第10話 桜貨の都市経済と冒険者の素材買い取りの始まり

 朝の霧が港を薄く覆っていた。潮と薬草の匂いが混ざるこの街で、いま一番早く火が点く建物は、鍛冶場ではなく鋳造所だった。新しく立った低い屋根の棟の奥、炉は猫の喉のように低く鳴き、鉄扉の隙間から橙の呼吸が漏れている。

 ユーマは灰色の外套を肩に掛けたまま、炉の前に立っていた。額に汗はない。火に対する距離感を、彼はもう体で覚えている。隣でドワーフの長グレンが大きな手で鋳型を支え、視線だけで合図を交わした。


「流すぞ」

「ああ。——温度、四百八十。攪拌、弱。刻印面、乾燥よし」


 低い鉄の唸りとともに、溶金が型へ落ちる。二枚の刻印板が重なり、桜の花弁の線が金属の表に沈む。押圧の刹那、精霊の薄いさざめきが板の裏を走った。精霊印だ。人の指では決して刻めない、触れたときにだけわかる微細なひっかかり。

 板が開き、最初の一枚が取り上げられた。まだ柔らかい光を宿した小円盤が、受け皿の上で冷たい音を鳴らす。桜銀貨。表に花弁、裏に「信」の小さな字。すべての約束の根を示す記号。

 ユーマはその一枚を指で持ち上げ、光に透かしてみた。桜の線が月光のように淡く浮かんだ。


「金は溶ける。だが信用は溶かない」

 彼は小さく言い、銀貨を掌で一度返してグレンに渡した。

「責任も、溶かない」

「……だから重いのさ、通貨ってのは」

 グレンが笑い、顎髭をゆっくり撫でた。「だが、この重さなら持てる。こいつは“嘘”が入らねえ」


 その日の朝、桜銀貨五百、桜銅貨千、試作の桜金貨十が生まれた。桜金貨は内側の保管庫へ。桜銅貨と桜銀貨は、帳簿局と両替窓口へ運ばれ、内部流通のための最初の籠が満たされた。


     ◇


 午前の市場は、いつもより静かにざわついていた。両替所の看板の前、妖精のリトとフィアが小さな椅子に座り、秤と記帳板を前にしている。秤の皿が揺れるたび、客の視線も揺れた。

 初老の行商人が帽子を胸に押し当て、恐る恐る口を開いた。


「この……その……王国銀貨十枚を、桜銀貨に換えたいんだが」

 フィアがにっこり笑い、秤に王国銀貨を載せた。「重さは合ってる。……刻印は去年の王都鋳。磨耗は少ないわ。——はい、等価九枚と、手数料があるから差し引き一枚。桜銀貨八、桜銅貨十でどう?」

「等価九、手数料一、受け取りは八と十……」

 行商人は口の中で繰り返し、顔を上げた。「偽物の心配は?」

 リトが秤の脇の銀貨を指先で弾いた。かすかな音。精霊印の反響が耳ではなく皮膚に触れる。「ないよ。これ、触ったらわかるの」

 行商人はおそるおそる桜銀貨を握り、眉をひそめ、次に目を丸くした。「……おお」

「信用の手触り、です」脇で記帳していたエルフのルーシュが微笑む。「この街では“値段”より先に“約束”がわかります」


 両替所の奥では、会計台帳が静かに点滅していた。発行枚数、回収枚数、外貨の流入量、桜貨の滞留時間、相場連動係数——赤く光る箇所はない。ユーマは板の隅に指を置き、流通量の目安を下げ幅とともに設定する。

「最初の一週間は、流しすぎない。路を敷くときは、土を踏み固める」


     ◇


 昼前、冒険者買い取り所の扉に新しい札が掛かった。素材買い取り開始——桜貨による即金。

 扉が開く音と同時に、若い声の笑いが雪崩れ込んだ。四人組のパーティが一塊の革袋をカウンターに置く。前に立つのは短髪の青年、カイン。肩に無数の小傷を持つ、陽の匂いの男だ。


