第8話「涙の理由」

五月上旬の午後。放課後の道場に、竹刀の打ち合う音が波のように重なっていた。

障子の隙間から差し込む光は温かく、畳と木の匂いが混ざる。


練習はいつも通りに進んでいたが、空気にどこか張りつめたものがあるのを誰もが感じていた。

翌週に控えた練習試合──相手は桜原高校の長年のライバル、高校名は北陵(ほくりょう)、

両校は毎年インターハイ出場をかけてぶつかっている。


桜原高校は昨年、全国ベスト4に入った強豪校だ。

だから今回の試合の意味は大きかった。


 


篠原顧問が手にした紙をゆっくりと広げ、声を張った。


篠原「来週、北陵高校との練習試合が正式に決まった。団体戦のスターティングメンバーを発表する」


長い静寂。部員たちの足音さえ小さくなる。

篠原先生は紙をめくる。


篠原「大将は三年・網切祐介。副将は三年・長谷川。中堅は三年・真田。次鋒は二年・吉田。

そして──先鋒は一年・久我圭人」



その一言で道場がざわついた。



驚き、期待、複雑な感情が入り混じる。

久我は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を引き締め一礼した。


その隣で、三年の坂本が静かに膝を崩し、目に涙を溜めていた。


彼は先鋒候補の一人だった。


網切が静かに寄り、肩に手を置く。


網切「坂本、気落ちするな。お前のことは俺たちがちゃんと見てる」

坂本「すみません……」


しかし坂本の肩は震えたままだった。


誰もが合宿で、稽古で、泣きながらも懸命に稽古してきた。

結果が出るのは一人、二人。だがその陰には必ず誰かの涙がある。


剣哉はその場で、何も言わず突っ立っていた。


剣哉(心の声)「──俺は補欠か。二軍か。中学のときに、あれだけやったのに……」


篠原先生の言葉が耳を通り抜け、遠くのように聞こえた。


剣哉の胸の中に冷たいものが広がる。

息が詰まる。


湊が横で黙っているのを感じたが、

声を出せない。


仲間の歓声や落胆が霞んでいき、剣哉の世界は急に狭くなった。



---


休憩中、桜は道場の隅で剣哉の背中を見ていた。

普段はすましている彼の肩が、いつになく落ちている。

桜はその胸の痛みを見過ごせなかった。


桜(心の声)「前園くん……」


桜は一度水を取りに道を外れ、ふと廊下で夏希とすれ違った。


夏希はチア部のジャージを羽織り、部活の終わりに向けて動いているところだった。


桜「夏希、ちょっといい?」

夏希「ん? どうしたの、桜?」


桜「剣道部で練習試合のメンバーが出たの。前園くん、スタメンから外れちゃって……」

夏希「前園くんが? あの子、中学の時県大会ベスト8でしょ!!練習もあんなに真面目にがんばってたのに!」


桜「ええ。だから余計に辛そうで、声をかけたいのだけど、どう言えばいいか――」


夏希「なるほどね。、、、桜、、、あんたのやり方でいいよ。無理に励ますんじゃなくて、そばにいるだけで十分だって。

先輩として、寄り添ってあげて」


桜「、、より、、そ、う、、、」


夏希の言葉は軽く、でも重みがある。桜は頷いた。


夏希はチア部へ戻って行き、すると日向がストレッチをしていた。


夏希「日向、ちょっといい?」

日向「はい、先輩?」

夏希「桜から聞いたんだけど、剣道部の試合スタメンでさ、前園くんが外されたって。あんた幼なじみよねぇ??」

日向「……剣哉くんが…」


日向の頬が少しだけ強張った。

どこか静かな決意が芽生えたのを夏希は見逃さなかった。


日向「私、少しだけでも様子を見てきます」

夏希「無理しないでね。部活中に行くんじゃないよ、あとで様子見……てってもう走ってるし、、やっぱりあの子…」


日向の足はすでに動き始めていた。

彼女の内側には、剣哉への強い想いがある。

静かでまっすぐなその感情は、行動を促す。


道場に向かって一直線に走った。


---


しかし剣道部はすでに休憩が終わり練習が始まっていた。

日向は道場の外の窓から中を覗いた。

竹刀の音と掛け声が渦巻く。


剣哉の姿を探すが、見当たらない。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


日向(心の声)「剣哉くん、どこにいるの……」


見つけられないまま、日向はそっとチア部へ戻った。

静かな祈りを胸にしまい込むように。



---


