執着の鎖

ゆりんちゃん

執着の鎖

 その日、白河栞は自分の父が、珍しく上機嫌で母と祝杯をあげていたのを聞いていた。

「これで、あの会社も名実ともに私たちのものだ」

「強引な手を使ったけれど、正当な経営判断よ。あの人たちには退場してもらうしかなかった」


 栞は、その会話の意味を深く考えないようにしていた。

 父と、親友である黒瀬凛の父が共同経営する会社。

 そこで「何か」があったことだけは理解していたが、それが凛の家族を「退場」させることだとは、まだ子どもだった彼女には直視できなかった。


 だが、学校で凛の姿を探すようになって、異変は明らかだった。

 あからさまに避けられる視線。

 ぎこちないクラスメイトの態度。


 そして今日、放課後の廊下で、栞は意を決して凛の前に立ちふさがった。

「凛、待って! 最近、どうして……」

「……どいて」

 俯いたままの凛の声は、乾いていて、冷たかった。

「何かあったなら話してよ! 私たち、ずっと……」

「ずっと?」

 凛がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、栞の知らない色をしていた。

 深い絶望と、燃え盛るような憎しみ。

「どの口が言うの」

「え……?」

「あんたのお父さんが……! 私のお父さんを……っ! 会社を乗っ取ったくせに!」


 次の瞬間、乾いた破裂音が響き渡った。

 熱を持つ左頬を、栞は呆然と押さえた。

 目の前に立つ凛の肩が、小刻みに震えている。

「……裏切り者っ!」

 絞り出すような声と共に振り抜かれた右手。

 凛の大きな瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ、その頬を濡らしている。


 父の勝ち誇ったような声と、母の冷徹な肯定。

 それが、凛のこの涙と直結した瞬間だった。

「強引な手」──それは、親友から父親を、家族の居場所を、奪い取る行為だったのだ。

「待って、凛……違う、私は……」

 何が違うのか。

 自分自身は知らなかった、とでも言うのか。

 だが、あの祝杯を見て見ぬふりをしたのは、紛れもなく自分自身だと栞は思った。


 弁解の言葉は、凛の次の絶望的な叫びによってかき消された。

「あんたの家族が、全部奪ったんじゃない! もう、顔も見たくない!」

 叩いた本人が一番傷ついたような顔で、凛は踵を返して走り去っていく。

 遠ざかる小さな背中。


 栞は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

 じんじんと痛む頬の熱だけが、取り返しのつかないことをしたのだという現実を、容赦なく突きつけていた。


 幼い頃よりずっと、隣にいるのが当たり前だった二つの影。

 それが一つになったこの日、二人は別々の人生を歩むことになった。

 始まりは、大人たちの欲望。

 そして終わりは、少女たちの決裂だった。


 ***


 あの決別の日が、全ての終わりではなかった。

 本当の「罰」が下されたのは、それから数年後のことだ。


 父と母が、会社で巨額の横領を行っていたことが発覚した。

 世間を騒がせた裁判。

 私──白河栞は傍聴席で、両親が罪人として裁かれる姿を見つめることしかできなかった。


 そして、裁判ですべてを知った。

 あの日、凛の家族を会社から強引に追い出した理由。

 それは、経営方針の違いなどではなかった。

 ただ、自分たちの横領が露見することを恐れてのことだった。

 凛の父親は、それに気づきかけていたのだ。


 二人は有罪判決を受け、収監された。

 父と母が守ろうとした会社も、当然のように経営不振が続き、あっけなく倒産した。


 全てを失った私は、両親とは引き離され、遠く離れた親戚の家に引き取られた。

 その人たちは、驚くほど善良な人たちだった。

「栞ちゃんは何も悪くない」「辛かったね」

 彼らは私の立場に心から同情し、実の娘のように親切にしてくれた。


 だが、その優しさが、私をより深い絶望に突き落とした。

 もし彼らが私を罵倒し、虐げてくれたなら、どれほど楽だっただろう。

 温かい食事を食べるたび、清潔なベッドで眠るたび、私は自分の両親がしたことの罪深さを自覚させられた。

 凛から、そして凛の家族から、すべてを奪った人間の娘である私が、こんな温かい場所で生きていていいはずがない。


 私のような人間が、まともな人生を歩むことなど許されない。


 高校を卒業し、大学へ進学しても、その罪悪感は影のように私に付きまとった。

 社会人になった今も、心を許せる友人も、ましてや恋人も作らず、ただ息を潜めるように生きている。

 あの日、凛が私に刻みつけた「裏切り者」という言葉を、今度は私自身が私に言い聞かせながら。


 そんな折、だった。

「中途採用で入社された、黒瀬さんです」


 会議室でその名を聞いた時、心臓が凍りついた。

 顔を上げた先にいたのは、凛だった。

