第32話 森の“息づかい”の変化

 朝の空気は冷たかったが、街はもう動き出していた。


 桜精院西棟の小さな部屋——昨日「森監察隊」の隊舎に決まった場所で、サーシャは自分の荷をもう一度広げていた。


 軽い革鎧。

 短い上着。

 膝までのズボン。

 膝当て。

 動きやすさを優先した「森用」の装備だ。


 腰には、護身用の短剣。

 肩から下げた布袋の中には、エシルにもらった護符と、簡易の薬草包み、それから自分で削った小さな木片。


 ——森の枝から削り出した、ただの棒。


 けれどサーシャにとって、それは「森と自分をつなぐ線」みたいなものだった。


(大丈夫、大丈夫……)


 声に出さずに、心の中で何度も繰り返す。


 胸の奥では、いつもの「ざわざわ」がゆっくり回っている。

 森の声。

 眠っているものの息づかい。

 痛んでいるもののうめき。

 それが全部一緒くたになって、彼女の中に押し寄せていた。


 扉が軽くノックされた。


「サーシャ、入るぞ」


 低い声。ガルドだ。


「は、はいっ」


 慌てて荷をまとめ、扉の方を向くと、ガルドの後ろにトマとノエル、イナの姿が見えた。

 トマは槍を肩に担ぎ、ノエルはリュックサックを両手で抱えている。

 イナはいつもの軽装で、腰にロープを巻きつけていた。


「準備は?」


「……たぶん、ばっちりです」


「たぶん、は外していけ」


 ガルドは短く言いながらも、その目には責める色はない。


「出発前に、エシルの祈りを受ける。

 それと——ユーマがお前に伝言だ」


「ユーマさんから?」


「『帰ってきてから、森の話を聞かせてほしい』だそうだ。

 数じゃなくて、感覚ごと。……だとさ」


 サーシャの喉が少し震えた。


「……はい。ちゃんと、話します」


 自分が聞いてくるものが、「数字」にはなりにくいことは、サーシャ自身がいちばんよくわかっている。

 気配、匂い、風の向き、土の重さ。

 そういうものは帳簿に書きづらい。

 けれど、それを「聞きたい」と言ってくれる人がいる——そのことが何より心強かった。



 桜精院の中庭には、今朝に限って人が多かった。


 森監察隊の初陣を見送ろうというのか、子どもを連れた母親や、夜勤明けの桜盾、市警の者たちが三々五々集まっている。


 庭の中央には、小さな石の台。

 その上に、透明な水を湛えた鉢が乗っている。


 エシルが静かに手をかざした。


「これから森に入る者たちに、祈りと少しの“落ち着き”を」


 ミラがその隣に立ち、両手で鉢を持ち上げる。

 水面に、桜の花弁が一枚、そっと浮かべられた。


「——森は、あなたたちの敵ではありません。

 でも、今は少し、痛んでいます。

 痛んでいる誰かのそばに行くときと同じように、静かな心で進んでください」


 エシルの言葉に、サーシャの胸のざわめきがほんの少し和らぐ。


 ガルド、セレス、ミラ、イナ、トマ、ロウ、ノエル、リュス。

 それぞれが水に指先を触れ、小さく額に当てる。

 サーシャも、最後にそっと水をすくった。


 冷たい。

 けれど、その冷たさは「拒む冷たさ」ではない。

 目を閉じると、森の奥の湿った土の匂いが、一瞬だけ鼻をかすめた。


(……行くね)


 心の中で、森に向かって呟き、サーシャは目を開けた。



 街の西門から外に出ると、緩衝帯に植えられた桜の苗木が列を作っていた。


 まだ細い幹。細い枝。

 それでも、葉はしっかりと風を受けて揺れている。


 道の脇では、子どもたちが手を振っていた。


「森の隊だー!」「がんばってー!」「負けるなー!」


 軽い声。

 笑い。

 無邪気さ。


 その全部が、サーシャの背中を押すと同時に、重石にもなった。


(負けられない……)


