第9話「揺れる午後、見えない距離」
第9話 揺れる午後、見えない距離
日曜日の午後。
桜は夏希の家のリビングで麦茶を飲んでいた。
カーテン越しの光がやわらかく、風鈴の音がかすかに響く。
夏希の家はチア部の後輩たちがよく集まる明るい空間だが、今日は二人きりだった。
夏希「で? 本当に抱きしめたの? 前園くんを?」
桜「ちょ、ちょっと待ってよ! そういう言い方やめて!」
夏希「だって事実でしょ?」
桜「違うの。あのときは……ただ放っておけなかっただけよ」
桜は慌てて言い訳をしながら、グラスを両手で持った。
氷の音が、かすかに鳴る。
夏希「“放っておけない”って、もう好きじゃん」
桜「そ、そんなわけ……ないってば」
夏希「はいはい。そう言う人ほど、あとで認めるのよ〜」
にやにや笑いながら、夏希はソファに寝転んだ。
桜は顔を真っ赤にしながら、視線を逸らす。
桜「前園くんは後輩だし、部員の一人。支えたいっていうか、放っておけなかっただけ……」
夏希「“だけ”ねぇ……」
桜「もう、夏希ったら!」
声が少し大きくなり、二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いが少し落ち着くと、夏希が真面目な顔で言った。
夏希「でもさ、桜。
誰かを抱きしめるって、そんなに簡単なことじゃないよ。
“かわいそう”とか“がんばって”じゃ届かない気持ちもあるじゃん?」
桜は言葉を失った。
夏希の言葉が、まるで心の奥を見透かすように響く。
桜「……ねぇ、夏希。私、前園くんのことどう思ってるんだろ」
夏希「それは自分で見つけなきゃ。
でも、“気になる”って思った時点で、もう半分は答え出てるかもね」
桜は目を伏せ、氷が溶けていく音をぼんやりと聞いていた。
そのあと二人は他愛ない話に戻り、夕方近くまで笑い合って過ごした。
---
夕方、桜は夏希の家を出た。
少し赤く染まり始めた空。
住宅街を抜ける道を歩きながら、小さく息をつく。
桜(心の声)
「好き……なのかな。そんなの、まだわからない。でも……」
ふと、スマホが震えた。
チア部のグループラインからの通知。
夏希を通じてチア部とも顔見知りになり、グループにも入っていた。
そこに“日向”の名前を見つけた。
『前園くん、最近元気ないね。大丈夫かな』
桜はその一文に、胸がチクリとした。
——あの日の帰り道。
泣きじゃくる前園くんを抱きしめたあの瞬間が、鮮明に蘇る。
彼の震えた肩。
小さく「ありがとうございます」と言った声。
そして、見上げたときのまっすぐな瞳。
桜(心の声)
「……あのときの気持ち、なんだったんだろう」
---
翌日の放課後。
剣道部の道場では、再び竹刀の音が響いていた。
剣哉はいつもの位置で、静かに素振りを続けていた。
だが、その表情にはどこか迷いがあった。
手の動きは正確でも、気持ちが少し遅れているように見える。
篠原先生「前園、もう少し手首を柔らかく。力が入りすぎてる」
剣哉「……はい」
その返事は小さく、覇気がなかった。
湊が横目で見て、心配そうに眉を寄せる。
湊「お前、どうした? らしくねぇな」
剣哉「なんでもないよ」
そう答えながらも、胸の奥では違う声が響いていた。
剣哉(心の声)
「桜先輩……あの日から、なんか顔合わせづらいな…」
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休憩の時間。
道場の外でひとり水を飲んでいると──
桜「前園くん」
振り向くと、桜が少しぎこちない表情で立っていた。
髪を耳にかけながら、どこか落ち着かない様子だ。
桜「前園くん、今日も頑張ってるのね」
剣哉「は、はい。あの……昨日は、ありがとうございました」
桜「……ううん、気にしないで。あれは、その……」
言葉が続かない。
あのときの感触が、思い出すたびに胸の奥でざわつく。
桜は俯きながら、指先で竹刀袋の紐をいじった。
剣哉も、何かを言おうとして口を閉じる。
微妙な間が流れたそのとき──
日向「剣哉くーん! やっぱりここにいたー!」
驚いたように二人が振り向く。
日向はチア部の練習の休憩中に駆けてきたのか、額にかかった髪を手で払いながら、息を整えて笑った。
桜に小さく頭を下げ、剣哉に近づく。
剣哉「日向? どうした?」
日向「なんか、元気なさそうだから。ちょっと顔見にきたの」
その言葉に、剣哉は目を瞬かせた。
桜は黙って二人を見ている。
日向「剣哉くんは、どんなときも前を見てる人でしょ?
だから、下向いてたら似合わないよ!」
桜の胸に、夏希の言葉がよぎる。
“放っておけないって、もう好きじゃん。”
剣哉は日向を見て、少しだけ笑った。
その笑顔を見た桜の心が、ふっと揺れる。
桜(心の声)
「この気持ちは……なんだろう。焦り? 嫉妬? 違う、そんなの……」
夕焼けが窓から射しこみ、三人の影を並べる。
竹刀の音は止み、風がそっと吹き抜けた。
桜は小さく息を吐き、前園に言った。
桜「じゃ……じゃあ、私、先に戻るね。二人とも練習、頑張ってね」
剣哉「はい。お疲れ様です」
日向「ありがとうございます! お疲れ様です!」
背を向けて歩き出す桜の胸には、見慣れたはずの道場の風景が少し違って見えた。
夕陽の中で笑う前園と日向。
その距離が、ほんの少し遠く感じた。
桜(心の声)
「前園くん……なんか、いつもと違うね」
校庭に出ると、風が少し強く吹いた。
空は茜色から紫へと変わりゆく。
胸の奥に残るざわめきを抱えながら、桜は静かに歩き出した。
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その夜。
桜は机にノートを広げながら、ふと窓の外を見た。
夜風がカーテンを揺らす。
桜(心の声)
「好きって、どういうことなんだろう。
そばにいたいって思うのは、先輩として? それとも……」
しばらくペンを止めたまま、ノートを見つめる。
ページの隅に、何気なく名前を書いてみた。
──前園。
その文字を見つめながら、桜の頬が少し赤くなった。
誰もいない部屋の中で、彼女は小さく呟く。
桜「……もう、わかんないよ」
窓の外では、夏の夜の虫の声が静かに響いていた。
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