第29話

ヴァルケン領の地下工房で、歴史的な一日が終わりを告げようとしていた。 たった一日で五丁の鉄砲が組み上がる。それは、ブルンデルという天才職人が、アレクシスという異世界の知識と出会い、「職人芸」から「工業生産」へと、その誇りを昇華させた瞬間だった。


だが、アレクシスに祝杯を上げている暇はなかった。 炉を動かし続けるための燃料、石炭。それを確保するためには、あの「黒い沼」の主である、「岩皮の熊(ロックベア)」を排除しなければならない。


「マルクス! ブルック! 『第一猟兵部隊』を編成する! 装備は、その五丁の鉄砲だ!」


翌日の夜明け前。 集落の入り口には、五人の男たちが集結していた。 アレクシス、ブルンデル、マルクス、ブルック。そして、マルクスの部下の中で最も冷静沈着で、弓の扱いに長けていた元兵士、ハンス。 彼ら五人が、ヴァルケン領初の「猟兵」だった。


彼らの装備は、この辺境において異様だった。 背中には、黒光りする鋼鉄の銃身を持つ、最新鋭の鉄砲。 腰には、火薬と弾丸を入れた革袋。 そして、万が一に備え、マルクスとブルックは山賊から奪った盾と、ブルンデルが改良した槍の穂先を装備していた。


「アレクシス様、本当にこの五人だけで?」 ガレスが、不安そうに見送る。 「ああ。大軍で行けば、魔物に警戒されるだけだ。精鋭による、速攻での『狩り』だ」


アレクシスは、馬に乗り、先頭に立った。 「ブルンデル殿、あの魔物の弱点は?」 道中、アレクシスは、ドワーフの里で得た知識を持つブルンデルに尋ねた。


ブルンデルは、自分の鉄砲を愛でるように手入れしながら答えた。 「岩皮の熊(ロックベア)は、ドワーフの伝承にも出てくる。奴の毛皮は、岩石の成分とケラチンが混じり合った、天然の『複合装甲』だ。生半可な剣や矢は、弾き返される」


「前回の爆発でも、怯んだだけだった」 アレクシスが、苦い記憶を辿る。


「だが、装甲が厚い生物ほど、弱点は明確だ」とブルンデルは続けた。「関節の継ぎ目。そして、熱を排出するための『口内』と、感覚器官である『目』だ」


「狙うは、そこか」


数日間の行軍の末、彼らは再び「黒い沼」にたどり着いた。 沼の周囲は、不気味な静寂に包まれている。石炭の鉱床が、黒い宝石のように地表に覗いていた。


「ハンス、斥候を。ブルックとマルクスは、俺たちの退路を確保しろ」 アレクシスの指示が飛ぶ。


五人は、慎重に銃を構え、沼のほとりへと進んだ。 その時だった。


「グルルルル……」


地響きのような唸り声と共に、森の奥から、あの巨体が姿を現した。 岩皮の熊(ロックベア)。 前回の爆発で負った火傷の痕が、その凶暴性をさらに際立たせていた。 奴は、自分の縄張りを再び侵した侵入者たちを認め、怒りに目を赤く染めた。


「キィィィィアアア!!」


魔物は、咆哮と共に突進してきた。 その速度は、巨体からは想像もつかないほど速い。


「構え!」 アレクシスが叫んだ。 「狙いは、奴の胴体! 威嚇し、足を止める!」


五人は、一列に並び、鉄砲を構えた。 突進してくる魔物に向かって、引き金を引く。


パン! パン! パン! パン! パン!