 自分たちの仕事は「森と戦うこと」ではない。

 それでも、ああして手を振られると、「何かを守らなきゃ」と体が勝手に緊張してしまう。


「トマ、歩幅が大きい」


 前を行くガルドが、振り向きもしないで言う。


「は、はい!」


「槍の柄で桜を叩くなよ。一本一本が、帰り道だ」


 トマが慌てて槍を持ち直す。

 後ろでノエルがくすっと笑い、サーシャも思わず笑った。


「緊張してるの、バレバレだね」


「お前もな」


 イナが軽く肩を叩く。


「足がちょっと浮いてる。土をちゃんと踏め。森に失礼だぞ」


「……はい」


 言われてみれば、足の裏の感覚が薄い。

 深呼吸をして、一歩ずつ、地面に重さを預けるように歩く。


 風が、山側から吹いてきた。

 森の匂い。

 湿った葉と土の匂いに、微かに混ざる、鉄のような、生木を裂いたような匂い。


(あ……)


 サーシャの耳の奥で、「何か」が鳴った。


 言葉にはならない。

 でも、確かに「こっちを見ている」気配。


 前を行くセレスが、わずかに顔を上げた。


「感じた?」


「……はい」


「大丈夫。今のは“挨拶”みたいなもの」


 セレスの声は静かで、少しだけ柔らかかった。


「怖いのは、“何も感じなくなる”とき。

 森が完全に口を閉じたら、そのときが本当に危ない」


 その言葉に、サーシャは背筋を伸ばした。


(今は、まだ“話が通じる”んだ)


