蟻ですが、共食いで進化します。 ―閃導群王の支配譜―
桃神かぐら
第1話 孵化と、まだ呼べない名前
最初に来たのは匂いだ。
薬品棚のアセトン、アルコール、インキュベータの温いプラスチック、夜の研究棟の空調が吐き出す金属臭。そういう都市の匂いが、土に溶けている。湿り、微生物、腐植、胞子。全部、言葉みたいに意味を持って押し寄せてくる。
――ああ、俺は生きている。
けれど、眼がない。代わりに触角の付け根から、世界の地図が立ち上がる。温度の勾配と二酸化炭素の小さな波、糖の気配、脂肪酸の刺激、遠くで薄く鳴る、心拍みたいな振動。
殻を噛んだ。膜を破る、ちいさな顎の音が、やけに大きく思えた。殻の内側はぬるく、外はひやりとしている。顎をこじ入れ、体をひねる。孵化。
俺は幼虫として世界に滑り出た。
柔らかな顎が、俺を持ち上げる。看護蟻だ。短く、規則正しい触角の打音――「識別・正常・栄養供給」。別の個体が来て、俺の体表を舐める。口から戻した栄養液は甘く、温かい。グルーミング。その唾液には、胞子の付着を抑える物質が混ざっている。俺の舌――そんな器官はないが、そう呼ばせてくれ――は、その苦味に既視感を覚えた。
白いカビ。
思い出す。白い培養皿に広がった菌糸の森、顕微鏡越しの白。夜食のカップラーメンの湯気。プレートを開けた瞬間に吸い込んだ、一筋の胞子の線。
斎木遥・死亡時刻 23:41。脳のどこかが、しずかに告げる。けれど今、俺は蟻だ。蟻としての感覚が本体で、人間の記憶のほうが、付随物になりつつある。
女王の匂いが巣に満ちている。甘く、重い、秩序の匂い。心拍のような低い波。看護蟻は俺を抱え、より温い区画へ運ぶ。ここは育房。湿度が高く、通風孔は遠い。卵・幼虫・蛹が重ねられ、看護蟻が絶えず舐め、撫で、運び、磨く。
俺は、ひたすら食べ、眠り、膨らむ。本能は単純で、安らかだ。けれど、その単純さの奥に、斎木遥の言葉が時々、刺のように立ち上がる。
――社会性免疫。
個体の免疫じゃない。群体の行動が免疫のように振る舞う。グルーミング、屍体処理、巣の湿度と温度の調整、抗菌物質の分泌。俺は研究室でその挙動を何百時間も見た。今は、見ているのではなく、その中にいる。
育房の天井に、白い粉が舞った。
看護蟻の触角が速くなる。列が組まれ、動線が切り替わる。屍体房へ向かう匂い。
死は、甘く、青い。腐敗の前段階の、青い匂い。幼虫が一匹、二匹、柔らかく沈黙し、運ばれていく。床の縁には、薄く菌糸が縫い始めている。
胸の奥が、冷たくなる。
俺は知っている。ここにも、あれが来ている。湿度が高く、温度は中庸。白き病には最高の環境。
間に合うのか?