五発の銃声が、山脈にこだました。 それは、ヴァルケン領という新たな国家が産声を上げた、「鋼鉄の洗礼」だった。


五発の弾丸は、寸分の違いなく、突進してくるロックベアの胸部と肩に叩き込まれた。


ガギン! 火花が散った。


鉄の弾丸は、岩の毛皮に阻まれ、貫通しなかった。


「なっ……!?」 ブルックが、息を呑んだ。


だが、アレクシスの狙い通りだった。 弾丸は貫通しなかったが、凄まじい運動エネルギー(運動量)が、魔物の突進の勢いを殺した。 ロックベアは、未知の衝撃と轟音に、怯えたように数歩後ろへ下がり、足を止めた。


「今だ! マルクス、ブルック! 盾を構えろ! 奴の注意を引け!」 アレクシスが、次の指示を叫ぶ。


マルクスとブルックは、鉄砲を背負うと、槍と盾を構えて魔物の前面に立った。 「こっちだ、化け物!」


「ハンス、ブルンデル、俺と共に再装填! 急げ!」


アレクシスの手が、震える。 火薬を砲口から流し込み、弾を詰め、槊杖(さくじょう)で突き固める。 この数秒が、生死を分ける。


「グルアアアア!」 ロックベアは、足を止められたことへの怒りで、マルクスとブルックに襲いかかった。 「防げ!」 マルクスが、盾で魔物の爪を受け止める。 凄まじい衝撃に、山賊から奪った鉄の盾が、メリメリと音を立てて歪んだ。


「まだか、アレクシス様!」 ブルックが、槍で魔物の脇腹を突くが、やはり刃が立たない。


「ブルンデル! 狙いは目だ! ハンスは口内!」 アレクシスが、装填を完了させた。


ブルンデルは、冷静だった。 彼は、ドワーフの狩人としての血が騒ぐのを感じていた。 「アレクシス。奴が、次に咆哮する。その瞬間だ」


マルクスとブルックが、必死に時間を稼ぐ。 ロックベアは、小さな盾と槍で抵抗する二匹の獲物に、最大の怒りを込めて、立ち上がった。


「キィィィィアアアア!!」


天に向かって、勝利の(あるいは威嚇の)咆哮を上げる。 その瞬間、すべてを晒け出した、弱点である「口内」と、天を仰いだ「目」。


「――今!」


パン! パン! パン!


三発の銃声が、同時に響いた。 ブルンデルが放った一発は、正確に魔物の右目を貫いた。 ハンスが放った一発は、開かれた口の中、喉の奥へと吸い込まれていった。 そして、アレクシスが放った一発は、左目を捉えた。


「――――ッ!?」


ロックベアの咆哮が、苦痛の悲鳴に変わった。 両目と喉という、最大の急所を同時に破壊された魔物は、その巨体を痙攣させた。


マルクスとブルックが、慌てて後方へ飛び退く。


ズウウウウン……!


巨体が、地響きを立てて倒れ伏した。 ピクピクと足を震わせていたが、やがて、それも動かなくなった。


「……」 「……」


静寂が、黒い沼を支配した。 五人は、肩で息をしながら、自分たちが成し遂げたことの重大さに、言葉を失っていた。


「……や、やった」 ブルックが、腰を抜かして、その場にへたり込んだ。 「……鉄砲が、あの化け物を、殺した……」


マルクスも、歪んだ盾を捨て、震える手で汗を拭った。 「信じられん……。王国の騎士団でも、中隊が壊滅するレベルの魔物だぞ……」


「いや」 ブルンデルが、まだ硝煙のくすぶる銃口を見つめていた。 「鉄砲が殺したのではない。我々の『戦術』が殺したのだ」


彼は、アレクシスを見た。 「最初の斉射で足を止め、盾で時間を稼ぎ、再装填の後、確実に弱点を突く。……アレクシス、貴様は、この武器の使い方を、初めから理解していたな」


アレクシスは、静かに頷いた。 「これが、我が国の『軍隊』の基本戦術になる」


彼は、倒れたロックベアに近づき、その岩のような毛皮に触れた。 「これで、『燃料』も『素材』も、両方手に入った」


アレクシスは、集落の方向を見据えた。 「ブルック、マルクス! この魔物を解体し、石炭と共に持ち帰るぞ!」


ヴァルケン領は、ついに、産業革命の心臓部である「石炭」という血液と、それを守るための「鋼鉄の牙」を手に入れた。 だが、この勝利の轟音は、まだ彼らしか知らない。 この静かな辺境が、やがて大陸の歴史を揺るるがす「工場」となることを、王都の貴族たちは、まだ知る由もなかった。

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