第33話

アレクシスが「赤き獅子」の傭兵団の来寇という、国家存亡の危機を宣言してから、一夜が明けた。 ヴァルケン領の朝は、これまでにない異様な空気に包まれていた。


五十三人の「古参」の領民たち――ブルックやガレスたち――は、アレクシスの指揮下で数々の奇跡(ジャガイモの収穫、山賊の撃退、魔物の狩猟)を成し遂げた自負と、新たな敵への緊張感を漲らせていた。


対照的に、昨日コービンが連れてきた六十数名の「新しき民」――元奴隷たち――は、館の地下や燃え残った家屋の片隅で、ただ怯えていた。彼らは、昨夜与えられたジャガイモのスープの温かさと、凍えることのない寝床に戸惑いながらも、この地が「戦争」の直前であることを知り、再び絶望の淵にいた。


彼らにとって、領主が変わることは、鞭を振るう主が変わるだけのこと。そして、戦争が始まれば、自分たちのような最下層の者から「盾」として使い潰されるのが、世の常だった。


「全員、広場に集めろ」


朝一番、アレクシスの冷徹な声が響いた。 百十五名となった全領民が、再建途上の広場に集められる。マルクスが率いる「防衛隊」が、その周囲を固めている。


新しき民の一人、ティモという名の大工の男は、痩せた肩を震わせた。 (……始まる。俺たちは、あそこの壁でも掘らされて、敵の矢を受けるための捨て駒にされるんだ……)


だが、アレクシスが最初に下した命令は、彼らの予想を裏切るものだった。


「ガレス殿。彼らに、今日の『契約』を説明しろ」


ガレスが、緊張した面持ちで一歩前に進み出た。 「えー、新しき民の皆さん。領主アレクシス様の布告である! この国では、働く者すべてに『対価』が支払われる!」


ガレスは、麻袋から、無骨な銅貨――いや、ブルンデルが鋳造の際の余り鉄で抜いた、簡易な「鉄札」――を数枚取り出した。


「本日、『鉱山部隊』に配属された者は、日当としてこの鉄札三枚! 『工場』および『農作業』の者は二枚! 『防衛隊』は五枚!」


「……?」 ティモたちは、その言葉の意味が理解できなかった。 「金」を貰える? 奴隷だった自分たちが?


「この鉄札一枚で、今日のジャガイモのスープと、黒パン一食分と交換できる! 働けば、必ず食える! 逆に言えば、働かねば食えない! それが、この国の法だ!」


新しき民たちの間に、激しい動揺が走った。 鞭ではない。恐怖でもない。 「労働」と「対価」という、彼らが人間として生まれてから一度も経験したことのない、あまりにも真っ当な「契約」だった。


アレクシスは、その動揺を冷ややかに見つめていた。 (恐怖で支配された労働力は、生産性が低い。俺が欲しいのは、恐怖に怯える家畜ではない。僅かな報酬のために、自ら進んで効率よく働く『歯車』だ)


「そして」 アレクシスが、静かに口を開いた。 「お前たちの中で、昨日までの『職業』を申告しろ。鍛冶師、大工、石工、革なめし。そういった『技術』を持つ者は、ブルンデル殿の査定を受けろ」


ティモが、恐る恐る手を挙げた。 「……あ、あの……俺は、王都で、家を作る大工でした……」


「よし」 アレクシスは、ティモを指名した。 「お前は、今日から『工場』の銃床班だ。ブルンデル殿の『治具』を扱え。もし、お前の腕が良ければ、日当は鉄札四枚に上げる。……だが、手を抜けば、鉱山送りだ」


「ひっ……! は、はい!」 ティモは、恐怖と、それ以上の「希望」に打ち震えた。 自分の「技術」が、ここでは「価値」として認められる。


「赤き獅子」が来るという恐怖は、目の前の「労働の対価」と「技術への正当な評価」という、もっと現実的な熱狂に飲み込まれていった。 百十五名の領民たちは、恐怖ではなく、「契約」によって、アレクシスという絶対的な経営者の下に、一つの組織として動き始めた。


その日の午後。 集落が、新たな労働力を得て、まるで巨大な工場のように稼働し始める中、アレクシスは地下工房の最奥にいた。


「ブルンデル殿。『筒』の製造は?」 「順調だ」 ブルンデルは、汗も拭わず、ヴァルケン鋼の鋳造を続けていた。新しい労働力が、石炭を休みなく運び込んでくるため、反射炉の火は一度も落ちていない。 「貴様の言う『規格』通りだ。単純な筒だが、俺の魂が許す限りの強度は保証する。すでに十本が完成した」


