第10話「練習試合 ―北陵高校との一戦―」
5月下旬朝の空気はまだ少し冷たく、けれど少しだけ春のにおいが残っていた。
体育館へ続く渡り廊下を歩くたび、竹刀袋の先がかすかに揺れる。
剣哉はその音を聞きながら、深く息を吐いた。
(ここが、今の自分の立ち位置か)
団体戦のメンバー表には、自分の名前はなかった。
ベンチ入りどころか、補欠。
かつて中学ではレギュラーで通っていた自分が、今はただ見ているだけ。
それが、少しだけ胸を刺す。
けれど、もう以前みたいに下を向くことはなかった。
「焦らなくていいよ」――あの日、桜に言われた言葉がまだ胸の奥で響いていた。
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体育館の中では、いつもより空気が張り詰めていた。
北陵高校。去年の県大会で決勝まで進んだ強豪校。
桜原高校とは因縁がある相手だ。
久我圭人は唯一1年で団体戦の先鋒に抜擢されていた。
彼が面をつける姿を見て、剣哉は自然と拳を握る。
隣では、同じく1年の湊が緊張した面持ちで声を漏らした。
湊「久我、すげぇな……本当に出るんだ。」
剣哉「うん。でも、あいつならやれる。」
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試合が始まる。
「はじめ!」の合図が響くたび、床板の音が鋭く跳ね返る。
北陵の選手たちは一人ひとりが洗練された動きを見せ、
その中で、圭人は決して引けを取らない立ち合いを見せていた。
体格差はある。けれど竹刀のさばきは正確で、気迫も負けていない。
湊「いけ、久我!」
剣哉「ナイス構えだ!」
一本。
審判の旗が上がり、北陵が先制する。
それでも、圭人の表情には焦りはなかった。
再び構え直すと、低く踏み込む。
――メン!
乾いた音が体育館に響き、今度は桜原の旗が上がった。
剣哉「ナイスだ、圭人!」
湊「負けてらんねぇな、俺らも。」
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一方、女子の試合も別のコートで進んでいた。
桜の姿は遠くからでもすぐにわかる。
姿勢がきれいで、構えも凛としている。
桜「メン!」
鋭い声とともに竹刀が相手の面を打ち抜いた。
その瞬間、観客席の端で夏希が小さく歓声を上げる。
夏希「うわっ、桜、めっちゃかっこいい!」
隣で日向が頷く。
日向「ほんとです……剣道部って、なんか違いますね。
あの一瞬に全部をかけてる感じがして。」
夏希「でしょ? なんか見てるだけで背筋が伸びるんだよね。」
日向「はい……なんか、胸が熱くなります。」
竹刀の音がまた響き、二人はその場で息をのんだ。
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全ての試合が終わるころには、体育館中が熱気に包まれていた。
結果は、ほぼ互角。
お互いに一歩も譲らない試合だった。
片付けをしていたとき、北陵の監督が声を上げた。
北陵監督「もう一本、やらせてもらえませんか? 個人で、一戦。」
その提案に桜原の篠原顧問が即座に頷く。
篠原顧問「いいですよ。前園ー!!、行け。」
一瞬、剣哉の呼吸が止まった。
剣哉「俺……ですか?」
篠原顧問「そうだ。思いっきりやってこい。」
顧問の声は淡々としていたが、その目には確かな信頼があった。
桜(!!…前園くんが試合に……頑張って)
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相手は北陵の2年生、長身の男子――安堂拓真。
筋肉の厚みが違う。構えた瞬間、空気が張り詰める。
審判「はじめ!」
竹刀がぶつかり、音が弾けた。
一瞬の押し合い。体勢を崩されそうになりながらも、剣哉は踏ん張る。
(負けるもんか……!)
拓真の竹刀は重く速い。受け止める腕がしびれる。
防戦一方に見えて、剣哉は相手の呼吸を探っていた。
――もう一歩、引き出せ。
足をずらし、誘うように下がる。
相手の竹刀が振り下ろされた瞬間、受け流して距離をとる。
息が荒い。汗が額を流れ落ちる。
(焦るな、落ち着け。自分の剣を信じろ……)
頭の中で、桜の声が蘇る。
――「焦らなくていいよ。あなたの剣は、まっすぐで、強いから。」
その瞬間、剣哉の視界が研ぎ澄まされた。
次の打ち込みで勝負に出る。
竹刀を軽く構え、低く重心を落とす。
安堂が踏み込んだ。
その瞬間、剣哉の身体が自然に動いた。
――メンッ!
竹刀がぶつかる鋭い音。
旗一本しかあがらない。
歓声が広がる。
だが、安堂はすぐに立て直す。
お互いの息が荒く、鍔迫り合いが続く。
安堂「やるじゃねぇか、一年。」
剣哉「まだ、終わってません!」
竹刀が何度もぶつかる。
足さばきの音、掛け声、息づかい。
そのすべてが混ざり合って、空間が熱を帯びていく。
再び突き、引き面、体をかわす――
どちらも譲らない。
そして、
体育館全体が一瞬、静まり返った。
その沈黙を破るように、響いた。
桜「剣哉!!いけぇっ!!!」
その声は、まるで炎のように剣哉の胸を突き動かした。
踏み込む。もう一歩、さらに踏み込む。
――メンッ!!
竹刀が安堂の面を捉えた。
審判の旗が一つ、上がる。
しかしもう一方は動かない。
そのまま試合終了。
結果は――引き分け。
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それでも、誰もが拍手を送った。
ベンチの湊も、圭人も、笑っていた。
桜は息をのんで、目頭を押さえていた。
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試合後。
道場裏の夕暮れは静かだった。
剣哉は竹刀袋を肩にかけ、汗を拭いながら外に出る。
そのとき、背後から優しい声がした。
桜「……お疲れさま。」
振り向くと、桜が立っていた。
面を外し、少し髪が乱れている。
でも、その表情は穏やかだった。
桜「すごかったよ、前園くん!!私、途中から息するの忘れてた。」
剣哉「ありがとうございます。……やっと、自分の剣が少し戻ってきた気がします。」
桜「うん。ちゃんと届いてた。あなたの剣、すごく強かった。」
しばらく二人の間に静けさが流れた。
夕日が窓ガラスをオレンジ色に染め、体育館の影が長く伸びている。
桜「次は、勝ってね。」
剣哉「はい。絶対、勝ちます。」
その言葉に、桜は満足そうに頷いた。
そして、少しだけ顔を背けるように言う。
桜「……期待してるよ、後輩。」
その背中を見送りながら、剣哉は静かに拳を握った。
悔しさも、焦りも、全部この一日に置いていく。
また前を向いて、歩いていくために。
夕陽の下、風が竹刀袋の紐を揺らす。
その音は、もう迷いのない音だった。
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