金木犀パンケーキ
山田ねむり
金木犀パンケーキ
金木犀の香りに誘われて、細い路地を歩く。
この時期は私の好きな香りが涼しげな風に運ばれてやってくるから好きだ。
それにしても今日は本当に付いてなかった。
出勤前に転びそうになり、仕事では上司に怒られ、昼ご飯も食べ損ねた。何をやっても上手くいかない。
疫病神が背中にくっ付いているのかと思うぐらい散々でやってられない。このまま家に帰っても反省と後悔で苦しくなりそうで、仕事帰りにこうして金木犀に誘われるままに歩いている。
なにかを期待している訳じゃない。
ただ、癒しが欲しい。
明日からまた頑張るためのなにかを探して当てもなく歩く。
辺りはもうすっかり陽が落ちて街灯が付いていた。少し前まではまだ明るかったこの時間も、今では寂しい夜が支配して、私を更に貶め弄んでいるかのよう。
「駄目だ、ネガティブな事しか浮かばない。」
今日はたまにやってくる絶不調日。こういう日は思考すら駄目になる。そして厄介なのが、この不調日は一日で終わらない可能性があるという事。
踠けば踠くだけ沈む底なし沼の様に、ドツボにハマると抜け出すのに数日は掛かってしまう。それが分かっているから嫌になる。
なんでもいいから気分が上がる事を見つけなくては。どんな些細な事でもいい。例えば、この香りの主人である金木犀を見つける、そんなささやかな事で良いのだ。
仕事終わりの疲れた脚を引きずりながら、香りのする方へゆっくりと進んで行くと小さな灯りが見えてきた。
「こんな所にお店があったなんて、知らなかった。」
帰り道から外れた路地の先、小さなお店があった。一軒家風の建物の前に置かれた看板には『金木犀パンケーキ』の文字が。
これは、私が今求めているものに違いない。
謎の確信を胸に店の扉に手をかけた。
「いらっしゃいませ。」
店内には、白髪混じりの穏やかな笑みを浮かべたマスターが一人。席数も少なく、入り口付近から全体が見渡せるほどのこじんまりした造りになっている。隠れ家的なお店なのは分かるけど、客は私以外には見当たらない。
マスターに案内されて席に着いたものの内心、失敗した、と思った。
だって今日は絶不調日。
不味いパンケーキが出てきてもおかしくない。だからと言ってここで「やっぱり帰ります」と言い出す勇気もなくて。看板で見た金木犀パンケーキを一つ、注文した。
「セットのドリンクはいかがされますか?」
メニューに目をやると豊富なドリンクがある事が伺える。これだけあると迷ってしまう。コーヒーは夜寝れなくなりそうだから嫌だし、今からパンケーキを食べるのだから甘い物も違う気がする。さて、どうしたものか……。
「おすすめはミルクティーです。」
マスターはニコリと笑い急かすのではなく、さりげなく優しい口調で教えてくれた。私は店員さんのアドバイスは素直に受け取るタイプなのもあって、即決でミルクティーをお願いする事に。
かしこまりました、と軽くお辞儀をするマスターの姿はとても紳士的で印象がよく、それだけで少し心が軽くなった。
店内に流れるクラシック、オシャレに飾られた雑貨と植物達。程なくして厨房から甘くて美味しそうな香りがほのかにやってきた。誰も居ない空間なのにどこか落ち着く雰囲気が、私の心に染み渡る。
先に運ばれて来たミルクティーをひと口。
甘さ控えめで芳醇な茶葉の香りが口いっぱいに広がり鼻から抜けていく。
「とっても、美味しい……。」
これほど丁寧に淹れられた紅茶は初めて飲む。いつも飲んでいる粉末の紅茶とは大違いだ。そういえば、最近は紅茶をこんなにゆっくりと味わう時間すら持てなかった。
仕事が忙しいからって言い訳して友達との食事にも行かなくなり、休みの日は携帯をいじるか寝てばかり。
絶不調になったのには、自分の心に原因があったのかも知れない。そう深く反省していると、マスターが見るからに美味しそうなパンケーキを持ってやって来た。
「お待たせしました。金木犀パンケーキです。当店自慢のふわふわパンケーキに金木犀の蜜から出来た蜂蜜を添えています。蜂蜜はミルクティーに入れても美味しいですよ。ゆっくり召し上がって下さいね。」
白くふっくらと焼かれたパンケーキは皿を動かすだけでぷるぷると美味しそうに揺れて、上からかけられた蜂蜜は黄金色に輝いている。
極め付けはこの香り。
私がここまで誘われたあの金木犀の香りがする。見ているだけでヨダレが垂れてくるパンケーキを小さく切って口に運ぶ。
「こんなに美味しいパンケーキは食べた事がないわ!」
口の中でとろけるパンケーキに金木犀の蜂蜜が合わさって絶妙なハーモニーを産んでいる。どれだけ蜂蜜をかけても甘過ぎず、ミルクティーと一緒に食べれば金木犀の香りが更に口に広がっていく。これぞ幸せ。ほっぺたが落ちてしまいそうなぐらい美味しい。
心がホッと和らいでいく。
今日一日頑張って良かった。
温かい食事に舌鼓を打っていると、店内に流れていたクラシックが止まりマスターが徐に立ち上がったのが見えた。時計に目をやると時刻は二十時を過ぎている。
「あ、すいません。閉店ならすぐに出て行きます。」
慌てて立ち上がる私にマスターは自身の口元に人差し指を立て微笑んだ。どうやら静かしろと言いたいらしい。
マスターはそのまま近くにあった窓を開けた。外からは秋と冬が混じった匂いがやって来る。それからよく耳を澄ませると、鈴虫の音が聞こえてきた。
「もうすっかり秋ですね。」
マスターの声に頷いて席に座り直した。
四季をゆったりと感じたのはいつぶりだろう。
追われる日々の中でも少し息を整えればこんなにも季節を感じるなんてとても不思議だ。
「なんだか、明日から頑張れそうです。」
残ったパンケーキとミルクティーを喉に流し込むと自然と笑みが溢れた。そんな私にマスターは「それは良かったです」と笑って返してくれた。
金木犀パンケーキ 山田ねむり @nemuri-yamada
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