 そう思えるだけで、少し息がしやすくなる。



 森の手前——緩衝帯の終わり。

 そこから先に、例の「灰色の帯」がある。


 見た目には、何も変わらない。

 低い草、背の高い木、落ち葉。

 ただ、音の量が違う。


 鳥の声が、少ない。

 虫の羽音も、風に運ばれてくる枝の軋みも、どこか遠い。


「ここから先が、“帯”の外縁だ」


 ガルドが立ち止まり、足元に小石を落とした。


「昨日、レンたちが引き返した場所より、少し手前。

 まずはここで、森の“機嫌”を測る」


 セレスが一歩前に出る。

 弓に矢をつがえ、森の内側へ向けた。

 狙っているのは獲物ではない。


「風、良し。……撃つわけじゃない。矢の“通り”を見るだけ」


 弦が静かに鳴り、矢が放たれる。


 ——次の瞬間、サーシャの耳がきゅっと鳴った。


 矢は、真っ直ぐ飛んでいった。

 けれど、灰色の帯に差し掛かった瞬間、ふっと「重さ」を失ったように、軌道が崩れた。

 地面に落ちるはずの矢は、落ちない。

 目の前で、矢の輪郭がぼやけて――


 消えた。


「……今の、見えたか?」


 ガルドが低く問う。


「矢が、消えました」


 トマが呟く。

 ノエルは口に手を当てている。


 セレスは眉をひそめた。


「風に流されたわけじゃない。

 矢羽が焼けた匂いもしない。……“形ごと”、どこかへ持っていかれた」


 リュスが静かに手を組んだ。


「境界ですね。

 あそこから先は、ものの“在り方”が変わってしまう」


 サーシャは、一歩前へ出た。

 無意識のうちに、灰色の帯のほうへ足が向かい——


「止まれ」


 ガルドの声が重く落ちた。


 肩を掴まれ、サーシャはハッと我に返る。


「あ、ご、ごめんなさい」


「謝るな。……何を感じた」


「……呼ばれた気がして」


 自分で言いながら、背筋に冷たいものが走る。


「“おいで”って?」


「いえ。……“見て”っていうか……

 “こっちのこと、ちゃんと見て”って、訴えられたような」


 自分でもうまく言葉にできない。

 それでも、口から出てくるのはそんな感覚だった。


 ミラがサーシャの手を、そっと握った。


「森は、多分、自分がどうなっているか見てほしいんです。

 でも、今そこに飛び込んだら、サーシャさんの“形”まで変えられてしまう」


「……はい」


 ガルドはしばらく黙って灰色の帯を睨み、それから短く言った。


「今日はここまでだ」


「え?」


 思わず声が漏れたのは、トマだった。


「でも、まだ何も——」


「“何も”じゃない。十分だ」


 ガルドの声に、普段より少しだけ感情が乗る。


「矢が消えた。風も匂いも、今までと違う。

 サーシャは“呼ばれた”と言う。——これは立派な情報だ」


 彼は灰色の帯から一歩、はっきりと下がってみせた。


「俺たちの仕事は、森に呑まれに行くことじゃない。

 境界を知り、“今どうなっているか”を持ち帰ることだ。

 帯の内側に踏み込むのは、街全体で覚悟が決まってからだ」


 その言葉に、セレスも静かに頷いた。


「今日は、森の“拒み方”がわかった。

 十分な一歩だと思う」


 イナが息を吐き、ロウが小さく笑う。


「……記事のタイトルが決まったな」


「記事?」


「“森だより”の第一号。

 『矢が消えた森——境界線の手前から』ってね」


 ノエルが「こわっ」と小さく肩をすくめたが、笑みは消えていなかった。

 恐怖と好奇心は、いつも隣り合っている。



 帰り道、森から少し離れた場所で、イナが足を止めた。


「ちょっと待って」


 彼女は膝をつき、茂みの陰を覗き込む。


 土の上に、小さな足跡がいくつも走っていた。

 ウサギか、小型の獣のものだろう。

 その足跡は、森の方向から走ってきて——途中で途切れている。


 その先には、小さな「塊」があった。


「……これ」


 ノエルが息を飲む。


 そこには、獣の骨がひとつ、残っていた。

 肉はほとんど残っていない。

 けれど、妙に「整って」いる。


 頭、背骨、手足。

 まるで、誰かが丁寧に並べ直したように。


「昨日見た骨と、よく似ているな」


 ガルドが低く言う。


「帯の“内側”から逃げてきたのかもしれん。

 ここで力尽きて、森に“戻された”」


 ミラがそっと目を閉じる。


「……“返された”のかもしれません。

 森の深いところで、何かが起きて、外へ押し出された命が、ここで止まった」


「どっちにせよ、ただの自然死じゃない」


 サーシャは、骨の並び方をじっと見た。


(きれいすぎる……)


