ひまわりは夜に咲く 5


 夕方。

 陽が傾いて、室内が橙色に染まり始めた頃。

 わたしは、右手首にあるスマートウォッチに目をやった。時刻は六時十二分。麻衣の家からわたしの家までは、だいたい歩いて二十分くらい。ゆっくり歩いて帰っても、七時前には家に着くはず。帰るには丁度いい時間かもしれない。

 今日、すっごく楽しかったなぁ。

 麻衣と一緒にブックカフェに行って、コーヒーを楽しみながら読書して。百合小説に興奮する麻衣を見るのは初めてだったから、新鮮だったなぁ。麻衣も、あんな顔することあるんだなぁ。新発見。

 別れ際って、少しだけ寂しい気持ちになるよね。その日一日が楽しければ楽しいほど、別れが寂しく感じる。まるで、楽しさが一夏の夢だったかのように感じる。手のひらに溶けて消える一片の雪のように感じる。

 そういえば昔、だれかが「さよならだけが人生だ」と言ったらしい。

 さよならだけが人生だなんて、さびしすぎる。この言葉に出会ったとき、わたしはそう思った。「そんなことないよ! 人生には、もっとポジティブな表現の仕方があるよ!」と言いたくなった。

 でも、この言葉が日本人の訳だと知ったとき腑に落ちた。すごく、しっくりきた。

 だって、いかにも日本人らしい訳だと思わない? 侘び寂びの精神をインストールされた日本人が言いそうなことだと思わない?

 わたしたち日本人は、遺伝的にネガティブな感情に反応しやすい傾向がある。ほかの民族と比べて、不安や心配といった感情を感じやすい傾向にある。具体的には、日本人の九七〜九八%が「ネガティブな感情に反応しやすい気質」を持って産まれるらしい。

 人生には別れがつきもの。

 あらゆることが別れに帰する。

 わびさびの精神を持った日本人に言わせれば、それは「さよならだけが人生だ」と表現される。いかにも日本人らしい言い回しだと思う。わたしたちのDNAに入り込んだセロトニントランスポーター遺伝子が、もの悲しさを感じさせる言い回しを生んだんだのだろう。

 そう考えると、この言い回しにも若干なりの愛着が湧く。

 日本人らしい『奥ゆかしさ』を感じられるような気がする。

 大人になったら、もっと深く実感できるようになるのかな。人の死に立ち会う場面が多くなれば、心の底から「さよならだけが人生だ」と思えるようになるのかな。

 言っても、まだ十数年しか生きてない高校生だもんね。名言に心の底から納得できるようになるには、まだ月日が浅すぎるのかも。七十歳くらいになって、初めて「あぁ……人生とは本当に、さよならだけなんだなぁ……」って感じられるものなのかも。

 あと五十年ちょっとか。まだまだ先は長いなぁ。

 そんなことを考えていると、となりに座る麻衣が「もう夕方だね〜」と言った。

「ん、そうだね」とだけ返すわたし。

「ねぇ、葵」

「ん、なぁに?」

「初夏の夕暮れって、なんとなく寂しい感じしない?」

「さびしい? そうかな?」

「あたしだけかもしれないけど……この季節に見る夕焼けって、なんか寂しい顔してるような気がするんだぁ」

 麻衣が続ける。

「さびしさに身を包んで、だれにも見えないところに沈んでいくような……そんな感じがするの」

 さびしい。

 夕焼けが、さびしい。

 そうなのかな。正直、わたしには分からない。わたしには分からない感覚だ。

 でも、麻衣は感じてるんだ。「初夏の夕焼けは寂しさを帯びている」って、そう感じてるんだ。

 麻衣は時々、感性ゆたかな表現をすることがある。ほかの人がスルーしてしまうような感情の機微や環境の変化を敏感に察知して、彼女なりの言葉で表現することがある。今だってそうだ。彼女は、何かを感じている。

 彼女の独特な比喩表現も、その一環。わたしは、そう思っている。

「索敵中のハムスター」とか「飼い主にゴロンしてあげるポメラニアン」なんて表現、感性が飛び抜けてないと出てこないフレーズだよね。おそらく。少なくとも、わたしには無い感性だ。

