第4話 いつもの日常

 すぐるはスマホのアラームの音で目が覚めた。一人で寝る二人用のベッドは小太りの優にとっても広く、未だ慣れない。起き上がってスリッパを履き、洗面所へと向かう。蛇口をひねり、手で冷たくもぬるくもない水を受け止め、顔を洗う。何度か手を蛇口と自分の顔の間を往復させてからタオルを手にとる。洗面台の鏡をなんとはなしに見る。普段まじまじと鏡を見ることはないので、自分がこんな顔だっただろうかと不思議になる。妻が死んでから、テイクアウトの食事が増えた。綾が晩御飯を外で食べるようになってからは自分のためだけに作り気が起きずにいた。その蓄積が顔や体に脂肪として顕著にあらわれていた。たまには妻から教わった料理を作ってみようか。そんなことを考えてながら顔の水滴をタオルで軽く拭い、ひげを剃る。


 二階からドタバタと慌ただしげな足音が聞こえた。綾が起きてきたのだろう。


「おはよう」

 洗面所のドアから顔を出して二階に向かって声をかけてみるが、いつも通り返事はない。母親がいなくなった今、綾の反抗期に歯止めをかける存在はなかった。妻ならこういう時なんというだろう。

 

 妻が死んだ時、綾はまだ中学生だった。その時の綾は今思い出しても痛々しいほうど喪失感でいっぱいだった。食事もろくに取らず、毎日自室にこもって泣いていた。


 あの時もっと寄り添っていれば、今こうはなっていなかっただろうか。あの頃は優も抜け殻のように日々を送っていた。娘が悲しみに暮れているのを分かっていながら、自分にはどうすることもできないと諦めていた。妻はもうどこにもいない。その喪失感を二人ともただ別々に噛み締めていた。


 階段を降りる音がして、また洗面所から覗く。急いで玄関の方へ向かうスラッと伸びた足だけが見えた。今日はちゃんと見送ろう、そう思い優はシェービングクリームをタオルで拭いて玄関へ急ぐ。しゃがんで靴を履いている背中に向かって、

「気をつけていってらっしゃい」

 そう呼びかけた。


 綾が振り返る。横顔を見た時、優は固まった。それは綾ではなかった。


「……ジェン……さん?」


 制服を着たジェンは、優の顔をじっと見据えて言った。

「キモいんだよクソ親父」


 目が覚めると、宿屋の天井があった。なにか夢を見ていた気がするが、思い出せなかった。おじさんはしばらく起き上がれず、硬いベッドの上でぼーっと天井を眺めていた。

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おじさんSEがゲームの世界に転生して世直し(バグ修正)していく 芹沢 @serizaa

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