その恋愛相談、宛先違いです。

久喜崎

恋愛相談

放課後の図書館は、深海のように静かだ。

俺、奥村海斗(おくむらかいと)は、その海の底でカウンターに沈み、ひたすら新着図書のバーコードをスキャンする。ピ、ピ、という無機質な電子音が、俺の心拍音の代わりみたいに響いていた。

俺はこの図書館の主(ぬし)、もとい、万年図書委員だ。

静寂は、常に外から破られる。

「海斗ー!"お"、"く"、"む"、"ら"、"か"、"い"、"と"、くーん!」

うるさい。

嵐か。勢いよく開け放たれた扉から、そいつはやってきた。

「佐伯(さえき)。ここは図書館だ。静かにしろ」

「むー。いいじゃん、今誰もいないんだし。ねえねえ、ちょっと聞いてよ!」

息を切らしてカウンターに突進してきたのは、佐伯唯(さえき ゆい)。クラスメイトで、女子バスケ部のマネージャーで、そして、俺の平穏を脅かす天敵だ。

艶のある黒髪をポニーテールにして、その毛先が機嫌良さそうに跳ねている。

「……どうせ、ろくなことじゃない」

俺は新刊の『銀河鉄道の夜』に透明なカバーをかけながら、ため息を隠さなかった。

「ひどい! でも、今日は本当に大事なことなの! ……あのね、私、好きな人、できたかも」

ピ、と鳴るはずだった電子音が、止まった。

俺はバーコードリーダーを握りしめたまま、硬直する。

……好きな、人。

「……そうか」

なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。

「な、なに、その反応……。とにかく! 相談があるの!」

「……聞くだけ聞く」

「あのね、その人、たぶん……読書が趣味、なんだと思う」

「……は?」

「だから、いつも静かなところにいるし、なんか、難しい顔して本読んでるイメージがあって!」

(読書が趣味……?)

俺は、自分の胸に手を当てそうになるのを必死でこらえた。

いや、待て、落ち着け。

俺が図書委員だから、その手の相談に来ただけだ。自意識過剰も甚だしい。

「……で、どうしろと」

「どうアプローチしたらいいかなって! やっぱり、共通の話題かなって!」

「……まあ、そうだろうな」

「だから、海斗! その人が好きそうな本、教えて!」

唯は、カウンターに身を乗り出して、目をキラキラさせている。

その顔が、やけに近い。

シャンプーの、甘い匂いがした。

(……いや、でも、まさか……)

俺の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて期待する。

だが、その期待は、すぐに唯自身の行動によって打ち砕かれた。

唯が、チラッ、と。

図書館の窓の外――グラウンドの方へ、視線を走らせたのだ。

その瞬間、俺の頭の中で、全てのピースがカチリとハマった。

(……ああ、そうか)