女王の匂いが、ほんの少しだけ薄くなった。
産卵数が落ちている。
看護蟻の舌に混じる苦味が増えた。抗菌成分。苔か、樹皮からの抽出か。この世界にも、効くものがあるのだろう。だが、それは遅い。
俺の腹が、鳴る。
脂肪体が薄くなり、栄養の信号が触角の根元に刺さる。飢え。
屍体房から零れた、小さな死が、床に転がっていた。白い線が皮膚を縫い始めている。
**食べるな。**看護蟻の触角が俺の頭を弾く。
わかっている。禁忌だ。けれど、わかっている。必要だ。
――食うか、食われるか。
俺は、頭を下げて従うふりをし、影の縁で噛んだ。殻は柔らかく、内側は栄養の海だ。塩。脂肪。わずかな苦味――菌糸の代謝。飲み込んだ瞬間、体のどこかに火花が散った。
熱ではない。名前だ。
触角の基部、神経節に、言葉が落ちる。世界の側から、定義が差し込まれる。
捕遺継写(アドプトゥス)。
四字の漢字が、俺の中に柱を立てる。括弧のカタカナは、古い図鑑のラテン語みたいに硬い音を持っている。
捕ったものの、遺るものを、継ぎ、写す。
スキル? 魔法? この世界では、それらに境界はないらしい。名を得た瞬間、機能が定着し、現象が繰り返せるようになる。
俺は再び噛んだ。体内に入ったタンパクの並びが、読める。配列が、糸のようにほどけ、俺の内臓の図面へ縫い込める。構造が、数式みたいに理解できる。
体表――クチクラの上、わずかに金属が沈む道が見える。微細な粒。鉄だ。空気から、土から、魔素に乗って、集まってくる。
鉄殻微沈(フェロリス)。
外骨格の表層に、薄い鉄の霜が降りる。触角の先が、冷たく重くなる。
女王の匂いが、遠く、震えた。
「斎木、起きてる?」
遠い声。研究室の白光灯。寝袋。紙コップのコーヒー。
「もう帰れ。お前、最近、咳してるだろ」
――帰らなかった夜の、自分。
胸が少しだけ痛い。けれど、その痛みもまた栄養に変換できる気がした。今は、生きるだけだ。
巣の奥から、死の匂いが濃くなる。天井に白い粉。幼虫の列が、少しずつ細る。看護蟻の動きが荒れ、一匹が俺の横で痙攣した。
間に合わない。
俺は、通風孔の縁に鼻を寄せた。外界の匂いは湿り、苔と泥と樹皮と、知らない香りが層を成している。抗菌。研究室で嗅ぎ覚えた、樟脳に似た冷たい刺激。
あの苔がある。採りに行く。
看護蟻の列を誘導する必要がある。群体の言葉は匂いだ。
俺は体の奥から油を分泌させ、地面に新しい線を引いた。甘い、でも少しだけ違う配合。嘘だ。斎木遥の人間の嘘を、蟻の言語に翻訳する。
群響素律(コンコルダ)。
線は呼吸をはじめ、看護蟻が釣られる。偵察蟻が釣られる。
俺は、幼虫の身で、隊の先頭に立つ。規範は破っている。だが、誰も止められない。匂いは、命令だ。
通風孔の外は、温度が落ち、風があった。苔の匂いが近い。白い胞子の塔がいくつも立ち、風に揺れて粉が舞う。白き病の母体だ。
苔は、少し離れた湿りの薄い場所に群生している。俺はそれを噛み、砕き、唾液と土と混ぜて練った。塗布薬。
戻ろうとしたとき、通路の向こうから、別の匂いが差し込んだ。
別群だ。
飢えた、硬い、鋭い匂い。侵入。顎の鳴る音が、床を伝わってくる。
逃げない。
俺は前へ出た。顎を合わせ、電気を探す。
筋肉の収縮。神経の伝達。イオンの移動。斎木遥の頭の片隅で、教科書の図が光る。昆虫には電気器官はない。ないが、魔素がある。鉄の霜、俺の体、苔の冷たい香り。
触角の根元に、脈が走る。
俺はそれに名前を与えた。
微脈電震(ネウロショックス)。
顎先が震え、空気が一瞬固くなった。相手の関節膜に触れた瞬間、硬直。
雷は、光らない。ここでは、筋肉が止まる。
俺は関節の膜に、先ほど練った苔を擦り込む。相手は身をよじり、退く。
道が開く。
俺は育房へ走った。苔の泥を、幼虫の腹、看護蟻の脚、床の縁に塗りつける。匂いが変わる。白い線が、そこだけ退く。
女王の匂いが、ほんの少しだけ強くなった。
巣の空気が、一瞬、やわらぐ。
だが、足りない。
天井の粉は降り続け、通路は白く縁取られ、屍体房はすぐに溢れる。
俺は列を組み直した。看護蟻を苔へ、偵察蟻を通気孔へ、衛生蟻を屍体房へ。匂いの譜面を書き換える。**群響素律(コンコルダ)**は、統率の魔法でもある。
幼虫の身でそれをやっていることに、誰も気づかない。行為が結果を正当化する。蟻は、効く匂いに従う。
記録が、俺の内側に刻まれる。
