化身

八幡太郎

第1話 いじめられっ子と毘沙門天

 都内の夜景を一望できる高層マンションの最上階。そこに住む男、武神尊は、30代半ばとは思えない若々しい顔立ちで、グラスのワインを静かに揺らしていた。煌めく夜景を前に、彼は「今日も悪が一つ、減ったな」と呟く。その言葉には、人間社会の泥沼に足を踏み入れた者でしか知り得ない、深い諦念と、わずかな安堵が滲んでいた。


 彼にとって、ベンチャー企業の社長という顔は、社会に溶け込むための仮の姿にすぎない。彼の正体は、仏からこの世の悪を正す使命を授かった神、毘沙門天。普段は爽やかな青年として振る舞い、ターゲットとなる悪人に近づく。テロリスト、強盗、通り魔、性犯罪者……。彼らの油断を誘い、正体を現して裁きを下す。


 尊はただの破壊神ではない。救いようのない悪には容赦なく鉄槌を下す一方、まだ更生の余地がある者には、心を入れ替えるよう諭す慈悲深い一面も持ち合わせていた。彼が下す裁きは、決して見世物ではない。人知れず、静かに、そして確実に、悪の根を断ち切る。


「みんな、夢を追いかけるのに遅すぎるなんてことはない。大切なのは、一歩踏み出す勇気だ」


 ベンチャー企業社長として、ある高校の特別講師として教壇に立った尊は、生徒たちに向かって熱心に語りかける。未来に目を輝かせる生徒、退屈そうにあくびをする生徒、様々だ。その中で、一人の生徒に尊の目は釘付けになった。


 A、と呼ばれる少年。教室の隅で、いつも小さくなっている。視線は常に下向きで、同級生の目すらろくに見ることができない。尊は、彼の様子にただならぬものを感じていた。


 ある日の放課後、尊はAが体育館の裏で一人、膝を抱えて泣いているのを見つけた。


「どうした、何かあったのか?」

 尊は優しく声をかける。Aはびっくりしたように顔を上げ、すぐにまた俯いてしまう。


「なんでもないです……」

「なんでもない、わけないだろう。顔を上げなさい」

 尊の言葉に、Aは意を決したように顔を上げる。彼の目には、悔しさ、悲しさ、そして諦めの感情が複雑に絡み合っていた。


「俺、いじめられてて……」

 Aはぽつりぽつりと話し始める。気の強いグループに目をつけられ、無視されたり、面倒な雑用を押し付けられたり。言い返せば仕返しされるのが怖くて、ずっと耐えてきたこと。


 尊はAの言葉を静かに聞いていた。そして、一つ、Aの想像もしていなかったような言葉をかけた。


「嫌なことを率先してやる。それは、仏教でいう『功徳』を積むことだ。功徳を積めば、いずれ君の運気は高まり、必ず良い方向に向かう。今は辛いかもしれないが、君の未来は、君が積み重ねた功徳で必ず拓ける」


 尊の言葉は、不思議とAの心にすっと染み込んでいった。いじめられて辛いと思っていたことが、尊の言葉で少しだけ前向きなことに思えてきたのだ。


 そして、尊はもう一つ、Aに武器を与えた。


「いじめに対抗するには、力だけが全てじゃない。法という、もっと強力な武器もある。君は、その武器を身につけて、弱い人たちを救う人間になればいい」


 尊は、Aに一枚のメモを渡した。そこには、尊が経営する会社の住所と、Aが将来、弁護士になるための道筋が示されていた。


「弁護士……」

 Aの目に、初めて希望の光が宿った。


 それから、Aは変わった。


 いじめられても、尊の言葉を思い出し、「これは功徳を積んでいるんだ」と心の中で唱える。辛いことがあっても、弁護士になるという確固たる目標ができたことで、心が折れることはなかった。


 Aは有名大学の法学部に進み、司法試験にも見事合格。そして、学校のいじめや会社でのパワハラを専門に請け負う弁護士として、弱者の味方として活躍するようになった。


 ある日の夜、Aはふと思い出す。


 あの時、自分を救ってくれた尊に、まだお礼が言えていない。


 Aは、尊に貰ったメモに書かれていた住所を訪ねる。しかし、そこにあったのは、高層マンションではなく、鎌倉時代には既に創建されていたという古い寺だった。

「あの……武神尊さんという方はいらっしゃいますか?」

Aが寺の住職に尋ねる。


「タケル様ですか?  タケル様は、もう遠い昔にお亡くなりになりましたよ」

 住職の言葉に、Aは戸惑いを隠せない。


「でも、あの、僕が会ったのは、つい数年前で……」

「この寺は、鎌倉時代にタケル様が創建された寺でして、ご本尊は、タケル様が最も敬愛されたという毘沙門天様が祀られております」

 Aは、寺の本堂へと案内された。そこには、金色の輝きを放つ毘沙門天像が鎮座していた。


 その像は、Aが知る尊の、穏やかで優しい表情とは全く違う、威厳に満ちた、恐ろしいほどの迫力を放っていた。


 だが、Aには分かった。


 この毘沙門天こそが、あの時、自分を救ってくれた尊なのだ、と。


 Aは、静かに手を合わせ、心の中で呟いた。


「毘沙門様、本当にありがとうございました」

 その呟きは、夜空の星となり、毘沙門天の元へと届いたのだった。

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