片思いの歌
都心から電車で四十分。
郊外のベッドタウン・
遠くで電車のブレーキ音が長く伸び、それが消えると、薄い橙の空に小さく月が滲んでいた。
桜が丘高校二年の
制服のスカートの裾がふわりと揺れ、彼女の唇からは、今日の合唱練習で歌った「ローレライ」の旋律が漏れる。
なじかは知らねど 心わびて
昔の
声に出さず、胸の奥で歌うように。
もうすぐ文化祭。合唱部の発表会は毎年恒例で、練習は今がいちばんの山場だった。ピアノ伴奏の余韻や、先輩の声の響きがまだ耳の奥に残っている。
ふと、未桜の足が止まった。
八百屋の脇道に、黒いチョークボードが立てかけられている。
白いチョークの文字でこう書かれていた。
『今月のパワーストーン:
ローズクォーツ
恋が叶うお守り
パワーストーンとアクセサリーの店 フォルトゥナはこちら』
未桜は思わず読み上げて、小さく笑った。
「……恋が叶う?」
その言葉の響きに、ふと浮かんだのは合唱部の先輩――
真面目で穏やかな声。練習中、未桜が音を外すと、すぐに隣で支えてくれるあの優しい声。
ただの部活仲間ではなく、もっと近くに行けたらいいのに。
そんな気持ちを抱きながらも、どうしても言葉にはできない。
――そんな自分を変えられたら。
未桜の足は、気づけば自然に横道へと曲がっていた。
静かな住宅街に入ると、すぐに一軒の店が目に飛び込んできた。
クリーム色のレンガ造りに、灰色の屋根瓦。小さな煙突と、ステンドグラスのはめ込まれたブロンズの扉。まるで絵本から抜け出したような外観だった。
扉の横の看板には、手書きの文字で「フォルトゥナ」とある。
「うわ……かわいい……!」
未桜は両手で口を押さえた。かわいいものを見つけたときの、彼女の癖。
「こんなお店、あったんだ……」
扉の取っ手をそっと引く。
カラン――と鈴の音が鳴り、店の中の空気が一瞬やわらかく揺れた。
木の床には陽射しが差し込み、棚に並んだ石たちが静かに光っている。アメジスト、シトリン、ラピスラズリ。どれも小さな宇宙の欠片のようだった。
その光景に、未桜の胸が少しだけ高鳴る。
カウンターの向こうで、女性が顔を上げた。
明るい茶色のショートボブ。胸元のムーンストーンが、光の粒を帯びている。桜庭柚希だった。
柚希は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「いらっしゃいませ。こんにちは。どんな石をお探しですか?」
未桜は少しだけ俯いて答える。
「あの……パワーストーンって、恋に効くのもありますか?」
柚希は目を細め、ショーケースの上に置かれた淡いピンクの石を指さした。
「このローズクォーツは、気持ちをやわらかくしてくれる石なんです。
恋が叶うというより、“自分の心を大事にできるようになる”石、かな。」
未桜は思わず顔を上げた。
「……なんか、そういうの、いいかも。」
彼女の声には、ほんの少しの安堵が混じっていた。
柚希はカウンターの奥にいるもう一人の女性――白羽摩耶を振り返る。
目で「これでいい?」と伝えると、摩耶は静かに頷いた。
摩耶の指先が、レジカウンターに置かれたローズクォーツのブレスレットに触れた瞬間、空気が変わった。
風鈴が鳴るでもなく、ただ音の粒がすっと遠のく。
店の空気が深く息をして、光の密度がほんの少し増した気がした。
柚希はその変化を肌で感じる。胸の奥に“ぽっ”と温かな灯がともる。
まるで、心の奥をそっと照らされるような感覚。
摩耶の唇がわずかに動いた。声にはならない。
けれど、その口の形を読むように、柚希には聞こえる。
「――幸せは、触れた手のぬくもりに。」
やがて摩耶は目を開け、レジを打っった。
柚希がアクセサリーを袋に包む間、未桜は小さな石を見つめ続けていた。
「……すごく、きれいですね。光ってるみたい。」
柚希は微笑んで差し出す。
「きっと、あなたの気持ちに似てるんだと思います。」
未桜は一瞬言葉をなくし、それからそっと微笑んだ。
手のひらの中の石が、まるで息づくように温かい気がした。
扉が閉まると、外の風が一瞬入り込み、店内に小さな静寂が訪れた。
柚希はカウンターに肘をつき、窓の外の夜空を眺める。
「かわいいお客さんだったね。」
「うん。」
摩耶が答える。
彼女はまだ指先を見つめていた。
「“光ってるみたい”って言ってた。……嬉しかった。」
「だって、きれいだったもの。あなたの魔法も、あの子の心も。」
柚希の声は、店の空気に溶けていった。
しばらくの沈黙のあと、彼女はぽつりと呟く。
「お店、始めてよかったね。」
「うん。よかった。」
摩耶は微笑む。
「疲れてない? 魔法を使うと、少し疲れるって言ってたよね。」
「大丈夫。あの子の中に“幸せ”が灯ったのが見えたから。
それを感じると、むしろ元気になるんだ。」
柚希は頷いた。前に聞いたことがある。
――大きな声を出すと喉が疲れるように、強い魔法を使うと摩耶の心も消耗する。
けれど、人の「幸せ」「嬉しい」と思う気持ちが、摩耶の力を癒やしていくのだと。
「無理しないでね。」
「うん。ちゃんと大丈夫。」
摩耶の指先が、まだ淡く光を帯びているように思えた。
それは、先ほどのローズクォーツに残った光の名残――未桜の“願い”のかけらのようだった。
窓の外では、夜風が街路樹の葉を揺らしている。
カーテンがふわりと波打ち、店の奥の棚に並ぶ石たちが小さくきらめいた。
その光が、まるで小さな歌声のように揺れている。
柚希はカウンター越しに摩耶を見る。
「ねえ、摩耶。」
「なに?」
「次に来る子にも、きっと光をあげられるよね。」
摩耶は小さく笑ってうなずいた。
「うん。だって、幸せって連鎖するものだから。」
その言葉のあと、店内にまた静かな時間が戻った。
夜の帳が降りる中、フォルトゥナの小さな灯だけが、やさしく街角を照らしていた。
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