「ユーマさん、本当に“その場で払う”のか?」

「その場で払う。ただしこの場の基準で測る」

 ユーマが頷くと、カウンターの後ろでドライアドの若木が葉を一枚震わせ、台の上の品を丁寧に広げ始めた。

 黒い角、硬い甲殻、腱、目玉、香りの強い腺——あらゆる部位が端的な名前で呼ばれ、秤に載せられる。《真理視界〈オムニアイズ〉》が淡く光り、成分、鮮度、危険度が三色で浮かぶ。

「角、三等。甲殻、二等。腱、一等——保存良し。腺は…危険、赤だ。即時処理ラインへ」

 ユーマが静かに指示する。

「一等は買取率一〇〇%、二等は八五、三等は七〇。腺は処理費を引いた上で固定額。——カイン、納得しないものは持ち帰っていい」

 カインは笑って首を振る。「いや、十分だ。あんたの基準はわかりやすい」

 ドライアドの細指が素早く縫うように仕分け、ドワーフの秤が針を止める。妖精が札を結ぶ。

「合計、桜銀貨二十八、桜銅貨十五。今、払う」

 ユーマが袋を差し出すと、カインは一瞬、言葉を失った。「……はやい」

「早さは、信用の半分だ」

 カインは袋を握り、仲間の方を振り返った。三人の顔に一斉に笑いが広がる。

「なら、あんたの街で稼ぐ。薬も宿も、一箇所で済むんだろ?」

「済む。宿泊分会で寝て、ファーマシーで薬を買い、フーズで腹を満たし、アイアンワークスで道具を直す。桜貨は全部で使える」

「最高だ」

 カインは拳を二度打ち合わせ、仲間と肩を組んだ。「この街は“冒険者の財布”を守る」


 その日の午後だけで、買い取り所には二十組以上の冒険者が現れた。森の小型魔獣、丘の巨大鳥、川の異魚。生きものの名が、そのまま貨幣の色に変わる。赤は慎重に解体ラインへ。緑は即座に倉庫へ。青は乾燥棚へ。

 ユーマは記帳を終えるたび、会計台帳に短い注を残した。「鮮度に支払う。危険は処理費を含めて買う。死骸は資源に、資源は賃金に、賃金は休息に」


     ◇


 夕方、両替所の前で小さな揉め事があった。王都から来た商人が、桜貨の受け取りを渋ったのだ。

「王国銀貨以外は信用しない。王の刻印こそが信用だろう」

 通りの空気が少し固くなった。ユーマは歩みを止め、真正面から商人の目を見る。

「あなたが“王”を信じるように、この街の者は“暮らし”を信じている。桜貨は暮らしで必ず使える。使えるという事実が、信用だ」

「だが——」

 ユーマは懐から小さな布袋を取り出し、桜銀貨を一枚だけ取り出して商人の掌に置いた。「触ってみて」

 商人は不承不承、指で縁を撫でる。次の瞬間、表情が変わった。

「……妙だ。すべすべなのに、止まる」

「精霊印。子どもでも偽物と本物を区別できる。騙されない貨幣は、強い」

 ユーマは軽く肩をすくめた。「受け取らないなら、それもいい。ただ、この街で売るなら、この街で使える金で受け取ったほうが、賢いと思う」

 沈黙。やがて商人は渋い顔で頷き、桜銀貨の袋を受け取った。「……試しだ。試しに受け取ってみよう」

「ようこそ桜圏へ」リトが小さく囁き、フィアが帳簿に一行、記した。「新規取引・王都商会・桜貨受領」


     ◇


 夜。港の灯は、昨日より少し増えていた。

 ユーマは本部の二階から通りを見下ろした。宿泊分会の窓に白い布が揺れ、フーズの厨房からスープの匂いが流れ、ファーマシーの前で母親が子どもの手を引いて石鹸を選んでいる。

