最後の朝

佐薙ナギ

最後の朝

 橙色のやわらかな空気が、グラスがぶつかり合うたびに揺れる。煙草の煙は空間に濃淡をつけつつ、どっと起こる笑い声に消される。盛大な宴会だ。大学のゼミの同窓会にしてはちょっと盛大すぎるくらいだった。当時世話になった教授方にも招待状を出した。どの教授も快く参加してくださり、思い思いの座り方で目を細めている。同窓生も行く先々で話に華を咲かせる。誰もが懐かしくてあまい感傷に浸った。

 僕と彼女は、このゼミで出会った。同学年だった。はじめ彼女に出会ったとき、僕は特別意識もしていないかったが、気が付いてみると二人一緒になっていた。どこをどう惹かれ合ったのだろう。そんなことを考えているうちに、三年もの月日が流れてしまっていた。

 しかしその宴会の席で、僕と彼女が以前のような眼差しで接することは出来なくなってしまっている。彼女には結婚の話が決まっていた。それはなにも藪から棒の話ではなかった。当然、といっては妙だが、僕もそれを知っていた。しかし、僕は彼女が結婚するという事実そのものを、あまり深くはとらえられていなかったらしい。彼女から話を切り出されたときも、「ああ」とか「そうなんだ」とかいった返事ばかり。彼女のことが嫌いなわけではなかった。嫌いになったわけではなかったが、そういう返事しかあのときの僕にはできなかった。

 酒宴が終わる頃、空は紫とも橙ともつかない色に染まっていた。

 やっと動き出した電車は酒に酔った若者で溢れた。車輌は停車するたびに酒臭い息を、がらんとしたホームに吐き出した。さわやかな車掌のアナウンスが頭の中でこだまする。一人減り、二人減り。僕と彼女。車内がうるさいほど明るく感じられた。取り残されたようだった。

「やっぱり小腹すいたな。ちょっと、どう?」

 これが今の僕に発することのできる唯一の言葉だった。

「そうね」と彼女は一言、うなずく。ほっとした。

 次に停まった場末の駅に私と彼女は降りた。対面の短いプラットホームと自動改札機だけの駅。その駅で降りたことに、とくべつの意味なんてない。

 駅にほど近い喫茶店で、朝がまた来た。これが朝なのか。ふとしたことだが、僕にはそれがはっきりとわかった。彼女の朝はいったい。そんなどうしようもないことを思ったり、しながら。

 喫茶店をあとにして、駅へと戻った。

 彼女はお手洗いに行っておきたいと言い出した。僕は入り口で待っておくことになった。

 彼女は明日、結婚する。そう。結婚してしまう。

 こんなことを言うのもなんだが、彼女は容貌〈きりょう〉が良いとはいえない。家事が得意なわけでもない。わがままと自分勝手さにおいては、僕が折り紙を付けてやる。そんな彼女が明日、結婚をする。誰と? 僕の知らない誰かと。それでも彼女は、今、僕の恋人だ。君の好きの感情は、こうも手のひらを返すように変わってしまうものなのだろうか。まだ君は僕のことを好きでいてくれているのだろうか。僕の恋人の、君は。

 僕の胸の奥は、掻きむしられたようにひりひりした。息をするのがむずかしい。はたして僕は息をしていたのか。どうか。こんな感情は、彼女と過ごす季節の中でまったく初めてのことだった。

 たしか、はじめのひとことも、きみからだったっけ。

 そう思えば、僕はどこまでもしあわせであったのかもしれない。

 僕は以前から、機会さえあればもっと容貌の良い女と、可憐な女と一緒になりたいと思っていた。彼女に不満があったわけではない。けれど、不埒な男にはそんな考えがいつも頭の隅にあった。

 待てよ。彼女が結婚してしまうということは、僕は晴れて自由の身になれるということじゃないか。誰に遠慮することもなく、他の恋ができるということじゃないか!

 しかし不思議なことに、そんな気持ちがここから先に芽生えることはなかった。あるのは胸のひりひりと、どこか焦燥にも似た感覚だけだった。

「おまたせ」

 彼女の声に、はっとする。けれど、その後に続く言葉が見当たらない。

「じゃあ、帰りましょうか」

 彼女の懐かしい微笑みに、僕のなかのなにかがうち崩れた。

「どうして、結婚なんか。だって付き合っているじゃないか。好き合っているんじゃないのか」

 語気は強かったように思う。

「それなのにどうして」という言葉が身体のなかを駆け巡る。

 驚いたような顔をしていた彼女は、

「すきよ。すき。いまでもあなたがすき。けれど、もう決まってしまったことなのよ」

 と言って、まっすぐに僕の目を見た。

 そして、思い切ったような微笑みでこう続けた。

「おぼえてる? 私の浮気からはじまった恋だったの。だから、きっと、また、会えるわ」

 ふいに世界がゆるむ。蛍光灯がまたたく。


 君は、いつのまにこんなことをいう女性ひとになっていたんだろう——。


 彼女はじゃあねと、軽く左手をあげた。

 それぞれ、ホームへの階段をのぼっていく。人はまだまばらだ。昇りはじめた太陽は、静かに線路ばかり照らしている。

 西宮方面へ向かう電車が、アナウンスとともにやって来る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最後の朝 佐薙ナギ @nagi_kanvae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