第2話

 姉ちゃんのいない湯舟は、いつもより広く感じる。

 その分、少しだけ──いや、結構寂しい。


 湯船につかって、思いっきり足を伸ばす。

 うちの浴槽は少し大きめの作りで、足を伸ばし切ってもまだ余裕がある。

 大人二人が入れば、少し窮屈なくらいのサイズ感だ。


 自分で「もう一緒に入るのはやめよう」なんて言っておきながら、本当は今も、傍にいてほしかった。


 ──俺にも姉ちゃんにも父親はいない。

 母さんが精子バンクを利用して生んでくれた、種違いの姉弟だ。

 男の少ないこの社会では、シングルマザーの家庭なんて珍しくない。


 俺が幼いころに、おばあちゃんは亡くなった。

 母さんは仕事で家を空けることが多く、気づけばいつもそばにいたのは姉ちゃんだった。


 泣いてるときは、「大丈夫だよ」って頭をなでてくれた。

 寂しい夜は、手をつないで「お姉ちゃんがいるよ」ってほほ笑んでくれた。

 同じベッドで、ぎゅっと抱きしめられるたび、安心して眠りについた。


 ずっと守ってくれた。だから、俺も姉ちゃんが大好きだった。

 大切で、特別で──この関係がずっと続くと思っていた。


 ……なのに。


 最近の俺は、おかしい。

 姉ちゃんのそばにいると、甘い匂いがして、胸がドキッとする。

 姉ちゃんの透き通った瞳に見つめられたい。

 姉ちゃんの白くてきれいな肌に触れたい。

 姉ちゃんの細くて長い指を絡めたい。

 姉ちゃんの柔らかくて優しい胸に包まれたい。

 離れるのは嫌だ。抱きしめてほしい。ずっとそばにいてほしい。


 ──姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん……。


 心の中で名前を呼ぶたび、自分の何かが壊れていく気がした。

 胸の奥が熱くなって、息が苦しくなる。


 でも、それだけじゃ足りない。

 もっと近くに、もっと深く


 ──繋がりたい。



(何考えてんだ、俺)


 気づいた瞬間、頬をパシッと叩いた。

 そんなわけない。姉ちゃんは家族だ。

 こんなのは一時的な錯覚だと、自分に言い聞かせる。


「……あっつ。のぼせたかも」


 独り言のように呟いて、湯船から出た。

 あんなことを考えていたからか、頭がぼうっとする。


 鏡に映る自分の身体を、ぼんやりと見つめる。

 陸上部に入ってから、少しずつ筋肉がつきはじめ、腹筋や腕にうっすらと線が浮かんでいる。子供の頃の柔らかな印象は薄れ、代わりに骨ばった、男らしいごつごつとした輪郭が浮かんでいた。


