この想いを抱きしめて 3
三
すべては、確率の問題。
だから今、こうなっているのも確率の問題。
「あのさ、葵……」と鈴木が言った。「オレと、付き合って欲しいんだ」
そう口にする鈴木の頬は、ほんのりと赤みがかっていた。
鈴木の真剣そうな表情。彼の顔つきから、この告白が冗談ではないことが伝わる。彼の瞳から、その言葉が本心であることが伝わる。
「好きなんだ、葵のこと」
ギュッと握り拳をつくる彼。手に力が込められているのが分かる。緊張しているのか、ふだんよりも彼の表情がカタい気がする。
「そう、なんだ……」
わたしの声は自分が思っているよりもずっと弱々しかった。
好き。
わたしが、好き。
鈴木は、わたしのことが好き。
少し前に、唯香が口にしていたことを思い出す。
彼女は、鈴木のことを『狙い目』だと言っていた。勉強もできてスポーツもできる。性格的にイヤミなところはないし、大人の男性のような落ち着いた雰囲気を持つ鈴木。
ひとたび彼がボールを持てば、とたん女子たちからの黄色い声が飛び交う。シュートを決める姿は、サッカー漫画の主人公を彷彿とさせる。まるで、その扱いは王子さまのよう。周囲からの羨望を浴びるプリンスのような扱い。
そんな彼から告白されたら、ほとんどの女子は飛び上がって喜ぶかもしれない。その胸に抱かれてみたいと思うかもしれない。
それくらい、鈴木は魅力的な男性だから。
とても魅力的で、異性の注目を集める奇特な存在だから。
でも、と思う。
わたしは、その『ほとんど』のなかに含まれていない。
彼に異性としての魅力を感じる『ほとんど』のなかに、わたしの存在は含まれていない。
だから。
だから今、わたしは断ろうとしてる。
鈴木からの告白を、わたしは断ろうとしてる。
「ごめん、鈴木……」
わたしは続ける。
「鈴木の気持ち、すごく嬉しい。ほんとうに嬉しいんだけど……わたしは、その気持ちに応えられない」
わたしは『ほとんど』に含まれてないから。
あなたに恋愛感情を抱く『ほとんど』のなかに、わたしの姿はないから。
だから。
だからね。
「ごめんなさい」
対面する鈴木に向かって、わたしは頭を下げる。
ひとりごとのように、小さな声で「そっか……」と呟く彼。
シンとした空気が漂う。
少しの間のあとで、鈴木が「正直、さ……」と小さく言った。
「なんとなく、そんな気はしてたんだ」
鈴木が続ける。
「葵、ふだんからオレのこと見てない感じがしたから」
悲しげな鈴木の表情。
言葉を絞り出すように、わたしが返す。ささやくような小さい声で。
「ごめん……」
わたしの言葉に、鈴木が返す。
「いや、謝らないでくれ」と鈴木が言った。「こっちこそ、ごめん。いきなり、呼び出したりして……」
ぽりぽりと頬をかく鈴木。痛々しげに笑う彼の表情を見て、わたしの心がチクリと痛む。「痛いだなんて、身勝手すぎる」と思いながら。
告白って、むずかしい。
他人に想いを伝えるのって、むずかしい。
うまくいけばいいけど、そうじゃなかったときが難しい。告白するほうもされるほうも、どちらも幸せな気持ちにはならない。
かといって、好きじゃない相手と付き合うのは違う気がする。ましてや、お情けで付き合うなんてもってのほか。そんなの、誠実じゃない。相手の『好き』という気持ちに誠実じゃない。
だから、告白ってむずかしい。告白するほうも、されるほうも難しい。
『好き』って、むずかしいね。
「好きな人、いるのか?」
落ち着いた声で鈴木が言った。
「え……」
俯きがちだった顔を上げ、正面にいる鈴木の顔を見る。高校生らしからぬ大人びた彼の顔が、わたしの視界に入り込んでくる。