「素晴らしい。残り四十本、急いでくれ」 アレクシスは、ブルンデルに『地雷』の製造を任せると、自らは、その「起爆装置」の製造に取り掛かっていた。


「……電気、か」 アレクシスは、前世の記憶を探りながら、必要な素材を並べた。 コービンが持ってきた、貴重な『銅板』。 山賊の鎧を溶かして作った『鉄板』(亜鉛の代わりだ)。 そして、集落でジャガイモの保存に使っていた『酢』(電解液だ)。


(ボルタ電池だ。この世界には、まだ存在しない、原始的な『バッテリー』)


アレクシスは、銅板と鉄板を、酢に浸した布を挟みながら、何層にも積み重ねていった。 五十の地雷を同時に起爆させるには、相当な「電圧」が必要だ。


「アレクシス様、何を……?」 手伝いに来ていたガレスが、奇妙な金属の塔を作るアレクシスを、怪訝そうに見つめる。


「静かに。……今、『雷』を作っている」


アレクシスは、塔の両端に、ブルンデルが作ったヴァルケン鋼の『針金』を接続した。 そして、その二本の針金の先端を、火薬の燃えカス(炭素の粉)を塗(まぶ)した木片の上で、慎重に近づけていった。


バチッ!!


小さな、しかし鋭い火花が散った。 火薬の燃えカスが、その火花に引火し、ボッ! と小さな炎を上げた。


「ひっ……!?」 ガレスが、腰を抜かした。 「い、今……何も無い所から、火が……!」


「これが『電気』だ、ガレス殿」 アレクシスは、その小さな成功に、満足げに頷いた。 「火でも、水でもない。鋼の針金の中を駆け巡る、見えない『力』。……そして、これこそが、赤き獅子を葬る、我が国の『雷』となる」


その日から、集落の運営は、二つに分かれた。 地上では、マルクスとブルック、ガレスが、増えた労働力を駆使し、食糧生産、軍事訓練、そして「防壁」の建設に当たった。 地下では、アレクシスとブルンデルが、五十の『鋼鉄の筒』と、それを起爆させるための巨大な『電池』、そして、集落の外まで敷設するための『針金』の製造に没頭した。


新しき民たちは、最初こそ怯えていたが、日に日に「鉄札」という報酬が溜まり、腹一杯のジャガイモが食べられるという「現実」に、次第に生気をT取り戻していった。 彼らにとって、アレクシスは「領主」というより、厳しいが、決して裏切らない「工場長」のような存在になっていた。


そして、運命の日は、唐突に来た。 コービンが来てから、わずか二週間後。 地下工房で、四十九本目の地雷が完成しようとしていた、その時だった。


カン! カン! カン! カン! カン!


見張り台の鐘が、狂ったように打ち鳴らされた。 それは、山賊の時のような、パニックに陥った乱打ではない。 マルクスが定めた、敵の「軍隊」の接近を意味する、規則正しい、冷たい警告の鐘だった。


「……来たか」 アレクシスは、手についた火薬の煤を拭った。


彼が館の屋根に登ると、そこには、すでにマルクスとハンスが待機していた。 ハンスが、震える指で、峠の道を指差す。


「……アレクシス様……ご、ご覧ください……」


灰色山脈の峠道を、真紅の「絨毯」が埋め尽くしていた。 先頭に、統一された深紅の鎧を纏った重装騎兵が十騎。 その後ろに、寸分の乱れもない行軍で続く、槍と盾を装備した歩兵部隊。 その数、目視できるだけでも、二百……三百は下らない。 山賊のような、烏合の衆ではない。 一つの「鋼鉄の生き物」のような、統制の取れた、本物の「軍隊」だった。


「……赤き獅子の傭兵団」 マルクスが、息を呑んだ。


アレクシスは、その軍勢を、冷たい目で見下ろしていた。 「……五十本、間に合わなかったか」


地下工房から、ブルンデルがハンマーを担いで登ってきた。 「アレクシス! 四十九本だ! 五十本目は、今から仕上げる!」


「いや、結構だ、ブルンデル殿」 アレクシスは、迫り来る「死」の絨毯から、目を離さなかった。


「四十九で、十分だ。……奴らを地獄に送るには、な」


アレクシスは、全領民に聞こえるよう、腹の底から叫んだ。 「――全軍、第一種戦闘配置! 『客』のお出迎えだ!」


ヴァルケン領の、最初で最後になるかもしれない、国家防衛戦の火蓋が、今、切って落とされようとしていた。

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