第19話
「――撃て! 撃ちまくれ!」
峠の中腹、安全な距離からヴァーグの野太い号令が飛んだ。 次の瞬間、ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、と空気を切り裂く不気味な音が連続し、十数本の火矢が黒い軌跡を描いて、半月(はんつき)の夜空を焦がしながら集落へと降り注いだ。
その火矢は、この日のために乾燥させておいた木材で組み上げたばかりの逆茂木や、ボロボロだった家々の壁に突き刺さり、最高の焚き付けとなった。
ボッ! 「ぎゃあっ! 私たちの家に火が!」
一軒、また一軒と、貧しい家屋が乾いた音を立てて炎に包まれていく。 この半月、領民たちが必死の思いで修繕し、「我が家」と呼び始めたばかりの生活の拠点が、あっという間に地獄の業火に変わっていく。 ガレスが必死に消火の指示を出すが、水路から引いたばかりの水では、勢いを増した炎の前には焼け石に水だった。
「ハハハ! 燃えろ! 燃えろ! どうした小僧! あの時の威勢はどうした!」 ヴァーグの高笑いが、炎の爆ぜる音に混じって響き渡る。 「熱湯だと? 湯を沸かす薪(まき)も、今や貴様らの家を焼く火種だ! あの火花もハッタリだったと見抜いているぞ!」
第二波、第三波の火矢が、今度は集落の中心、アレクシスたちが立てこもる館に向かって放たれた。 屋根の上に積み上げたばかりの胸壁が、そのいくつかを防ぐ。 だが、防ぎきれなかった矢が、館の外壁や、備蓄していた薪の山に突き刺さり、黒い煙を上げ始めた。
「アレクシス様! このままでは……館が火の海になります!」 ブルックが、屋根の下から、焦りと恐怖が入り混じった声で叫んだ。
キィン、とアレクシスの耳の奥で、甲高い耳鳴りがした。 全身の血が沸騰し、心臓が肋骨を叩き割らんばかりに鼓動している。 熱い。 燃え盛る家々の熱が、爆風のように屋根の上まで吹き上げてくる。 自分の髪が、熱風でチリチリと焦げる匂いさえした。
だが、アレクシスの頭脳は、その熱とは裏腹に、氷のように冷え切っていた。
(まだだ)
彼は、不格好な「木砲」の砲身にそっと触れた。 木の表面に巻かれた革紐と粘土が、不気味な存在感を放っている。 射程が、わからない。 威力が、どれほどのものか、わからない。 何より、確実に「一発しかもたない」ことだけは、わかっている。 この一撃で、ヴァーグの本隊、その戦意の中核を粉砕しなければ、負けだ。
(まだ、遠い。あの距離では、散弾の威力が拡散しすぎる)
彼は、燃え盛る自分の領地を、冷徹な目で見下ろした。 家か。領民の命か。 家は、また建て直せる。 だが、ここでヴァーグの首を獲り損なえば、すべてを失う。 彼は、己が「悪役貴族」であることを、この瞬ほど強く意識したことはなかった。 勝利のためなら、非情になれる。
「どうした、悪魔の小僧! もう手は無いのか!」 ヴァーグは、アレクシスが館の屋根の上で動かないのを見て、勝利を確信しつつあった。 彼は、燃え盛る集落を指差し、全軍に向かって戦斧を振り上げた。
「よし! 火に怯えたネズミどもを狩るぞ! 歩兵、前へ! あの館に突入し、皆殺しにしろ!」
「「「オオオォォ!!」」」
火矢を放っていた弓兵が下がり、剣と盾を持った山賊の第二波――歩兵部隊――が、ヴァーグの本隊の脇を抜けて、燃え盛る集落の入り口へと殺到し始めた。 彼らは、燃え盛る逆茂木を力任に引き抜き、マルクスたちが守る最後の防衛線へと迫る。 ヴァーグ自身も、彼らを督戦するため、本隊の馬を数メートル前に進めた。 それは、弓矢の射程からは外れているが、戦場全体を見渡せる、指揮官として完璧な位置取りだった。
だが、彼が知る「武器」の中では、完璧だったというだけだ。
(――今だ!!)
アレクシスは、血の気の引いた顔で隣に控えていた男に叫んだ。 その男は、ブルックの部下で、この役目のために自ら志願した、一番の古株だった。 彼は、恐怖でガチガチに震える手で、燃え盛る松明を握りしめていた。
「――撃てェ!!」
アレクシスの絶叫が、燃え盛る集落に響き渡った。 男は、「うおお!」と意味のわからない雄叫びを上げながら、その松明を、木砲の砲尾に開けられた小さな「導火口」へと突っ込んだ。 ゴブリンの脂を吸った導火線の紐が、ジュウウウ! と音を立て、一瞬で火を砲身の奥へと送り込んだ。
一瞬の、静寂。
世界から音が消えた。 突撃する山賊の雄叫びも、家々が燃え盛る音も、ヴァーグの高笑いも、全てが止まった。 いや、人間の鼓膜が認識できる限界を、たった一点の爆発が突破したのだ。
――BOOOOOOOM!!!