 背後の机で、会計台帳が数字を増やした。桜貨流通比率・六二%。外貨残高・安定。偽造判定・ゼロ。冒険者買い取り・四百二十件。

 リシアが紅茶を持って入ってきた。

「——順調ね」

「順番を守ったからな」

「最初に毒を抜いて、次に台所を整えて、その次に通貨。焦らないやり方は、人のやり方ね」

 ユーマは笑って、窓の外を指した。「夜の音が静かになった。不安が減ると、街は静かになる」

「あなたの好きな静けさ」

「働くときは賑やかで、休むときは静か。帳簿の理想だ」


 少しの沈黙。風が紅茶の香りを運ぶ。

「明日、金利の話をしよう」ユーマが言った。「銀行を走らせる。貯蓄が動けば、事業が増える」

「ドワーフ銀行アイアン・セービングの準備はできてるわ。妖精の信用組もね」

「利子は小さく、遅延は厳しく。担保は道具と土地と分会史。名前も担保だ」

 リシアは笑う。「あなたらしい。顔の見える金融」


     ◇


 翌朝。銀行の扉が開いた。

 重そうな名前に反して、内装は明るい。長椅子、窓口、秤、記帳台。壁に掛けられた木札には、預かりと貸し出しの利率が明記されている。

 最初の客は、アイアンワークスの見習いだった。

「道具を買い足したいんです。……でも、今の賃金だと少し届かなくて」

 窓口のドワーフが頷く。「担保は?」

「この秤。フォルテさんの判がある」

 ドワーフは秤を受け取り、目を細め、頷いた。「名が担保だ。返せるな?」

「返します。桜貨で」

「なら、貸す。返済が遅れたら赤が鳴る。鳴らさないよう働け」

 見習いは力強く頭を下げ、桜銀貨の小袋を胸に抱えた。道具が増えれば仕事が増える。仕事が増えれば返済もできる。返済ができれば信用が増す。信用が増せば……桜貨はさらに強くなる。


 その足で見習いがホスピタリティの食堂に入り、温かいスープと黒パンを買った。桜貨は迷いなく皿から皿へ移り、フーズの帳簿に音もなく記された。

 午後には、妖精信用組の窓口で、小さな商人が小口の融資を受けた。台所セットを十箱仕入れるためだ。返済は市場の売上から自動。会計台帳は約束の線を淡く光らせ、滞りがあれば赤で知らせる。

 ユーマは会計台帳のページをめくる指を止め、ふと微笑んだ。——数字が、安心を保証する。


     ◇


 午後、冒険者買い取り所に外地の一団が来た。長旅の汚れを落とす暇も惜しむ顔つき。彼らは王都のギルドに愛想を尽かしてここまで来たという。

 カウンターの前で最初の男が袋を置いた。

「遠目の山で、魔鳥を落とした。腐る前に売りたくてな」

 ユーマは頷き、《真理視界〈オムニアイズ〉》を通す。「鮮度、良。温度保持、良。運搬、丁寧。——評価加点」

 男が目を丸くした。「加点……?」

「方法に金を払う。よく運べば、街は安全になり、医療が減る。見えない黒字は、ここで払う」

 男はしばらく黙り、やがて照れくさそうに笑った。「妙な街だ。だが……いい」

 査定が終わると同時に、桜銀貨が袋に落ちる音がした。

 後ろの仲間が小声で囁いた。「——今、払ったぞ」「今だ」「すぐだ」

 その夜、彼らは宿泊分会の浴場で湯に浸かり、フーズの酒場で腹を満たし、ファーマシーで膝の軟膏を受け取り、パフューマリーで寝具に一滴落とす香を買った。桜貨の袋は軽くなったが、彼らの顔は軽さぶんだけ柔らかくなった。

 翌朝、彼らは言った。「ここを拠点にする。稼ぎが減らない街は、はじめてだ」


     ◇


 日が暮れ、桜貨は街の隅々へ行き渡っていく。市場の子どもが銅貨を握りしめ、石鹸を買い、家に走る。織物のテルマが新しい寝具をホスピタリティに納め、桜貨を受け取る。クラウのパン窯からは夜でも薄い蒸気が上がり、回収に来た獣人の若者が夜食を頬張った。

 港では、両替所が小さな灯を残して静かに扉を閉じる。最後の客は、昼間の王都商人だった。彼は財布の底で桜貨が音を立てるのを、じっと聴いていた。

「……妙だな。安心の音がする」

 リトが肩をすくめる。「使える音、です」


     ◇


 その頃、帳簿局ではユーマが会計台帳の前に立っていた。

 数字は、静かに街の一日を歌っている。桜貨流通比率・六八%。冒険者買い取り・六百五十件。銀行貸出・小口三十、事業五。遅延・ゼロ。偽造判定・ゼロ。医療費推計・低下。

 彼は一枚、薄い紙を取り出し、ゆっくりと書く。

「桜貨・第一週報」

 冒頭に一行。“通貨は約束。約束は顔。顔は暮らし。”