 十年の歳月が彼女を洗練された大人の女性に変えていたが、一目でわかった。

 忘れられるはずもない。


 彼女もまた、私のことを見た。

 その瞳が一瞬、あの日の憎しみに揺れたのを、私は見逃さなかった。


 その日の昼休み。

 社員食堂で一人、食事を喉に押し込んでいると、凛がまっすぐ私の前にやってきた。

 来た。

 私はナイフとフォークを握りしめ、責められる覚悟をした。

 何を言われても、何をされても受け入れよう、と。


 しかし、凛の口調は意外なほど平坦だった。

「久しぶり、栞」

 まるで、昔のいざこざなど気にしていないかのように。

 ……いや、それは私の希望的観測に過ぎなかった。


 凛は私の手を取り、冷たい指先で強く握りしめた。

「もし、少しでも償いたいって思ってるなら」

「……私に付き合って」


 そして今、私は洗面台の鏡に映った自分を見つめている。

 青白い肌、虚ろな目。

 全裸の私。


 込み上げてくる吐き気。

 酸っぱい胃液が喉を焼く。

 彼女が私に求めたのは、「償い」という名の体の関係だった。


 あれから、幾度抱かれただろうか。

 凛のアパートで、彼女の指示通りに服を脱ぎ、無抵抗に身を任せる。

 同性に抱かれるという生理的な嫌悪感。

 だが、それ以上に、この行為がもたらす自己嫌悪が私を苛む。


 それでも、私はこの関係を終わらせることができない。

 凛に抱きしめられ、屈辱に耐えている時間だけが、唯一、私が「罪を償っている」と実感できる瞬間だからだ。

 この痛みこそが、私が生きることを許される、唯一の免罪符なのだと信じて。


 ***


「中途採用で入社された、黒瀬さんです」


 紹介の言葉に促され、私──黒瀬凛は顔を上げた。

 オフィスを見渡した視線が、ある一点で凍りつく。

 そこにいたのは、白河栞だった。


 一瞬、思考が停止した。

 栞。

 脳の奥底、記憶という名のガラクタ置き場に放り込んでいた名前。

 再会するその瞬間まで、私は彼女のことを綺麗さっぱり忘れていた。


 確かに、あの放課後の廊下で彼女の頬を叩いた時、私はこの世の終わりかのように絶望し、彼女を憎んでいた。

 だが、子供の激情は長続きしない。

 その後すぐに、彼女の両親が巨額の横領で逮捕され、会社も倒産したと風の便りに聞いた時、私の憎しみは急速に色褪せていった。

(なんだ、結局あっちも全部失ったんだ)

 そう思うと、むしろ「彼女も大変だなぁ」という、どこか他人事のような、冷めた同情すら覚えていた。


 あれは、私の人生における「悪かった思い出」の一つ。

 それで完結していたはずだった。


 なのに、目の前にいる彼女は。

 再会した栞は、あの頃とはまるで別人だった。

 誰も見ないようにするためか、常に俯き、決して目を合わせようとしない。

 分厚い前髪の奥にあるはずの、あの快活だった瞳は見る影もなく、全身から陰鬱な空気が漂っている。


 昼休み。

 私は、興味本位で彼女に声をかけた。

「久しぶり」

 あの後どうしていたのか、世間話程度のつもりだった。


 だが、私の声を聞いた栞は、肩をビクッと震わせ、怯えた小動物のように目に見えて狼狽し始めた。

 その姿を見た瞬間、忘れていたはずの、あの日の感情が蘇るのをはっきりと感じた。


 違う。

 憎しみじゃない。

 もっと熱く、もっと粘ついた、別の何か。


 ああ、そうか。

 私は、かつて彼女に特別な感情を抱いていた。

 それは友情などという綺麗なものではない。

 もっと独占的で、身勝手な──。

 だからこそ、あの裏切りが許せなかったのだ。

 私の全てを否定された気がして。


 そして今、私を恐れる彼女を見て、私の中の悪魔がそっと囁く。

(こいつはまだ、あの日の罪に囚われている)


 私は、怯える彼女の手を取った。

 冷たく、汗ばんだ手。

 蘇った執着が、口を開かせる。

「もし、少しでも償いたいって思ってるなら」

「……私に付き合って」


 それから私たちは、幾度となく体を重ねた。

 彼女が洗面台で吐いている。

 背中を丸め、嗚咽を漏らすその姿を見て、私は自分の中に罪悪感がずしりと積み重なっていくのを感じる。


 嫌がっていることは、わかっている。

 私の腕の中で、彼女がどれほど硬直し、どれほど唇を噛み締めているか、気づかないはずがない。


 しかし、私の理性を、彼女への加虐心と、十年越しに触れた肌の柔らかさが押し流していく。

 あの頃、手に入れたかったものが、今、私に怯えながら全てを差し出している。

 この倒錯した喜びが、私を止められなくさせる。


 このままではいけない。

 そう思いながらも、私は洗面台のドアノブに手をかける。

 この関係から離れられなくなっているのは、罪悪感に縛られる栞か、それとも執着に溺れる私か。

 おそらく、その両方なのだろう。

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