「違ってたらゴメン。でも、そんな気がするんだ」
鈴木が続ける。
「葵、好きな人がいるんじゃないかって……なんとなくだけど、そんな気がするから」
好きな人。
わたしの、好きな人。
鈴木に言われて思い浮かんだのは、ひまわりのように笑う麻衣の姿。
麻衣の笑った顔。
麻衣の寂しげな顔。
麻衣の困ったような顔。
ひまわりのように明るい、麻衣の朗らかな笑顔。
そのどれもが、わたしの心を突き動かす。麻衣の笑顔を頭に思い浮かべるだけで、フシギと元気が湧いてくる。イヤなことも乗り越えていけそうな気がする。苦しいことも乗り越えられそうな気がする。
麻衣の笑顔が。
明るい笑顔が。
無邪気な笑顔が。
人懐っこい笑顔が。
屈託のない笑顔が。
わたしを、元気づけてくれる。
ストン、と落ちる。
なにか確信めいたものが、胸にストンと落ちる。わたしの心にストンと落ちた納得感が、電脳世界で拡散するミームのように胸のなかに広がっていく。運動エネルギーが増加した粒子が大気中に拡散していくように、わたしの胸に落ちた納得感がジワリジワリと広がっていく。
とたんに、心が軽くなる。
心を覆う重力がなくなっていくのを感じる。わたしの心を押さえつける重力が、水蒸気が霧散していくように消えていく。心が軽くなっていくのを感じる。
わたしを縛るものが消えて、だんだんと心が軽くなっていく。
重い荷物をおろすかのように。
カバンを投げ捨てるように。
スマホを放り投げるように。
思い込みを手放すように。
靴を脱ぎ捨てるように。
メイクを落とすように。
服を脱ぎ去るように。
本を捨て去るように。
ペンを捨てるように。
足枷を外すように。
掟を手放すように。
鉄鎖を解くように。
心にのしかかる重みが、消えてなくなっていく。
分かってた。
ほんとは、分かってた。
ただ、言葉にしてなかっただけ。
『言葉にする』という作業をサボってただけ。
言語化することから目を逸らしていただけ。
だって、女どうしだから。
わたしたちは、女どうしだから。
でも、しっくりきた。自分の気持ちを自覚すると、すごくしっくりきた。パズルのピースがカチッとハマるように、わたしの心の空隙にピッタリと納得感が収まった。しぜんと、心が納得した。
わたし自身が、私の想いに納得した。
麻衣。
麻衣。
好きな人。
わたしの、好きな人。
応えなきゃ。
わたし、応えなきゃ。
鈴木に、ちゃんと応えなきゃ。
自分の気持ちを自覚したわたしは、応えなきゃいけない。真剣に告白してくれた彼に、わたしの想いを伝えなきゃいけない。
誠意には、誠意で。
誠実さには、誠実さで。
真剣な思いで、応えなきゃいけないんだ。それが唯一、わたしが彼に対してやってあげられること。わたしが彼に対してやってあげられる、たった一つのことだと思うから。
ひとつ、小さく息を吸う。それから、わたしは言った。
「いるよ、好きな人」
鈴木が小さく息を吐く。
「そっか……この学校の人か?」
こくりと一つ頷くわたし。
「分かった。ありがとう、葵」と鈴木は言った。「真剣に応えてくれて、ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
「その人と、一緒になれるといいな」
くすりと笑うわたし。
「鈴木、ちょっと良い人すぎない?」
すると鈴木もまた、口角をあげてニコリと笑った。
「好きな人には、幸せになってもらいたいって思うもんだろ?」
良い人だね、鈴木。
すごく良い人だね。