 心理学には『投影』という考え方がある。

 ある対象に向けて、自分の心理状態を反映させようとする心の動きのこと。もっぱらネガティブな意味で使われることが多い。

 たとえば、幼少期に親からの愛情を受けられなかった人ほど、大人になってからも「年上の異性」を求めてしまう傾向にある。実親に求めることができなかった愛情を他者に投影し、満たされなかった心を補おうとする。愛情不足を抱えた人にとっての「年上の異性」とは、健全に愛を与えてくれなかった『父親』であったり『母親』であったりする。

 こういった精神分析の理論は、一部の学者から強い批判を浴びているのだそう。もしくは、見向きもされないんだとか。というのも、精神分析の考えは再現性に乏しいから。

 科学は、なによりも『再現性』を重んじる。

 なので、再現できないことは科学とは呼べない。複数の実験によって同じような結果が得られなければ、それは学問ではあっても科学ではない。一般的には、そう考えられている。

 でも、わたしは精神分析を「おもしろい」と思う。人の解釈によって答えが変わってくる可能性はあるけど、それでも「おもしろい」と思う。

 人間の心の動きとは、まるで雲を掴むかのように捉えどころがないもの。掴んだと思ったら、空を切っている。離れたと思ったら、くっついている。人間の心というのは、つかめそうで掴めないもの。離れられそうで、はなれられないもの。

『心』なんていう不確かなものの片鱗に触れるような気がして、おもしろい。ひとつの学問として、精神分析はすごく面白いと思う。

 麻衣は、どうだろう。

 夕焼けの寂しさは、麻衣の心を投影したものなのかな。彼女は、さびしいのかもしれない。だから、彼方に沈んでいく夕陽を「さびしい」と表現したのかもしれない。

「麻衣は、さびしいの?」と訊くわたし。

 一瞬、ハッとする彼女。けれど、すぐに元の寂しげな表情に戻った。 

「……うん、そうなのかも」

 すなおに自分の感情を認められるところは、麻衣のいいところだね。

 自分の気持ちを認められずに苦しむ人って、少なくないから。かつての私がそうだったように。自分のなかにある『かわいい』を認められなかった私が、ずっとずっと苦しんでいたように。

「すこし寂しい、かな……」

 普段は見せない儚げな表情をする彼女。

 なにかを諦めた大人のようでいて、わずかな希望に縋りつく子どものような顔。これまでに何度か見てきた表情だ。さびしさを感じたときに見せる麻衣の表情だ。

 そっと彼女の手を取るわたし。手の感触に気づいてか、彼女がわたしのほうをパッと見る。

「こうしてたら、寂しくなくなる?」

「うん……ありがとう、葵」

「どういたしまして」

 麻衣の体温。

 麻衣の温もり。

 彼女の心を温めてあげるつもりで、わたしはキュッと手を握った。すると彼女もまた、わたしの手をキュッと握り返してくれた。

 あったかい。

 あったかいな。

 これが、麻衣の温度なんだね。

 そのまま私たちは、しばらく無言で手を握り合った。窓の向こうで、カラスが鳴く声がする。カァカァと鳴く声が、一日の終わりを告げるシンフォニーのように聞こえた。

 静寂を打ち破ったのは、麻衣だった。

「あたしね、小さい頃からパパと一緒に過ごした記憶があんまりないの。パパは仕事が忙しい人だから、家にいる時間が少なくて……あたしはずっと、ママと一緒に過ごしてた」

「うん」

「でも、ママも学校の集まりとかに呼ばれることが多かったから……そういうとき、あたしはずっと部屋で一人で過ごしてた」と続ける彼女。「それでね、あたし気づいたら……けっこうな寂しがり屋になってた。だれかと一緒にいたくて、だれかに触れてほしくて……ずっとずっと、だれかの温もりを感じてたかったの」