 気づけば、もう姉ちゃんより背も高い。昔はいつも見上げていたのに、今は見下ろすようになった。頼りにしていた背中が、思っていたより小さく見える。


 自分の身体が、子供から”男”に変わっていく。

 その変化が、身体だけじゃなく心まで変えてしまうような気がして──少し怖かった。


 姉ちゃんの手に触れるたび、自分にはない柔らかさと温かさを感じる。

 華奢で、壊れそうで──でも、触れたくてたまらない。


 そんな、姉ちゃんにの中に”女”を見てしまう自分が、


 ほんとうに嫌になる。



 ──────────────────────────────────────



「渡部 千春」───それが私の名前。

 連くんとは、ちっちゃなころから一緒だ。いわゆる”幼馴染”ってやつ。

 昔からやさしくて、かっこよくて、ずっとずっと好きだった。

 小さなころの私にとっては王子様みたいな人だった。

 将来はきっとこの人と結婚するんだ──なんて本気で思ってた。


 でも現実は、そんなに甘くはなくて。


 この国で、女が好きな男のそばにいるのは簡単じゃない。

 男性と並び立つには、選ばれるには、”価値”が必要だ。

 外見も、学力も、家の格も。

 平凡な家庭に生まれた一般人の私なんかじゃ、連くんとは釣り合わなかった。


 それでも、どうしても彼のそばにいたくて、倍率の高いこの高校を選んだ。

 ここは男子生徒が多い分、女子の競争率が高い。

 何度もくじけそうになったけど、「連くんのとなりにいられるかもしれない」

 ───その想いだけで頑張れた。


 どうにか合格を勝ち取ったけど、成績はギリギリ。

 女子のカーストでも中の下くらいで、気づけば、連くんとはもう”別の世界の人”になっていた。


 ───


 教室の空気は昼休みになると一気にざわつく。

 このクラスは男子六人、女子十八人。

 女子たちは机をくっつけてグループを作り、笑い声があちこちから響いてくる。


 男子の中でも人気のある子たちは、カースト上位にいる女子たちが囲んで独占している。


 その輪の中に連くんもいた。


 私はその少し外側、教室の隅で一人お弁当を広げる。


「連くんってかっこいいよね。彼女とかいるの?」

「ねぇねぇ、今度みんなでさ、カラオケ行こうよー」

 そんな言葉が聞こえるたび、箸を持つ手が止まる。


 どうせ、あの子たちは連くんの”中身”なんて見ていない。

 彼のやさしさも、真面目なところも、何も知らないくせに。

 あいつらが連くんに近づくのだって、「男子と話せている私」「モテる子」っていう肩書きが欲しいだけ。


 そんなの、連くんが軽んじられてるみたいで、汚されてるみたいで。

 彼という美しい存在に、あんな浅ましい子たちが触れているのが、どうしようもなく腹立たしい。


 ちらりと目をやると、女子の一人がアスパラのベーコン巻を連くんに差し出していた。

 連くんは困ったように笑っている。

 ……連くん、アスパラ嫌いなのに。

 顔を見ればわかるでしょう?そんなことも分からないあの子たちが、連くんのそばにいて、なんでわかってあげられる私が、こんな離れた場所にいるの。


 連君の笑顔が、あの子たちの前で薄っぺらく消えていく。

 それを見るたび、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。


 どうしてあんな子たちが、その笑顔をもらってるの。

 なんで、あそこに私じゃなくて、あんな子たちがいるの。


 そんなの、ずるい。

 そんなの、許せない。


 連くんはやさしいから、仕方なくあの子たちと付き合ってるだけなんだ。

 かわいそうな連くん。

 あんな子たちの相手をしなきゃいけないなんて。


 私は箸を止めて、胸の奥でそっとため息をついた。


 こんな日々を、毎日、毎日。……ほんと、気が狂いそう。


 同じ高校に来れば、同じ大学に行けば、同じ会社に入れば、ずっと一緒に入れると思っていたのに。

 この世界には邪魔者が多すぎる。

 このままじゃ、いつか本当に離れ離れになっちゃう。


 ……連くんも、そんなの、嫌だよね?



 ───


 放課後。

 下校時間はとっくに過ぎ、教室には私ひとり。

 帰宅部の子たちは帰り、部活の子たちも次々に下校していく時間。

 静まり返った灰色の教室に、私だけが残っていた。


「千春」


 その声が響いた瞬間、世界が色を取り戻す。顔をあげると、教室の入口に連くんが立っていた。

 陸上部の練習を終えたばかりなのか、少し上気した顔。

 汗が首筋を伝うのが見えて、それが妙に艶めかしくて、

 ごくり、と喉が鳴ったのが自分でもわかった。


「お待たせ、帰ろう」


 連くんが笑う。

 その笑顔を見るために、私は一日を生きている。


 連くんと話せる時間。

 一緒に帰れる時間。

 私だけ独占できる、二人だけの特別な時間。


 この時間があるから、つまらない授業も、くだらない昼休みも、全部我慢できる。


「連くんも部活お疲れ様!」

「ありがと。…なんだよ、ずいぶん嬉しそうじゃん」


 当然だよ。

 あなたと話せるんだもん。

 あなたと同じ空気を据えて、あなたの瞳に私が映っている。

 こんなに幸せなこと、他にある?


「連くんと話せるのが嬉しいんだよ。前まではいっぱいおしゃべりできてたのに、最近は昼休みもほかの子たちと話してるしさー」


 ほんとうに、あの子たち、消えてくれないかな。


「ごめんって、俺も千春と話したいんだけどさ、あの人数で囲まれちゃうと逃げられなくて」

「分かってるって、連くん人気だからね。幼馴染として鼻が高いです」


 おどけて見せながら、暗い感情を笑ってごまかす。


「連くんも、こんなにかっこよくなっちゃってさ。いろんなものが変わっちゃったよね。周りにいる人も、住む世界も変わって。

 でも、だからこそ、こうやってあの頃みたいに一緒に帰れる時間が、たまらなく嬉しいの」


「そっか」

 少し照れたように、連くんが笑った。


「でも、いつもこの時間まで待ってて大変じゃないか?」

「え、ううん。全然!」


 連くんのためなら、何時間でも、何十時間でも待てる。

 君のためなら、待つことすら、幸せなんだ。。


「俺も千春と一緒に帰れるのは嬉しいけどさ。千春だってやりたいことあるだろ?無理して待ってなくてもいいんだぞ」

 そう言って、優しく笑った。


 ──なんで。

 なんでそんなことを言うの?

 私にとって連くん以外の時間に、価値なんてないのに。


 もしかして……連くんは、私といるのが嫌なの?


 胸の奥で、黒い感情が渦を巻く。


「連くん。私は連くんと一緒に帰りたいから待ってるんだよ。無理なんてしてない。連くんと過ごすこの時間が、私、好きなの」


「……ありがとう。千春、優しいな」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥から喜びがあふれた。


 もっと声を聴きたい。

 もっともっとそばに行きたい。

 触れたい、抱きしめられたい。

 ずっと、私だけを見ていてほしい。


 ……でも、このままじゃダメなんだ。

 私じゃ釣り合っていなくて、いずれ離れてしまう。


 胸がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。


「連くん、昔はさ、よく一緒に遊んだよね」

「え?ああ、そうだね。幼馴染だし」

「でも最近は、一緒にいられる時間が少なくなっちゃったね」


 連くんは少し考えるように目を細める。


「俺も、実は結構、寂しいと思っててさ。周りに人はいるけど、あんま”俺”を見てくれてる感じがしなくて。

 でも千春は……なんていうのかな、もっと深い、俺そのものを見てくれる感じがするんだ。だから千春と一緒にいれない今が、すこし寂しい」


 耳まで赤くしながら続ける。

「俺にとっても千春は特別だよ。あの頃からいろんなことが変わったけど、それだけは変わってない」


 その言葉が、静かに胸に響いた。


 世界から音が消える。

 夕焼けがゆっくり傾いて、教室の影が伸びていく。

 その静けさの中で私が呼吸の音だけだ響いた。


「私もね、同じなんだ。私が君を想う気持ちは、あの頃から何も変わらない」


 一瞬の沈黙。。

 鼓動の音が、やけに大きく聞こえる。


「ねぇ、連くん」


 喉が震える。

 でも、もう止まれない。


 押し込めていた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。

 彼を、誰にも渡したくない。


「──私は、あなたのことが好きです」


 言葉が教室の空気を切り裂いた。


 連くんは目を見開いたまま、何も言わなかった。

 その静けさが、時間をゆっくり引き延ばしていく。


 ……今日、幼馴染という関係が、終わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る