誠実で、真面目で、優しくて……すごく、いい人だね。すごくすごく、良い人だね。
ごめんね、応えてあげられなくて。
あなたの好きになった相手が、わたしでゴメンね。
「オレ、もう行くよ」と鈴木が言った。「気持ち伝えられて、なんかスッキリしたし。モヤモヤ抱えたままよりは、当たって砕けるほうが気分いいな」
「ふふ、そっか」
「おう。じゃあ、またな」
「うん。またね」
お互いに手を振る。
きびすを返した鈴木が、向こうへと歩いていく。
ひとり残されたわたしは、その場で小さく息を吐いた。わたしもまた、緊張していたのかもしれない。息を吐くと同時に、こわばった身体がほぐれていくようだった。神経系が呼吸を始めるかのように錯覚するわたし。
空を見上げる。
白い雲。
青い空。
降りそそぐ日差し。
風に吹かれて青空を泳いでいく雲の一群が、やがて太陽を隠して日光をさえぎる。校舎に墨色の影ができた直後、涼を帯びた風がわたしの身体を撫でていった。
ごめんね、鈴木。
応えてあげられなくて。
それから、ありがとう。
わたしの気持ち、気づかせてくれて。
しばらくの間、空を眺めるわたし。
首筋を撫でていく風が気持ちいい。
やがて視線を正面に戻し、教室へと戻るべく足を踏み出す。上履きがコンクリートに擦れて、スッスッという擦れ音を生む。
ひと気のない第二校舎を後にして、教室がある本校舎へと戻る。教室が近づくにつれて、生徒たちの姿が散見されるようになってきた。
歩きながら、わたしは考える。
わたしは、かわいいものが好き。
わたしは、かわいいものが大好き。
わたしという人間を構成するカラーは桜色で、次にクリーム色。
ブルーやブラックは好きじゃない。わたしには男っぽすぎるような気がするから。深海のように深い青も、墨汁を浸したような黒も、どちらも好きじゃない。
キライじゃないけど、かといって好きでもない。
真夜中みたいな濃藍も、カラスのような漆黒も。色が強すぎる気がするから。わたしには似合わないような気がするから。
でも、空色は好き。
さわやかで、知的な感じで。だけど、やわらかな印象もある色。
とくに、アクアマリンのように透き通った色が好き。どこまでも澄みわたる夏の空みたいに澄んだ色。
透明感のある色をジッと眺めていると、やさしい気持ちになれるような気がする。だから、好き。すごく好き。
でも、やっぱりイチバン好きなのは桜色。数ある色のなかで、ピンクがイチバン好き。
かわいいから。
女の子って感じがするから。
女性に許された色って感じがするから。わたしという人間を彩ってくれる色だって思うから。
好きで好きで、どうしようもなく好きなの。ほかの誰かに、わたしは『かわいい』を理解してもらいたい。ほかの誰かに、わたしの『かわいい』を共有してもらいたい。ほかの誰かに、わたしの『かわいい』を知ってもらいたい。
そして、その『ほかの誰か』は麻衣がいい。
わたしにとっての『ほかの誰か』は、麻衣なんだ。もしも「ほかの誰か」を選べと言われたら、わたしは迷わず麻衣を選ぶ。
だって、好きだから。
麻衣のこと、好きだから。
わたしは、麻衣のことが好きだから。
やがて教室の前に着く。
教室のなかに入る同時に、予鈴のチャイムが鳴った。
席に着こうとすると、となりに座る麻衣が「おかえり〜」と声をかけてくれた。「ただいま」と返すと、彼女はニコリと微笑んだ。
かわいい。
かわいいね、麻衣。
麻衣は、すごく『女の子』だね。
いそいそと授業の準備を進めるわたし。
ふいに、遠くの席に座る唯香と目が合った。わたしを見る彼女が、フシギそうな表情をしている。
ん?
