救うべきものの残響
午後の風は、もう少しで冷たさを帯び始めていた。
空は淡い桃色と群青のグラデーションに染まり、ゆっくりと流れる雲が筆の跡のように地平線をなぞっていく。
遠くで響く笑い声や話し声が、ヒカルとミユの足音と混ざり合いながら、彼女の家へと続く歩道に響いていた。
ミユの手は、まだヒカルの手に絡んでいた。
その温もりは優しく、けれど心臓を不規則に跳ねさせるには十分だった。
一歩一歩、世界が少しずつ遠のいていくようで──まるでこの瞬間、この通りには二人しかいないような錯覚さえ覚えた。
街灯の明かりがぽつぽつと灯り始める頃、ヒカルはふと立ち止まった。
「ん? どうしたの、ヒカル?」
ミユが首を傾げながら、軽く彼の手を引いた。
ヒカルは少し俯いたまま、風に髪を揺らされていた。
そして小さな声で呟く。
「……俺、まだ……準備ができてないと思うんだ。」
一瞬、空気が止まる。
けれど、ミユは目を瞬かせたあと、ふわりと笑い声を漏らした。
その笑みは、夕暮れの風よりも柔らかく響いた。
「えっ? なんで笑うんだよ……?」
ヒカルは少しムッとしながらも、気になって顔を上げた。
ミユは指先で唇を隠しながら、くすくすと笑い続けていた。
けれど、その瞳に浮かぶ光は、決してからかうものではなかった。
「ごめん。でもね……なんだかヒカルらしいなって思って。」
「俺らしい……?」
ヒカルの顔がみるみる赤く染まる。
「うん。ヒカルって、ほんとに素直だから。そういうところが可愛いっていうか……予想通りっていうか。」
ミユはそう言って、腕を組みながら穏やかな目で彼を見つめた。
ヒカルは視線を逸らしたまま、少し息を整えた。
「……ただ、その……俺、こういうの、初めてだから。失敗したら嫌だし……ミユに恥かかせたくないんだ。」
その言葉は拙く、それでも真っ直ぐで誠実だった。
ミユはしばらく黙って見つめていたが、やがて優しい微笑みを浮かべた。
「ヒカル……本当に優しいね。」
ヒカルは驚いたように瞬きをした。
ミユは少し俯いて、リュックの肩紐をぎゅっと握る。
「実はね、私も……ヒカルが初めてなの。こうして家まで一緒に歩くのも。」
「……本当?」
「うん。本当。」
ミユの頬がうっすらと赤く染まった。
「だからね、私も少し……恥ずかしいの。」
ヒカルは小さく笑った。
その笑みには、安心と照れが入り混じっていた。
「ミユ……」
「大丈夫。」
ミユは人差し指を立てて、柔らかく言った。
「焦らなくていいよ、ヒカル。人にはそれぞれ、自分のタイミングがあるから。」
その言葉が、ヒカルの胸の奥に静かに響いた。
彼はただ彼女を見つめることしかできなかった。
その瞳に映る温もりが、どんな言葉よりも彼を癒していた。
沈黙が流れる。
けれど、それは心地よい沈黙だった。
互いの鼓動が、同じリズムで重なっているように感じられた。
ミユはリュックを直して、小さく息をつく。
「じゃあ……そろそろ行くね。」
二歩、後ろに下がって風に髪を揺らす。
「また明日、ヒカル。帰り道、気をつけてね。」
ヒカルはうなずいた。
「うん……ありがとう、ミユ。また明日。」
ミユは笑った。
その笑顔は、光を持っているようだった。
ヒカルの胸の奥を、そっと温めていく。
彼女が家の門を開けると、中から兄が手を振り、家の中へと消えていった。
扉が閉まる音がして、静寂が戻る。
ヒカルはしばらくその場に立ち尽くしたまま、彼女が消えた方向を見つめていた。
「……ほんと、すごい子だな。」
小さく呟いた声が、夜風に溶けた。
帰り道。
街灯の光がゆらゆらと揺れ、夜の風が頬を撫でていく。
ヒカルの胸の中は、混ざり合った感情でいっぱいだった。
電車に乗り込むと、窓際の席に腰を下ろした。
車輪の音がリズムを刻み、車内に響く。
窓に映る自分の顔を見ながら、ヒカルは小さく息を吐いた。
「……なんか、ずっと前から彼女を知ってた気がするな。」
彼女の笑顔、声、仕草。
すべてが鮮やかに蘇る。
ミユは、彼の世界を少しずつ変えていった。
人と関わることを避けていた自分が、彼女の前では自然に言葉を交わせる。
それが不思議で、嬉しかった。
「やっぱり……ミユは特別だ。」
窓の外には、夜の街の光が流れていく。
それはまるで、地上に散った星のように美しかった。
ヒカルは頭を窓にもたれかけ、静かに目を閉じた。
思い出が、優しく胸に響く。
長い間、自分は誰にも見られていないと思っていた。
けれど今は違う。
ミユが見てくれた。
笑ってくれた。
そして、急がなくていいと言ってくれた。
それだけで、世界の色が変わって見えた。
電車が停まり、ヒカルは立ち上がる。
プラットホームに降り立つと、夜風が頬を撫でた。
いつもの街。いつもの道。
それでも、今日の景色は少しだけ違って見えた。
歩く足取りは軽く、どこか優しい。
「……明日も、会えるんだ。」
空を見上げると、ひとつだけ星が光っていた。
ヒカルの唇が小さく動く。
「明日は、きっといい日になる。」
そう思えるだけで、十分だった。
──たったひとつの優しさが、誰かの世界を救うこともある。
ヒカルにとって、それがミユだった。
彼の中で、何かが静かに変わり始めていた。
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