 書き終えたところで、扉が軽く叩かれた。

 カインが半身を覗かせる。

「夜分にすまねえ。ひとつ頼みが」

「なんだ」

「討伐依頼の報酬を、桜貨建てで固定してくれねえか。相場がごまかされない分、命の計算がしやすい」

 ユーマは少し目を細め、頷いた。「基準を作ろう。危険等級と距離と鮮度で算式を組む。遅延は罰金。追加は救命に限る」

 カインは笑って親指を立てた。「そうこなくっちゃ」

「ただし——死体は持ち帰れ。街が資源にする。捨てない」

「おう。捨てない」


     ◇


 翌日、桜貨・討伐算が公示された。木札に刻まれた短い線。等級A〜E、距離、危険度、鮮度、人数。報酬は桜貨で固定。追加は救命と緊急のみ。遅延は罰金。

 最初はざわめいたが、四日目には文句が消えた。わかるのだ。ごまかしがないと。努力が報われると。

 ギルドの廊下で、ユーマは紙片を渡された。

「桜貨で家賃を払えるようにしてほしい」

 差出人は宿の女将たち。

 ユーマは即答した。「ホスピタリティの決済を桜貨優先にする。両替はいつでも。税はまだ王国銀で払うが、領主が来たら話す」

「来るの?」

「そのうちな」


     ◇


 一週間後の朝。港に白い帆が見えた。領主代官の旗。

 視察だ。

 ユーマは迎えに出た。会計台帳の写し、桜貨の発行台帳、銀行の貸借一覧、冒険者買い取りの算式、環境再生の処理記録、生活必需の統一基準。つまり、街の暮らしそのもの。

 代官は最初、眉をひそめていた。だが帳簿をめくるうち、目の動きが変わる。

「——偽造は?」

「ゼロ」

「治安は?」

「改善」

「税は?」

「上がる」

 代官の口角がわずかに上がった。「……よろしい」

「自治は?」

 ユーマが静かに言うと、代官はほんの少しだけ目を細め、空を見た。港の上で桜の旗が揺れている。

「“名目上の村”であるうちは、自治も名目上だ」

「名は後からでいい。暮らしが先だ」

「……あなたは面倒な人だ」

「帳簿はいつも、面倒の先に立つ」

 代官は笑った。「王都に、そう書いておく」


     ◇


 その夜。ユーマは港の外れでひとり、桜銀貨を指で弾いた。金属の冷たさではない。約束の温度がある。

 足音。振り向くと、リシアが立っていた。

「代官、怒らなかった」

「数字が怒らせなかった」

「次は?」

「桜金貨を——外に出す。大口の取引に使う。王都の商会と一件。相場を少し動かす」

 リシアは目を細めた。「戦になる?」

「戦はしない。値で話す。働くほうが安いと、数字に教えてやる」

 風が二人の間を抜けた。遠くで、アイアンワークスの槌が静かに三度鳴り、やがて止んだ。

 ユーマは銀貨をしまい、空を見上げる。星の間に、桜の花びらが見えた気がした。


「焦らず、競わず、ちゃんと儲かる」

 彼は小さく言い、歩き出した。

 背中の向こうで、街が一斉に息を整える。冒険者の靴音、宿の笑い声、香のやわらかな立ち上がり、台所の水音。

 桜貨はもう、ただの金属ではない。暮らしを回す輪そのものだ。

 明日の朝、買い取り所の扉はまた早く開き、両替所の秤は軽やかに揺れ、銀行の窓口では若い手が道具を担保に小さな未来を借りるだろう。

 そして夜には、会計台帳が一日の安心を数字に変える。黒字は静かで、赤はよく通る。どちらも街の音。どちらも暮らしの影。

 ユーマはそれを、ただ確かめ続ける。働くことで、人が生きやすくなる街であるように。


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