なんだろう。唯香の視線が、ちょっと気になる。
やがて本鈴のチャイムが鳴り、先生の「それじゃあ、授業を始めまーす」という声とともに授業が始まる。
「前回は収斂進化のところまで進めたので、今日はバイオームと生物多様性の話をしていきます」
黒板の前に立つ先生が続ける。
「その地域ごとの降水量によって生物多様性が進むことは科学的にも実証されていて、たとえばインドシナ半島のような地域では——」
コツコツとチョークを走らせて、重要箇所を板書していく先生。
教科書の内容と照らし合わせながら、黒板に書かれる内容をノートにメモしていくわたし。
生物の授業って、けっこう好きなんだよね。
細胞生物学とか、とくに面白い。ほとんどが暗記だけど、生物の知識を増やしていくことは苦じゃない。ほかの理系科目と比べると、生物の授業は身近に感じられる。
わたしたち人間もまた、生物進化のたまもの。そう考えると、生物の授業は『自分たちを知るための科目』のようにも思える。すごく身近な学問のように思える。
先生の話を聞きながらペンを走らせていると、わたしの机のうえに一枚の紙が置かれた。
置き主は、となりの席に座る麻衣。フシギに思いながら、キチッと二つ折りにされた紙をひらく。見ると、紙には『頭に葉っぱ乗ってるよ』と書き込まれていた。
頭?
葉っぱ?
右手で自分の髪の毛に触れると、机のうえに一枚の葉っぱが落ちた。
ありゃ。
どこで乗っかったんだろう。
フシギに思いながら、ノートの一部をちぎって『ありがとう。ぜんぜん気づかなかった』と書き込む。
文章を書き終えてから、紙を折りたたんで四つ折りにする。先生が黒板に向いた隙を狙って、麻衣の机のうえにサッと紙を置く。麻衣が紙をひらき、まじまじと内容を確認する。
すると、ふたたび彼女はメモ用紙に何かを書き始めた。そのメモをビリッと破って、コンパクトに折りたたむ麻衣。それから再び、わたしの机のうえに折り畳んだ紙を置いた。
内容を確認すると、そこには『たぬきみたいで可愛かったよ。べつの生き物に変化するの?』と書いてあった。くすりと笑うわたし。
だれがタヌキか。
化け狸じゃないんだからぁ、わたしはぁ〜。
あ。
さっき唯香がフシギそうな表情をしていたのは、わたしの頭のうえに葉っぱが乗ってたからなのかな。そうだとしたら、まぁ納得できる。枯れ葉をアクセサリーにする女子高生なんて、そうそういないだろうからね。誰向けのオシャレなんだって感じするよね。タヌキ向け?
ふたたび、ノートを小さくちぎるわたし。『そしたら、ポメラニアンがいーな。かわいいし』と書いてから、麻衣の机の上に紙を置いた。
何度か紙のやり取りをくり返していると、ふいに先生が「はい、じゃあ篠宮さん」と言った。
「問七の答えはなんでしょうか?」
先生に指名され、たじろぐ麻衣。あたふたとしながら、彼女が教科書を手に取って席を立つ。
「えーっと……」
教科書とにらめっこする麻衣に、わたしは小さな声で「ナンキョクブナだよ」と言った。
「な、ナンキョクブナです!」
麻衣の答えに、先生が言葉を返す。
「はい、正解です。ナンキョクブナの現在の分布は、約一億年前の白亜紀に形成されたとされています」
先生が続ける。
「篠宮さん。おとなりの早水さんと仲良しなのはいいことですが、いまは授業に集中してくださいね?」
「す、すみません……」
顔を赤らめながら、ゆっくりと着席する麻衣。クラス内に、くすくすと噛み殺したような笑いが起きる。
片手で口元を隠しながら、麻衣が囁くような声で「ありがとね」と言った。笑顔でうなずくわたし。
黒板に向きなおる途中、遠くの席に座る唯香が目に入った。彼女はコチラを見ながら、あいかわらずフシギそうな表情をしていた。
あれ?
もう葉っぱは落ちたんだけどな。タヌキは卒業したんだけどな。どうして、まだフシギそうな顔をしたままなんだろう。
首をひねりながらも、ふたたびノートを取り始めるわたし。先生が板書していく内容を書き写す。
「かつて白亜紀に存在していたゴンドワナ超大陸は、現在はオーストラリア、ニュージーランド、南米、それから南太平洋の島々などといった地域に分離しており〜……」と話す先生の声が、しずかな教室内に響きわたる。
授業中、わたしのことをフシギそうに見る唯香の顔が、いつまでも脳裏にこびりついていた。
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