グラウンド。サッカー部。

そこにいる、読書が趣味だと噂の、爽やか王子。

「……翼先輩か」

俺の口から、無意識にその名前がこぼれていた。

「え? ……翼先輩? なんで?」

唯はきょとんとしている。

……図星か。恥ずかしくて誤魔化しているのか。

なるほどな。全校女子の憧れの的、サッカー部の翼先輩。

いかにも、唯が好きになりそうな、俺とは対極の人間だ。

「……別に。で、その『好きな人』は、どんなジャンルが好きなんだ」

俺は、胸の奥に刺さった小さな棘を無視して、あくまで図書委員の顔で尋ねた。

「え? うーん、わかんない。でも、頭良さそうだから、簡単なのはダメだと思う!」

「……そうか」

頭が良くて、運動神経抜群で、爽やかで。

俺は、わざと、書架の一番面倒くさい場所から、一番分厚い本を引っこ抜いた。

「ほらよ」

「うわっ、分厚! ……『虚無への供物』? なにこれ、難しそう……」

「お前が難しいのがいいって言ったんだろ。日本三大奇書の一つだ。これくらい読んでおけば、どんなインテリ野郎が相手でも、話のネタには困らんだろ」

我ながら、性格が悪い。

これはもう、アドバイスというより、嫌がらせだ。

こんな難解な本、読めるわけがない。

これで諦めてくれればいい、とすら思った。

だが、唯は。

「……ふーん。三大奇書。なんかすごい!」

「は?」

「よし、私、これ読む! 決めた! 海斗、借りてく!」

「……おい、本気か? これ、ミステリだけど、半端なくややこしいぞ」

「本気も本気! あの人と話すためだもん! ……あ、でも」

「なんだ」

「わかんないとこあったら、教えてくれても、いい?」

上目遣い。

こいつは、自分がどうすれば相手が「イエス」と言うか、分かってやっている。

……ああ、本当に、タチが悪い。

「……閉館時間までは、な。図書委員の仕事としてだ」

「やった! さすが海斗! 頼りにしてる!」

嵐のように駆け込んで来て、嵐のように去っていく。

残されたのは、いつもの静寂と、分厚い本の貸出履歴。

そして、胸の真ん中に、ズキズキと深く食い込んでいく、棘の痛みだけだった。

***

それから、俺の受難の日々が始まった。

唯は宣言通り、毎日のように図書館に通い詰めてきた。

もちろん、バスケ部のマネージャー業が終わってからだ。

「海斗ー、ここ! この『密室トリック』、全然意味わかんない!」

「……うるさい。声がでかい。そこはな、叙述トリックの伏線で……」

「じょじゅつ……?」

「ああもう! この登場人物の、このセリフが、後で効いてくるんだよ」

俺は、カウンターで、唯の隣に座って、小さな声で解説する羽目になっていた。

最初のうちは、「翼先輩のため」に頑張る唯の姿にイライラして、わざと突き放していた。

「自分で考えろ。それがミステリだ」

「むー! ケチ! ちょっとくらいヒントくれたっていいじゃん!」

「ヒントも何も……大体、お前、本当に翼先輩と話したいのか?」

俺がそう言うと、唯はいつも、ピタッと動きを止める。

「……え? あ、うん、そう、だけど……」

「なら、もっと真面目に読め。人の名前、多すぎだろ。相関図、書くか?」

「え、書いてくれるの!? やった!」

結局、俺は絆されている。

俺が書いた殴り書きの相関図を、唯が嬉しそうにノートに清書していく。

その横顔を見ていると、胸の棘が、ぎりぎりと締め付けられるように痛んだ。

(なんで、俺が)

なんで俺が、恋敵のために、こんな面倒な読書会に付き合わされているんだ。

だが、それと同時に、こう思う自分もいた。

(……でも、この時間は、悪くない)

唯が隣にいる。

二人きりで、カウンターに並んで、一つの本についてああだこうだと言い合う。

閉館時間を知らせるチャイムが鳴るまで、この静かな空間を独占できる。

たとえ、その目的が、俺以外の誰かのためであったとしても。

この数十分は、間違いなく、俺だけのものだった。

「ねえ、海斗」

ある日、付箋だらけになった『虚無への供物』をパタンと閉じて、唯が唐突に言った。

「あの人さ、いつもここにいるよね」

「……は?」

(ここ? 図書館にか?)

