第3話 最初の客と、聖女の役目

 血の匂いと、荒い息遣い。  私たちを認識するのがやっとだったのか、狼の獣人――体格の良い男性だった――は、「癒しの湯」と呟いたきり、床に倒れ込んで動かなくなった。


「リュウさん!」

「……チッ。面倒な時に」


 リュウさんは舌打ち一つこぼしたが、その動きに迷いはなかった。屈強な獣人男性の体を軽々と抱え上げると、清掃が終わったばかりのロビーの床に、ゆっくりと横たえる。


「傷が深い。セレスティア、タオルと……いや、清潔な布をありったけ持ってこい。あと、厨房の火でお湯も沸かせ」

「は、はい!」


 私は言われた通り、浄化して乾かしておいたシーツを何枚も抱えて戻ってきた。リュウさんは獣人男性のボロボロになった革鎧を器用に外し、傷口を露わにさせていく。それは、魔爪まそうで抉られたような、ひどい傷だった。三本に裂けた傷口は黒ずみ、明らかに何かの毒に侵されている。


「……うう」


 獣人男性が苦悶の声を漏らす。私はその傷口を見て、思わず息を呑んだ。勇者パーティーにいた頃、カイン様たちが負ったどんな傷よりも深い。


「……どうしよう。私の《浄化》は、力が強すぎて……」


 また魔石にした時のように、何かを取り返しのつかないことにしてしまうかもしれない。私がためらった、その瞬間。


「聖女」


 リュウさんの、低く、鋭い声が飛んだ。


「そいつは、このままじゃ死ぬ。お前の力が強かろうが弱かろうが、やることは一つだ。……やるか、やらないか。選べ」


 その紅蓮の瞳が、私をまっすぐに見据えている。

 そうだ。もう私は、パーティーの「役」を気にする必要はない。目の前に、助けを求めてきた人がいる。私は、この人を助けたい。


「……やります!」


 私は覚悟を決めると、黒く変色した獣人男性の傷口に、そっと両手をかざした。

 イメージするのは、宿全体を清めた時の、大雑把な光の奔流じゃない。昨日、湯船の底にこびりついていた「穢れ」だけを狙い撃ちにした、集束させた光。


「《聖女の浄化(サンクチュアリ)》!」


 私の手から放たれた光は、温かな陽だまりのような、優しい光となって傷口を包み込んだ。


 ジジッ……と、傷口を侵していた黒い瘴気が、光に触れて蒸発していく。


 光が引いた後には、あれほど深かった傷口が、まるで最初からなかったかのように綺麗に塞がっていた。どす黒かった顔色も、穏やかな寝息を立てるまでに回復している。


「……すごい」


 私は、自分の手のひらを見つめた。

 魔石は砕いてしまうけれど、人の「傷」と「毒」は、こんなにも完璧に癒せる。パーティーでは「役立たず」だった力が、ここでは「命を救う力」になった。


「……ほう」


 リュウさんが、私の手元と獣人男性の顔を交互に見て、感心したように息を漏らした。


「器用なこともできるんじゃないか。……だが、まだだ。毒は抜けたが、消耗が激しい。昨日のお湯に入れるぞ」

「はいっ!」


 リュウさんは再び獣人男性を抱え上げると、昨日復活したばかりの大浴場へと向かった。


 ◇ ◇


 黄金色に輝く湯が、静かに湯気を立てている。私たちは、意識のない獣人男性の体を、その「奇跡の湯」にゆっくりと沈めた。


「……んん」


 獣人男性の体から、ふぅ、と安堵のため息が漏れる。聖女の《浄化》が外傷と毒を癒し、この湯の力が、彼の消耗しきった生命力そのものを回復させていく。

 私たちは彼が溺れないよう、岩場の浅いところに体を預けさせ、しばらくその様子を見守った。


「……セレスティア。お前はここで、彼がのぼせないように見ていろ。俺は厨房に戻る」

「え? あ、はい」

「あれだけの傷だ。目が覚めたら、猛烈に腹が減る」


 リュウさんはそれだけ言うと、手際よく薪を割り、厨房の火力を上げに戻っていった。彼の言う通りだった。


 三十分ほど経っただろうか。湯に浸かっていた獣人男性が、ゆっくりと目を開けた。


「……ここは。俺は、確か……」

「気がつきましたか! よかった……!」

「あんたは……? ああ、そうだ、俺は『癒しの湯』に……まさか、間に合ったのか?」


 彼は驚いたように、自分の胸を触った。そこには、もう傷一つない。


「すごい……! ここの湯は、相変わらず奇跡だ……。いや、以前より、もっと力が満ちている気がする」

「あの、よかったら、これを」


 私は彼に、湯から上がるための浄化済みのタオルを差し出した。


「俺はヴォルグ。一応、傭兵をやっている」


 ヴォルグと名乗った彼は、湯から上がると、心底不思議そうに宿の中を見回した。


「信じられん。ここの主だった老婆が亡くなって、もう何年も『湯』は枯れていたはずだ。それが、昨日になって急に、空高くが立つのを見た。……まさか、あんたが?」

「え? 光の、柱……?」

「ああ。辺境中の魔物が逃げ出すほどの、とんでもない光だった」


 私は、昨日、宿全体をお掃除した時のことを思い出した。


(あ、あれのことだ……)


 私にとってはただの「大掃除」だったが、外から見れば、天に届くほどの「浄化の光柱」に見えていたらしい。


 ヴォルグさんは、持参していたボロボロの服に着替えてロビーに戻ると、ちょうどリュウさんが、湯気の立つ器を持って厨房から出てきた。それは、昨日のシチューとは違う。滋養に満ちた、黄金色のコンソメスープだった。


「飲め。回復には、まず内側からだ」

「……おお」


 ヴォルグさんは、その香りだけで回復するのがわかる、といった表情でスープを受け取ると、一気に飲み干した。


「……うまい。美味すぎる……! こんな飯は、竜王様の晩餐でも食ったことがない……!」

「……っ、ゲホッ!?」


 その言葉に、なぜかリュウさんが激しくむせていた。


「どうしたんですか、リュウさん?」

「……なんでもない。煙が目にしみただけだ」


 ヴォルグさんはスープですっかり元気を取り戻したらしく、私たちに向き直って、深々と頭を下げた。


「命の恩人だ、聖女様。それと、そこの旦那」

「せ、聖女様だなんて……私はセレスティアです。こっちはリュウさん」

「セレスティア様と、リュウ殿か」


 ヴォルグさんは、懐かしそうに目を細めた。


「ここは昔から、人間も、俺たち獣人も、エルフもドワーフも、傷つけば分け隔てなく癒してきた。《辺境の聖域サンクチュアリ》と呼ばれていたんだ」

「辺境の聖域……」

「その湯と、聖女様の力が戻ったとなれば、またここも賑やかになる」


 ヴォルグさんはそう言うと、「この恩は必ず返す」と告げ、リュウさんは「いらん」と言ったが、ヴォルグさんが無理やり置いていった銀貨を数枚カウンターに残し、元気に宿を去っていった。


 静けさが戻った宿で、私とリュウさんは顔を見合わせた。


「……『辺境の聖域』、ですって」

「……厄介ごとが増えそうだな」


 リュウさんはそう言ってため息をついたが、その横顔は、昨日まで漂わせていた「死んだ場所」を探すような虚無感は、もうどこにもなかった。

 私の「役立たず」の力が、この場所の「役目」を復活させた。そのことが、私の胸を温かく満たしていた。

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