第1話 「新しい春の匂い」

目覚ましの音が鳴るより少し早く、前園剣哉は目を覚ました。

 春の朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、天井の木目を淡く照らしている。

 まだ布団の中のぬくもりを感じながら、彼は深く息を吸った。

 今日は、高校の入学式だ。


 二階の自室の壁には、中学時代の大会の賞状と、

 「全国へ」と書かれた紙が貼ってある。

 その文字は、去年の夏、県大会のベスト8で敗れた夜に書いたものだった。


 次こそ、全国に行く。

 そう心の奥で呟いて、剣哉はベッドから起き上がる。


 階段を下りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。

 母がエプロン姿で弁当を詰めていて、父は新聞をめくっている。

 妹の紗羽は、制服のリボンをつけながらトーストをかじっていた。


母「おはよう、剣哉。今日は早いね」

剣哉「うん。入学式だから」

紗羽「ふーん、高校生かぁ。制服似合うじゃん」

 紗羽がにやりと笑う。


父「おまえもあと一年で中学生だろ。部活、どうするんだ?」

紗羽「うーん、バスケかなぁ。剣道は汗くさいし」

剣哉「こら、剣道に謝れ」

 二人のやり取りに、母が笑う。


母「ま、仲いいのはいいけど、遅れないようにね。せっかくの新しいスタートなんだから」

剣哉「分かってる」


 食卓を片づけ、学生鞄と竹刀袋を肩にかける。

 竹刀袋には、父が高校時代に使っていた古いお守りがついている。

 手に取ると、少しだけ重く感じた。


剣哉「いってきます!」

母「いってらっしゃい!」


 玄関のドアを開けると、春の風がふわりと吹き抜けた。

 少し冷たくて、でもどこか甘い匂いがした。


 制服の胸ポケットに、父からもらった竹刀用の小さな布をしまいながら、剣哉は小さくつぶやいた。

剣哉「ここからだ。日本一、絶対になる」


 その声は、朝の空気の中に溶けていった。


 ――桜原高校の正門には、真新しい制服に身を包んだ新入生たちが集まっていた。

 門の横の立て看板には、「桜原高等学校入学式」と黒々とした文字が書かれている。

 剣哉は足を止めて、その文字を見上げた。

 胸の奥が少しだけ高鳴る。


久我圭人「おい、前園じゃねえか!」


 聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのは――

 中学時代、何度も竹刀を交えたライバル、久我圭人だった。

 短く刈り上げた髪に、いたずらっぽい笑み。

 その雰囲気は変わっていない。


剣哉「おまえもここ受けてたのかよ」

久我圭人「ま、剣道部が強いって聞いたからな。お前とやるのが一番練習になる」

剣哉「……俺の練習についてこれたらだけどな」

久我圭人「おうおう!言ってくれんじゃん」


 二人は笑い合い、肩を軽くぶつけ合った。

 どこか懐かしい感覚が胸を満たす。


 式が始まり、体育館に整列した新入生たちの中で、剣哉は校長の話も耳に入らず、

 ふと壇上の方に目をやった。

 そのとき――視線の先に、ひときわ凛とした空気をまとった上級生の姿があった。


 黒髪を後ろでひとつに束ね、整った姿勢で立つ女子生徒。

 胸元には「剣道部・山口」と書かれた名札。

 他の生徒とは違う、どこか芯の強さを感じる佇まいだった。


 その一瞬だけで、剣哉の中の時間が少し止まった。


(……あの人、剣道部の先輩か)


 その日、剣哉はまだ知らなかった。

 この春の風が、彼の人生の大切な人を運んできたことを――。

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