天が裂け、地が揺れたかのような、凄まじい轟音。 それは、もはや音ではなく、腹の底を揺さぶる純粋な「暴力」そのものだった。 谷全体が、まるで巨大な鐘のように共鳴し、山々にこだました。
「木砲」は、その悪魔的な威力に耐えきれなかった。 革紐と粘土の拘束が、内側からの圧力に一瞬で引き千切られ、土台となっていた樫の木の砲身そのものが、轟音と共に爆発四散した。
「ぐっ……! がはっ!」 屋根の上にいたアレクシスと二人の男たちは、凄まじい爆風と反動で、背後の胸壁に叩きつけられた。 焼け付くような熱風と、無数の木片のシャワーが彼らを襲う。 アレクシスは、一瞬だけ意識が飛び、耳からは何も聞こえなくなった。 目と鼻を刺す、強烈な硫黄の匂い。 目を開けると、視界は火薬の燃えカスと硝煙で、白く染まっていた。
(……失敗したか!?)
一瞬、最悪のシナリオが脳裏を過った。 だが、その代償として放たれた「力」は、アレクシスの計算すら超えて、絶対的な結果をもたらしていた。
砲身が砕けるよりもコンマ一秒早く、砲口から撃ち出されたもの。 それは、石ころ、折れた剣先、鉄クズを麻袋に詰め込んだ、原始的な「散弾」だった。
音速近く加速された「死の壁」は、火矢を放ち、今まさに突撃を命じようとしていた山賊団の「中心部」、ヴァーグが陣取る本隊に、真正面から叩き込まれた。
「「「―――――?」」」
何が起きたのかを、誰も理解できなかった。 ヴァーグの精鋭たちが並んでいたはずの空間が、一瞬にして「赤い霧」へと変貌した。
馬ごと、革鎧ごと、人体が文字通り引き裂かれる。 先頭にいた数騎は、肉片と化し、後方にいた者たちも、鎧を貫通した無数の破片を浴び、声を上げる間もなく馬から崩れ落ちた。 突撃しようとしていた歩兵部隊も、その衝撃波と、背後から飛んできた仲間の肉片を浴び、完全に足を止めた。
首領のヴァーグ。 彼の乗っていた屈強な軍馬の首から上が、消し飛んだ。 ヴァーグ自身も、馬の血反吐と仲間の肉片を浴び、馬の死骸と共に地面に叩きつけられた。
「……」 「……あ」
後方で火矢を射ていた山賊たちが、凍りついた。 戦の鬨の声も、燃え盛る家々の音も、すべてが消し飛んだ。 彼らの目の前にあるのは、最強の仲間たちがいたはずの場所に広がる、「地獄」としか呼びようのない光景だった。 そこは、肉屋の作業場のように、血と肉片が撒き散らされた空間と化していた。
「……ま、魔法だ」 誰かが、震える声で呟いた。 「……悪魔だ。あいつは、悪魔と契約してやがる」
前回の「熱湯」や「爆炎」は、まだ「恐怖」の範疇だった。 だが、今のは「理解」を超えている。 人間の技ではない。天変地異だ。 神の怒りか、悪魔の嘲笑か。 彼らの貧弱な信仰心では、目の前の現象を、それ以外の言葉で説明できなかった。
「……う、ぐ……!」 地面を這っていたヴァーグが、奇跡的に生きていた。 だが、彼は左腕を失っていた。肩から先が、無残に引き千切られ、そこから血が噴水のように溢れ出ている。 彼は、失われた自分の腕と、馬だったものの残骸と、肉片と化した部下たちを、焦点の合わない目で見回した。
そして、顔を上げた。 彼は、燃え盛る館の屋根の上で、硝煙の中からゆっくりと立ち上がる人影を見た。 爆風に煤け、髪を振り乱しながらも、自分を見下ろしているアレクシスの、氷のように冷たい目と視線が合った。 ヴァーグの目に、初めて「死」への純粋な恐怖が浮かんだ。
「……ひ、退け! 退けェ! 撤退だ! 帰るぞォォ!!」
ヴァーグが、裏返った声で絶叫した。 鉄の規律を誇った「灰色狼」は、もはや存在しなかった。 統率の取れた「撤退」ではない。 我先にと馬首を返し、仲間を踏みつけ、武器も負傷者も放り出して逃げていく、ただの「敗残兵」の群れだった。 突撃しようとしていた歩兵たちも、燃え盛る集落に背を向け、我先にと峠道へと逃げ帰っていく。
嵐のような轟音が去った戦場には、動かなくなった二十数体の山賊と、まだあちからこちらでパチパチと音を立てて燃え続ける、集落の家々だけが残された。
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