途中で押すと落ちる

霧原ミハウ(Mironow)

途中で押すと落ちる ー雪の首都のエレベーターー

――押すな。途中で押せば下へ行く——そう教わった、冬の団地で。


 1991年末、モスクワ南東部に林立する団地群は、灰色の空の下で巨大なコンクリートの墓標のように沈黙していた。そのうちの一棟の前に、デニス、ナージャ、ジョーマの三人は立っていた。招かれた友人宅を目指してきたものの、目の前の建物のあまりの古さに言葉を失う。壁は至る所で崩れ、かつて白かったはずの塗装は、煤と雨垂れでまだらの醜い染みに変わっていた。

「えー、彼がどうしてこんな所に?」

 ナージャが信じられないという顔で呟く。

「親父さん、あの特権階級だろ? それで喧嘩して家を出たって」

 デニスが吐き捨てるように言った。

「相手、元・同国人でしょ」

「目覚めた民族意識ってやつで、今は見えない国境さ」

「俺も、人のことは言えないがな」

 ジョーマが肩をすくめる。長い外国暮らしで、見方も常識もすっかり『西側』に寄っている。

 エントランスには淀んだ空気。掲示板の隅に、手書きで「エレベーター注意」の紙がテープで貼られていた。

「何階だった?」

「7階か8階」

「エレベーターは?」

「あるだけマシだな」

 ジョーマが軽口を叩きながら壁のボタンを押すと、ゴーッという重い唸りののち、古めかしい鉄のドアがガタンと開いた。内部の裸電球が、薄暗いホールにいた三人の目を射る。

「小さい……一人用かしら?」

「いや、3人なら乗れるはずだ」

「なんだか、怖い」

 ナージャが一歩退く。デニスが先に乗り、彼女の肩に腕を回して中に導いた。最後にジョーマが体をねじ込む。ぎしり、と床が軋む。

「乗れたな」

「まるで瓶詰だ」

「きついって!」

 三人は互いの体温を感じるほど密着し、抱き合うような格好で収まった。

「ボタン、押せるか?」

「なんとか……」

 ジョーマが窮屈な体勢のまま、バックハンドで目的階のボタンに触れた。

「8階だな?」

「そう、8階」

 ガタンと音を立ててドアが閉まる。一瞬の静寂。

「押したか?」

「ああ、押した」

「動かないのか?」

「いや、押したって」

 その時、ゴトンと腹に響く衝撃とともに、籠(かご)は亀のような速度で上昇を始めた。

「遅くないか?」

 じりじりした時間が流れる。3階を越したあたりで、不意にガクンと揺れて停止。

「えっ?」

 三人の間にどよめきが走る。

「止まった」

「今、何階だ?」

「3階半」

「半ってなんだよ」

 デニスがドアの隙間を睨む。

「コンクリの継ぎ目だ……階と階の縫い目に挟まれてる」

「いやーっ!」

 ナージャの悲鳴とほぼ同時に、籠はまた動き出す。だが束の間、また止まる。

 そして次の瞬間、プツンという音とともに、世界から一切の光が消えた。非常灯も点かない。油の酸っぱさと、静電気の針だけが生きている。

 黒檀の闇。

「きゃああああっ!」

 鼓膜を刺す悲鳴の直後、エレベーターが再び動き出す——しかし明らかに下降だ。

「これ、下りてないか?」闇の中でジョーマ。

「嘘……下向きよ、これ」ナージャの声が震える。

「いや、気のせいだ。上に動いてる」デニス。

「腕を緩めてくれ、きつい」

「ちょっと、どさくさに紛れてキスしないでよ」

 ナージャのとがった声にデニスの短い笑い——直後、ケーブルがキィと鳴き、下降が僅かに加速した。

「このエレベーター、本当におかしいぞ」ジョーマの苛立ちが募る。「下ってる。間違いなく下だ!」

「えっ、いやあ!」

「もういい、5階で降りる!」

 痺れを切らしたジョーマが、闇の中で手探りにボタンへ伸ばす。その瞬間、デニスとナージャが同時に絶叫した。

「だめーっ!!」

「押したら止まる!」

「いや、押したら落ちる!」

 二人の声がぶつかり、ジョーマは雷に打たれたように腕を引いた。

 闇の中、デニスがぜいぜい言う。

「ここはロンドンでも東京でもない。忘れたか? 俺たちは今、籠さまの掌の上なんだ」

 それきり会話は途切れた。ゴトン——底に何かが当たる衝撃とともに、エレベーターはついに動きを止める。息苦しい沈黙。

 やがて、軋む音とともにドアが開いた。焼けた埃と生ゴミ、それにラジエーター油が混じった淀んだ空気が流れ込む。そこは見慣れた居住階の廊下ではなく、コンクリート剥き出しの薄暗いゴミ集積所だった。

「降りる」

 ナージャが最初に言った。

「階段で行く。あんなもの、もう二度と乗らない」

「おい、8階だぞ? 正気か?」

「死ぬよりましよ!」

 震える足で籠から出るナージャ。デニスはため息をつき、「仕方ない。俺も付き合うよ」と後に続いた。

 一人、入口に取り残されたジョーマは、二人を信じられないという目で見送る。非科学的だ。西側ではあり得ない迷信だ。機械は機械、安全基準というものがあるはず——付き合っていられない。

「西側ボケって言いたいんだろ」

 吐き捨てるように言い、再び籠に戻ってためらいなく「8」を押した。

 ドアが閉まる。上昇を始めたエレベーターは、さっきの不気味な振る舞いが嘘のように驚くほど静かで滑らかだった。階数ランプが、3、4、5……と規則正しく点灯していく。それでもジョーマの心臓は嫌な音を立てる。壁の染みや傷の一つ一つが、不吉な何かに見えてきた。

 チン。8階に到着。

 ドアが開く。暖かな光と笑い声、焼けたチーズの香ばしい匂い。友人のヴォロージャが、恋人のターニャと腕を組んで出迎える。

「よう、ジョーマ! 遅かったな」

「ああ……ちょっと、そこの籠さまとな」

 テーブルには、この国で今流行りのピザが湯気を立てている。別世界だ。

「どうした? エレベーター、何か問題でも?」

 ヴォロージャがピザを一切れ差し出しながら尋ねる。

「いや、ひどい目に遭った。途中で止まるし、勝手に下がるし。ナージャとデニスは怖がって階段で来てる」

「ふぅん……」ヴォロージャの眉が寄る。「お前、途中で別の階のボタン、押しかけなかったか?」

「指先が触れたところでやめた」

 その瞬間、二人の顔から笑みが消えた。

「そうか。正解だ」ヴォロージャは真顔で頷く。「古いリレー式だと、途中押しで非常ブレーキが外れたりするんだよ。管理会社にいる従兄が言ってた。押してたら落ちてたぞ」

「まじかよ」

 血の気が引く。隣でターニャが呆れたように言った。

「これだから『西側の安全神話』帰りは……。それ、ここじゃ命取り」

 汗だくのデニスとナージャが部屋にたどり着いたのは、それから十分ほど後だった。踵のゴムがキュッと鳴り、吐く息が白い。

 西側の象徴みたいなピザを頬張りながら、ジョーマは先ほどまで自分が乗っていた鉄の箱を思い出す。狭く、縦に長く、窓のない空間。

「どおりで——」

 誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

「あの籠、棺桶の形をしてるわけだ」

 冬の空気だけが窓に凝り、光は黙って瞬いた。


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