翼先輩が図書館にいるところなんて、見たことがない。

「……いや、翼先輩なら、いつもグラウンドだろ。お前も見てるじゃないか」

「え? グラウンド? なんで?? 私、グラウンドなんて全然見てないよ?」

「はあ? この前、窓の外、見てただろ」

「あれは! 体育の授業で忘れたジャージ、誰かまだ使ってないかなって見ただけ!」

「……そう、なのか?」

「そうだよ! ……もう、海斗って、たまに話が通じないよね」

「それはこっちのセリフだ」

なんだ。

会話が、噛み合わない。

俺は、何か、決定的な勘違いをしているのかもしれない。

……いや、まさかな。

***

期末テストの最終日。

ついに、その日が来た。

「読んだ! 読破したよ、海斗!」

テスト終わりの開放感も相まって、唯はいつも以上に興奮して図書館に飛び込んできた。

「……ああ。ご苦労さん」

「もう、犯人、意外すぎ! 動機も切なすぎ! これ、すごい本だね!」

「だろ? だから言ったんだ」

「うん! ……私、これで、ちゃんと話してみる!」

唯は、分厚い本を胸に抱きしめて、決意を固めたように、俺をまっすぐ見た。

……ああ、ついに、この時が来た。

この本は、翼先輩の元へ、唯の想いと共に届けられる。

俺の、この奇妙で、苦しくて、少しだけ楽しかった「共犯」の日々は、今日で終わりだ。

「……そうか。頑張れよ」

「うん!」

「翼先輩も、喜ぶんじゃないか。お前みたいな可愛い後輩から、そんな熱心にアプローチされたら」

精一杯の、皮肉だった。

だが、俺の言葉を聞いた唯は、なぜか、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

「……は?」

「なんだよ」

「……だから、なんで、そこで翼先輩が出てくるの?」

「はあ? だって、お前が好きなのって……」

「違うって言ってるじゃん!」

唯が、バン!とカウンターを叩いた。

静かな図書館に、乾いた音が響き渡る。

「私、翼先輩のことなんて、一言も好きだって言ってない!」

「え……。だ、だって、『読書が趣味』で、『頭が良さそう』で……」

「うん」

「お前、窓の外のグラウンドを……」

「それはジャージだって言った! なんで海斗は、私の話を全然聞いてくれないの!」

「……えええ?」

情報が、頭の中で大渋滞を起こしている。

翼先輩じゃ、ない?

じゃあ、一体、誰なんだ?

バスケ部の先輩か? 吹奏楽部の誰かか?

「……じゃあ、誰なんだよ。お前の好きなやつって」

俺が呆然と尋ねると、唯は、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。

「……もう、知らない……」

「いや、知るか! そこまで言ったら教えろよ!」

「……海斗の、バカ……」

「はあ!?」

「わからずや! 鈍感! この図書館で一番、人の気持ちが読めてない!」

「な……!」

唯は、真っ赤な顔で、俺を睨みつけた。

その目には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

それは、悲しさの涙じゃない。

……ああ、そうか。

これは、恥ずかしさだ。

自分の勘違いに気づかなかった俺への、怒りと。

それ以上に、自分の気持ちが伝わらないことへの、もどかしさだ。

「……本が好きな人」

唯が、絞り出すように言った。

「いつも静かな場所にいて、私がうるさくしても、結局は付き合ってくれる人」

「……」

「私が、この一週間、毎日、毎日、会いたかった人……」

「……おい、佐伯」

「……私が読んだこの本を、『面白かった』って、一番に伝えたかった人!」

唯は、もう一度、バン!とカウンターを叩いた。

「海斗のことでしょうが! いい加減に、気づきなさいよ!」

時が、止まった。

死んだ海のように静かだった図書館が、今、完全に、無音になった。

俺は、目の前で顔を真っ赤にして、肩で息をしている唯と、自分が推薦した『虚無への供物』を、交互に見た。

……そういう、ことか。

「……ああ、なるほどな」

俺は、カウンターから身を乗り出した。

唯との距離が、一気に縮まる。

唯が、ビクッと肩を震わせた。

「……お前、相当、趣味が悪いな」

「な……!?」

「俺みたいな、意地悪で、ひねくれた図書委員を選ぶとか」

「う……! うるさい! ほっといてよ!」

唯は、恥ずかしさが限界に達したのか、クルリと背中を向けた。

「もう帰る!」

「待て」

俺は、走り去ろうとする唯の腕を掴んだ。

思ったより、細くて、熱い。

「……なんだよ! 離してよ!」

「離さない。……大事な話がある」

「……」

唯が、恐る恐る、振り返る。

その目は、まだ赤かった。

「……お前のその恋愛相談、まだ終わってないだろ」

「え?」

「その『好きな人』、つまり、俺」

「……う……」

「俺に、その本の話、まだ、してないだろ」

俺は、唯が抱きしめていた『虚無への供物』を、そっと取り上げた。

「……もう一回、最初から読め」

「……はあ!? こんな分厚いの、もう一回!?」

「俺も読む。今度は、最初から」

俺は、自分のカバンから、図書館の蔵書とは別の、私物の同じ本を取り出した。付箋だらけの、俺の『虚無への供物』だ。

「だから、お前も、付き合え」

「……それって……」

「これは、図書委員の仕事じゃない」

俺は、唯の手を掴んだまま、笑ってみせた。

「俺の、恋愛相談だ。……どうしたら、お前を落とせるか、一緒に考えろ」

唯は、一瞬きょとんとして、それから、ふにゃりと、花が咲くように笑った。

「……海斗の、バカ」

閉館時間を告げるチャイムが鳴り響く。

深海の底だと思っていたこの場所は、どうやら、とんでもなく騒がしくて、甘酸っぱい場所だったらしい。

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その恋愛相談、宛先違いです。 久喜崎 @kuki6622

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