練習が終わり、片付けが進む。

道場の光は夕暮れに傾き、影が長く伸びる。


剣哉は黙って荷物をまとめ、誰とも話そうとしなかった。

湊はどう声をかけていいかわからず、網切も一言かけるだけでやめた。


みんな、どう接していいか迷っている。


剣哉(心の声)「努力が足りないのか、運がないのか――どこが違うんだ」


彼は無言のまま道場を出た。

校門にもうすぐたどり着くところで、背後から声がかかった。


桜「前園くん、ちょっといい?」


剣哉は振り返る。

桜が、いつもより少し早足で近づいてきている。

夕陽が彼女の髪を縁取り、瞳は真剣だ。


剣哉「桜先輩……」

気まずそうな剣哉。


桜「話そう。今、立ち止まってるんしょ?」

剣哉「そんなつもりは……」

桜「悔しいよね。でもね、悔しいのは、本気でやってきた証拠。逃げないでいい」


桜の放つ声に剣哉は胸の中の言葉を抑えきれず、声を震わせて言った。


剣哉「違うんです。俺は……努力したはずなんです。中学のときも、全部賭けてやった。

なのに、ここで通用しないなんて。悔しくて、情けなくて、何もかも嫌になりそうで――」


桜は剣哉にまた1歩近づき、剣哉の両手をそっと掴んだ。


その瞬間、剣哉は言葉を続けられず、膝から崩れ落ちる。

地面に膝をつき、まるで小さい子のように、声を大にして泣いた。



桜も膝をつき、何も言わず、


剣哉の頬をつたうように

そっと両手をさしのべた。


そのまま濡れた髪を包むように、


腕を回して自分の胸元に抱きしめる。


桜「泣いていいの。今は全部、出していい」

剣哉「うっ……先、先輩……」

桜(何してんだろ、私……)

(心の中で苦笑しながらも、強く抱きしめる)


剣哉は声を抑えきれずに嗚咽する。

桜の胸の鼓動が伝わり、温かさがじんわりと染みていく。


彼の涙は止まらなかった。


そして、

耳元で、桜が静かに囁く。


桜「前園くん、泣き止んだら、また一緒に立とう。焦らなくていいよ。あなたの剣は、まっすぐで、強いから。

私も、あなたのためにできることを探すから」


その瞬間、剣哉の中の不安、悲しさ、悔しさ、全てのマイナスの気持ちが浄化されていった。


剣哉「……ありがとうございます」


桜は目をつむり、優しい笑顔で剣哉を抱き締めながらそっと剣哉の頭をポンポンと撫でた。

剣哉は驚いて顔を上げ、恥ずかしさと安堵で顔を赤らめた。


桜「あっ、私……何してるんだろう。失礼したわ」


言い終わると、桜はふっと距離を取り、ぎこちない笑みを浮かべる。

剣哉は顔を拭い、ゆっくりと立ち上がる。


まだ顔は腫れぼったいが、どこかすっきりしたようにも見えた。


桜「あ…明日も練習あるんだからね!しっかりしてね!待ってるから。」


剣哉「はい!ありがとうございます。お疲れ様でした。」


剣哉はそのまま帰路に着く。

---


その様子を、少し離れたところから見つめていた日向がいた。


彼女は息を切らせて道場へ走ってきたのだが、

桜に先を越される形になってしまった。


校舎の影から見ていた日向の胸には、言葉にし難い切なさが波打っていた。


日向(心の声)「今……桜先輩が、剣哉くんを……抱し…め…」

日向(心の声)「私が行ったら、前園くんはどう思うんだろう。慰めてあげれたのかな。」


日向はそっと息を整え、視線を落とした。

日向の手が小さく震える。


彼女はまだ高校一年生の少女で、それでも心の中に強い想いを抱えている。

今見た光景は、日向の胸に優しく、しかし鋭く刺さった。



---


夕焼けが徐々に夜へと変わる頃、三人はそれぞれの道へ帰っていった。


剣哉は桜への感謝と、まだ消えない悔しさを胸に抱きながら。


日向は静かにチア部の方へ戻り、夏希に何も言わずただ頷く。

桜は道場に残り、床を拭きながら今日のことを反芻する。


誰かを抱きしめた瞬間の温度と、剣哉の嗚咽が、彼女の胸に残っている。


剣哉(心の声)「守られるだけじゃ駄目だ。次は、俺が誰かを支えられるように──」


桜(心の声)「前園くん、変わり始めてる。私、力になってあげたい。」


日向(心の声)「私も、負けない。剣哉くんのそばにいたいから」


五月の空が茜色に染まる。

小さな事件でもない一日の終わりに、それぞれの胸には新しい決意が灯った。

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