 うん。

 知ってる。知ってるよ。

 麻衣が、すっごく寂しがり屋さんだってこと。わたし、知ってるよ。

「だから今でも、別れ際って寂しくなるの。だれかと別れるのって、すごく寂しい気持ちになるの」と彼女は言った。「なんか、こう……自分の一部が切り取られるような感じっていうか、心が遠くなっていく感じっていうか……とにかく、すごく寂しい気持ちになるの。不安で、寂しくて、心にポッカリ穴が空くような感じがするの……」

 さびしげな笑みを見せながら話す彼女が、夕焼けに照らされる。

 わたしは場違いにも、その姿を「きれいだな」なんて思った。寂寞の夕焼けに照らされる彼女のことを「きれいだ」と思った。体育のときに感じたのと同じような感覚。なにかに見惚れるときの感覚。

 わたしは、麻衣に見惚れていた。

「だから、葵と別れるの寂しい。ワガママだって思われるかもだけど……あたし、葵と離れるの寂しいよ」

「そっか」

 わずかな静寂の後に、おずおずと彼女が続ける。

「あの、さ……葵」

「うん?」

「その、えっとね。イヤだったら……断ってくれて、いいんだけど……」

 たどたどしく話す彼女の姿は、おねだりをする子どもを彷彿とさせる。

「もし葵がよければ……今日、ウチに泊まっていかない……?」

 くす、と鼻を鳴らすわたし。

「急だね。わたし、お泊まり用の服も何も持ってきてないよ?」

「う、うん……」

「明日は学校だし、制服もカバンも家にあるし」

「そう、だよね……」

 目を伏せて俯く彼女。

 百合小説を読んでいたときの元気は、どこへやら。わたしにぬいぐるみを抱えさせたときの元気は、どこへやら。まるで別人のような表情をする麻衣。となりに座るわたしにも分かるくらい、彼女の顔は寂しさに染まっている。

 だから、わたしは言ってあげる。

 麻衣の言葉を受け止めてあげる。



 わたしが、麻衣の笑顔を取り戻すの。



「いいよ」

「え……」

 呆気にとられたように、目を丸くする麻衣。

「麻衣がそうして欲しいなら、泊まらせてもらおうかな」

「ほ、ホントに……?」

 コクリと頷くわたし。

「あとで、親には連絡入れておくし。麻衣の家に泊まるって言えば、お父さんもお母さんも納得すると思うから」

「……」

「麻衣」

 彼女を安心させてあげるために、この言葉はわたしの口から言ってあげる必要がある、

「大丈夫だよ。さびしくないよ」と、わたしは言った。「もし麻衣が寂しいなら、わたしが一緒にいてあげるよ」

 昔、だれかが「さよならだけが人生だ」と言ったらしい。

 別れこそが人生の本質。すべては別れに帰する。どんな触れ合いも、人との関わりも、心の交流も、最終的には等しく『別れ』に結実するのだと。

 でも、わたしはそんなこと言わない。

 さよならだけが人生だなんて、そんなこと言わない。わたしは、そんな寂しいことを口にしたりはしない。

 わたしが音に乗せるのは、彼女の心を溶かしてあげる言葉。

 わたしがつむぐのは、彼女の寂しさを癒やしてあげる言葉。

 わたしが伝えるのは、彼女に温もりをあたえてあげる言葉。

 さよならなんて言わせない。

 寂しい顔になんてさせない。



 麻衣の笑顔は、わたしが取り戻すの。



「だから、大丈夫。だいじょうぶだよ、麻衣」

 彼女の顔が、くしゃりと歪んだ。その瞳から、ツーッと雫が流れ落ちる。

「うぁ……あた、し……」

 頬を涙で濡らした彼女のことを、わたしはギュッと抱きしめてあげる。彼女が感じている寂しさごと、ぎゅっと抱きしめてあげる。

「大丈夫。さびしくないよ」

「あお、いぃ……」

 あったかい。

 あったかいね。

 麻衣の涙は、あったかいね。

 夕焼けが彼女の涙を照らす。夕陽に反射した寂しさの雫は、どこか温かみを帯びているように感じた。ぬくもりを帯びているように感じた。

 カラスが鳴いている。

 夕焼けの下で響くシンフォニー。

 窓の外が藍色に包まれるまで、わたしは彼女のことをギュッと抱きしめていた。

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