匂い・温度・振動が積分され、四字の石碑になる。
群内記録/0001
病侵対処(レポルタ)
育房苔塗(サプラタ)
一時容認(ペルミタ)
誰が刻んだ? 群体だ。個でありながら、群が俺の行為に名を与え、受理した。
女王の匂いが、撫でる。承認ではない。禁止でもない。一拍の理解。
俺は、初めて、心が濡れた気がした。
「斎木、お前はいつもそうだ」
「勝手に、助ける。勝手に、傷つく」
研究棟の自販機横。紙コップ二つ。夜の二時。
「でも、ありがとう」
名前は思い出せない。顔も、声も曖昧だ。けれど、その言葉だけが、温かい。
俺は触角を床に伏せ、泣いた。もちろん、泣腺なんてない。ただ、体が震えただけだ。震えが、匂いへ滲み、看護蟻が一匹、俺の頭を撫でた。
進まなければ。
俺は捕遺継写(アドプトゥス)をもう一度、深く使った。苔の成分、鉄の取り込み、女王の匂いの波形、別群のフェロモン。全部、体の中へ写す。
触角の先に、微細な導管が形成される。
閃導幼形(インファントゥム)。
幼虫でありながら、俺は幼形を変わる。鉄の霜は薄く広がり、触角の根元には神経導路が走る。
俺は、群の声が、以前より大きく聞こえるようになった。
外では、白い粉がまだ降っている。
巣の外縁で、別群の匂いが動き、侵入角度を変えた。
俺は譜面を書き換えた。群響素律(コンコルダ)で、こちらの通路を閉鎖し、別の抜け道を開ける。衛生蟻の列が屍体房の出口を切り替え、看護蟻の塗布隊が乾いた壁を優先して苔を塗る。
鉄殻微沈(フェロリス)が、顎の根元できしむ。薄い霜――薄い装甲。
微脈電震(ネウロショックス)をもう一度、起動。侵入兵蟻の関節に触れるだけで、止まる。
俺は殺しはしない。今は追い払うだけだ。ここは、巣だ。家だ。
家。
この言葉が、体に合わない。
俺には家があった。薄いカーテンと、安い棚と、壁の一点だけ塗り直した白と、角が潰れた机と、背の低い本棚と、壊れかけの電子レンジ。
台所の隅に、観葉植物。樹系の匂い。
「水、ちゃんとやって」
メモの声。
帰れなかった。
帰らなかった。
もう、どちらでもいい。
今はここが家だ。
巣の温度が、少し上がった。湿度が一滴、下がった。白は、遅く、従った。苔は効く。
俺は、やれる。まだやれる。
けれど、終わらせるには、足りない。
火が必要だ。土が必要だ。樹が必要だ。毒も、いつか。鉄は今、俺にある。雷は、俺の舌になった。幻――群の言葉は、俺の喉になった。
全部、名が要る。名があれば、俺たちは現象を持てる。
俺は、胸の奥で四字の枠を探す。ラテン語の硬い骨、カタカナの角張った歯。
ここから、全部、名づけていく。
巣を延ばし、巣を守り、巣を支配し、巣を世界にする。
それが、俺の意志だ。
群内記録/0002
幼形変態(メタモル)
閃導幼形(インファン)
群導兆候(プロドム)
女王の匂いが、低く、讃えるように波を送った。
俺は、触角を上げる。
白い粉が、また一つ、降る。
俺は、顎を合わせる。
微脈電震(ネウロショックス)。
そして、遠く――まだ名を持たない、熱の予感が、舌の裏で燃えた。
灼顎焦熱(……)
土圧築壁(……)
樹根共生(……)
名は、まだ来ない。
だが、来る。
「遥、君は、勝手に助ける」
いい。勝手でいい。
俺は、助ける。
まずは、この小さな巣を。
そして、いずれ、群体を。
最後に、世界を。
俺は蟻だ。
俺は名を持つ。
俺は、群を動かす。
――閃導群王の譜は、ここから始まる。
⸻
群体進化素案(抜粋・第1話終了時点での可能系)
• 閃導幼形(インファントゥム):神経導路の形成。群の命令線の書き換えが可能。
• 鉄殻微沈(フェロリス):外骨格表層への微細鉄沈着。導電・耐切創の基盤。
• 微脈電震(ネウロショックス):関節・筋神経に対する微電撃制御。殺さずに止める。
• 群響素律(コンコルダ):フェロモン譜面の再編。列の組み替え・優先度の付け替え。
• 捕遺継写(アドプトゥス):捕食情報の転写・再構成。以後の火/雷/鉄/幻/土/樹/毒系の魔法・進化に分岐。
※第2話以降、火(灼)・土(テラ)・樹(ヴェルダ)の名付けと、
進化系200分岐の基盤定義に入る予定。
巣の外敵(寄生蜂・ムカデ・別群)との交戦で雷→鉄→幻の三系統を先行強化。
苔ルートの拡張で毒/菌系を将来開放。
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