 自然にこうなるには、少し不自然だ。

 でも、誰かが並べたような痕跡もない。


 風が一度吹き、桜の苗木の葉が鳴った。


「記録しよう」


 ロウが言う。


「骨の並び方、場所、周りの草。

 “森の機嫌”を測るには、こういう小さいことが一番効く」


 サーシャは頷き、胸のざわめきをなぞるように、その光景を記憶に刻んだ。



 夕方。

 桜精院西棟の小部屋は、人の熱で少し暑かった。


 机の上には、地図とメモが広げられている。

 ロウがペンを走らせ、イナが要点を口でなぞる。

 サーシャはその横で、自分の“感じたこと”をゆっくり言葉にしていた。


「灰色の帯の手前に立ったとき、耳の奥がきゅっとして……

 でも、完全に痛いわけじゃなくて……

 森の中から、『こっちを見て』って、お願いされてるみたいな」


「“こっちを見る”って、どういう方向?」


「……森の奥。

 帯の、もっと先。

 何か大きいものが、うずくまってる感じがしました」


 ロウが「うずくまる」と書き込み、感嘆符をひとつ付ける。


「うずくまる、ね。

 立って怒ってるんじゃなくて、倒れかけてるのかもしれない」


 ガルドが腕を組んで壁にもたれたまま、静かに言う。


「“倒れている巨人”のそばに近づくのは危険だが、

 離れすぎると、いつ立ち上がるかわからん。……厄介な相手だ」


「敵、と決めつけるのはまだ早いです」


 ミラが口を挟む。


「森が何か“抱えている”のは確かですが、それが必ずしも“こちらを壊すためのもの”とは限りません」


「かもしれん。だからこそ、監察隊がいる」


 ガルドは短く頷き、ユーマの方を見た。


「どうだ、市政としては」


「矢が消えた。

 獣の骨が“並んでいた”。

 森の奥には“うずくまっている何か”がいる。

 ……はい、完全に『放っておきたくはないけど、今すぐ飛び込むのも嫌な案件』です」


 ユーマは少しだけ冗談めかして言い、すぐ真顔に戻った。


「でも、今日の報告で、“今すぐ街が呑まれる”状況じゃないことはわかった。

 森は帯の内側で何かを抱え込んでいて、外への“漏れ”はまだ小さい」


 彼は紙に新しい項目を書き込む。


 ・森監察隊、週一回の定期観察

 ・緊急時(森側からの“音”や“光”の変化があった場合)は追加出動

 ・森だより第1号の発行


「ロウ、明日の朝までに“森だより”を書ける?」


「人を酷使するにもほどがあるな、市政」


 ロウは苦笑しつつ、ペン先をくるりと回した。


「——やるよ。

 “恐がらせすぎず、楽観させすぎず”っていう無茶振り込みでな」


「頼りにしてる」


 ユーマが軽く頭を下げると、ロウは肩をすくめた。


「その代わり、次の酒代は市政持ちで」


「予算と相談しよう」


 そんなやりとりに、小部屋の空気がほんの少し和らいだ。



 夜。

 サーシャは一人、隊舎の窓辺に座っていた。


 街の灯は、遠くでゆらゆら揺れている。

 森のほうは、真っ暗だ。


 目を閉じる。

 耳を澄ます。


 昼間より、森のざわめきがはっきり聞こえる気がした。


(……ねえ)


 呼びかけてみる。

 言葉にならない「何か」が、胸の内側に返ってくる。


 痛み。

 重さ。

 眠気。

 焦り。

 それでも、そこに「悪意」はあまり感じられない。


(あなたは、何なの)


 問いかけても、答えは返ってこない。

 ただ、うずくまり続けている気配だけがある。


(わたしたちは、ここにいるよ)


 サーシャは窓枠に額を押し付けた。


「森監察隊っていう、ちょっと変な隊を作ってさ。

 あなたを“敵”って呼ばないで済むように、必死で考えてる人たちがいるんだよ」


 ユーマの帳簿。

 アストの視線。

 ガルドの号令。

 ミラの祈り。

 ロウたちのメモ。

 トマとノエルの不器用な励まし。

 子どもたちの「がんばってー」という声。


 その全部を、胸の中で束ねる。


(だから、どうか)


 そっと、お願いを乗せる。


(こっちを、あんまり一気に壊さないで)


 風が、窓の隙間から入り込んだ。

 昼間とは違う、夜の森の匂い。


 さっきまでの重さが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。


「……うん。

 こっちも、できるだけそっちを壊さないようにするから」


 サーシャは小さく笑って、窓から離れた。


 森の問題は、何ひとつ解決していない。

 沈黙の帯はそのまま。

 矢は消えたまま。

 うずくまっている何かは、まだ名前もわからない。


 それでも——


 今日、街は「森に向き合う新しい線」を一本引いた。

 森監察隊という線。

 森だよりという線。

 そして、サーシャの耳から森へ伸びる、目に見えない細い線。


(明日も、耳を澄まそう)


 布団に潜り込みながらそう思うと、不思議と眠りは早く降りてきた。


 窓の外では、遠くの見張り台の灯が、小さく瞬いている。

 その向こうには、相変わらず黒い森。


 沈黙の森と、動き続ける街。

 そのあいだで細く揺れる一本の線の上を、サクラリーヴは歩いていた。

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