がその石を受け取る。
彼女の指先がラピスを包み、静かに目を閉じた。
その仕草は祈りにも似ていた。
指がわずかに動くたび、空気の層が入れ替わるように澄んでいく。
柚希には、その変化が“響き”として伝わる。
摩耶の魔法が、指先から石へと流れ込む音――それは耳ではなく、心で聞く音だ。
夕陽の光が窓を抜け、ラピスの表面を照らした。
その青の奥に、淡い光が生まれる。
悠真は思わず息を呑んだ。
「……優しい光だ。あの人みたいな。」
摩耶の唇がかすかに動く。
――「真実は、静かな心の底に。」
声にはならないその言葉が、石の中に沈んでいった。
「不思議ですね。さっき、光が石の中で揺れたように見えたんです。」
悠真が言うと、柚希は穏やかに微笑んだ。
「きっと、あなたの心がそれを見せてくれたんですよ。」
悠真の頬が少し赤くなる。
袋を受け取り、ふと逡巡するように言葉を継いだ。
「……あの、実は僕、人を探しているんです。」
柚希と摩耶が、同時に目を上げた。
悠真は右手の手袋を少しだけめくって手の甲を摩耶に見せた。
「十年前、僕を助けてくれた人です。
“ありがとう”って伝えたくて。でも、その人はすぐにいなくなってしまって……」
彼は摩耶をまっすぐに見つめた。
「あなたが、その人に少し似ていて。もしかしたらご存じじゃないかと思って。」
摩耶の指が震えた。
一瞬、彼女の瞳に影が走る。
「……ごめんなさい。知らないです。」
その声は、少しかすれていた。
「そうですか。……こちらこそ、変なことを聞いてすみません。」
悠真は頭を下げ、店を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
柚希はしばらくその方向を見つめ、深く息を吐いた。
「……少し早いけど、今日はもう閉めようか。」
「うん。ごめん。」
摩耶は遠い目をしていた。
「“先生”が助けた子?」
柚希の問いに、摩耶は小さく頷く。
「たぶん。手袋の中に、大きな火傷の痕があった。」
“先生”――それは、摩耶がかつて出会った魔法使いのこと。
道端でぼんやり空を見上げていた少女の摩耶に、魔法の素質を見出し、教えを授けた人物。
柚希は会ったことがないが、摩耶の話によれば、
国籍も年齢も定かでない、紺のマントを羽織った長身の男だったという。
カウンターの奥でうずくまった摩耶を、柚希はそっと抱きしめた。
「ありがとうって、言いたかったんだって。」
「……うん。でも、魔法のことを知られるのは怖い。」
「そうだね。」
柚希はゆっくりと摩耶の背中を撫でる。
まるで小さな子をあやすように、一定のリズムで。
摩耶の呼吸が少しずつ落ち着き、頬が彼女の肩に沈む。
柚希は心の中で静かに誓った。
――摩耶を守る。どんなことがあっても。
外では、夜の風が木々を揺らし、
店のステンドグラスが月の光を受けて淡く輝いた。
フォルトゥナの灯が、二人を包むように揺れている。
その光は、誰にも見えない約束のように、
そっと店の奥の闇を照らしていた。
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