第5話

灰色山脈の峠から坂道を下り、俺はついに「領都」――と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい集落の入り口にたどり着いた。 入り口には、辛うじて「門」としての体裁を保っている、腐りかけた木製の柵があるだけだ。 その脇で、痩せた老人が一人、まるで枯れ木のように座り込んでいた。


俺が馬を引いて近づくと、老人はゆっくりと顔を上げた。 その目は、長く続いた絶望によって光を失い、どんよりと濁っている。 老人は俺の姿――乗馬用とはいえ上質な服、腰の剣、そして何より「馬」を連れていること――を認めると、かすれた声で言った。


「……旅人か。悪いが、見当違いだ」 老人はゆっくりと立ち上がる。その手には、先端を尖らせただけの粗末な木の槍が握られていた。見張りだったらしい。 「ここには宿もねえ。売る食い物も、水もねえ。……とっとと他所へ行ってくれ。ここに関わると、ろくなことにならん」


その声に反応して、ボロボロの家々の物陰から、何人かの領民が顔を覗かせた。 子供、女、そして働けるはずの男たち。 誰もが、あの老人と同じ目をしていた。痩せこけ、生気がなく、見慣れないよそ者(俺)に対して、隠しようのない「警戒」と「諦め」を向けている。


彼らにとって、馬を連れた身なりのいい男など、「搾取者」か、あるいは「厄介事を持ち込む者」でしかないのだ。 ここで「領主だ」と名乗ればどうなるか。 想像に難くない。


だが、いつまでもこうしてはいられない。 俺は威圧しないよう、馬から一歩離れ、両手を軽く上げて見せた。


「あんたの言う通り、旅人みたいなものだ。だが、他所へは行けない。俺はここに『住む』ことになった」 「……は? 住むだと?」 老人が眉をひそめる。 「こんな死にぞこないの集落にか? あんた、物好きにもほどがあるぞ」


「物好きで来たわけじゃない」 俺は息を吸い込み、はっきりと告げた。 「俺はアレクシス・フォン・ヴァルケン。ヴァルケン公爵家から勘当され、この土地へ追放された。……今日から、ここの領主だ」


その言葉が放たれた瞬間、集落の空気が凍りついた。 「諦め」に満ちていた領民たちの目に、明確な「敵意」と「憎悪」の火が宿る。


「りょうしゅ……だと!?」 「またか!」「今度は何を取り立てに来たんだ!」 「ふざけるな! もう何も残ってねえぞ!」


物陰から見ていた男たちが、錆びたクワやカマを手に、じりじりと前に出てくる。 完全に包囲され、敵意のど真ん中にいる。 もし俺が、ここで少しでも「貴族様」然とした態度を取れば、次の瞬間には石を投げつけられてもおかしくない。


「落ち着け」 俺は冷静に声を張った。 「あんたたちの気持ちはわかる。だが、話を聞け」


「黙れ!」と、ひときわ体格のいい(それでも痩せているが)男が怒鳴った。 「貴族の言うことなんざ、もう聞き飽きた! 前の代官も『領主様のためだ』と言って、俺たちの冬越しの豆まで全部持っていきやがった! あんたも同じなんだろ!」


(前の代官? なるほど、公爵家は俺が来るまで、搾取するためだけの役人を置いていたわけか)


状況は最悪だ。 俺は、彼らが積み重ねてきた憎悪の「最後の受け皿」にされている。


「お貴族様よ」 最初に声をかけてきた老人が、槍の穂先を(震える手で)俺に向けてきた。 「あんたが追放されようが勘当されようが、俺たちには関係ねえ。だが、ここにはもう何もありゃしねえんだ」


老人は、自嘲気味に笑った。 「畑は石ころだらけで、黒パン用の麦すらまともに育たねえ。森に入ればゴブリンに殺される。西の川は、この時期になると水が涸れやがる。蓄えは、とっくにあの代官様に持っていかれた」


彼は、集落の奥にある、小さな墓標が並んだ一角をアゴでしゃくった。 「病気になっても薬もねえ。俺たちは、ただここで……次の冬を越せずに、あそこに並ぶのを待ってるだけだ」 「……」 「こんな地獄に、あんたは何をしに来た? 俺たちにとどめを刺しに来たのか?」


絶望的な状況報告。 だが、俺の心は妙に冷静だった。 (石ころだらけの畑=土壌改良の余地あり。森にゴブリン=防衛と、魔物素材の可能性。川の水が涸れる=治水・ダムの必要性。病気=衛生環境の改善)


全部、「課題」だ。 そして、そのすべてに、俺の「知識」が使える。


俺はゆっくりと背嚢を肩から下ろし、地面に置いた。 領民たちが「武器か!?」と身構える。 俺は彼らの前で、背嚢の口を開き、中から二つのものを取り出した。


一つは、道中で購入した、岩塩の小さな塊。 もう一つは、これもなけなしの金で買った、干し肉の束だ。


俺はそれを、老人の前に差し出した。


「……なんだ、こりゃ。施しか? 同情か?」 老人が、侮辱されたかのように顔を歪める。


「違う」 俺は首を横に振った。 「『情報料』だ」


「……じょうほう、りょう?」 領民たちが、ぽかんとした顔で互いを見合わせる。


「そうだ。俺は王都から追放されて、ここに捨てられた。公爵家は俺を勘当した。つまり、俺にはもう帰る場所も、頼る家もない」 俺は包囲する領民たち一人ひとりの目を見据えて言った。 「あんたたちの言う通り、俺はもう貴族じゃない。ただのアレクシスだ。そして、この土地のことは何も知らない。その点では、あんたたちよりよほど無力だ」


俺は再び、塩と干し肉を老人に突きつけた。 「だから、教えろ。この土地のすべてをだ」 「……!」 「さっき言ったこと――食い物、水、魔物、病気。それから、ここに何人住んでいて、何ができて、何が足りないのか。全部だ」


俺は、ニヤリと笑ってみせた。悪役貴族の仮面ではなく、前世のブラック企業でタフな交渉をこなしてきた時の、不敵な笑みだ。


「俺は、あんたたちを搾取しに来たんじゃない。俺が『生きる』ために来たんだ。俺はここで死ぬつもりは毛頭ない。……そして、俺が生きるためには、この土地が今よりマシになる必要がある。結果として、あんたたちが死なずに済むなら、それはそれで結構なことだ」


「……」 老人は、俺の顔と、目の前の塩と肉を、何度も見比べた。 彼の濁った目に、久しぶりに「思考」の色が戻ってくる。


「……あんた、本気で言ってるのか」 「本気だ。この塩と肉は、そのための手付金だ。情報(それ)に見合う価値があると思えば受け取れ。その代わり、隠し事なしで全部話してもらう」


集落に、重い沈黙が落ちた。 風の音だけが、荒涼とした大地を吹き抜けていく。


やがて、老人は深く、深いため息をつくと、震える手で、俺が差し出した塩の塊を掴んだ。 「……塩だ。本物の、塩だ……」 彼の目から、乾ききったはずの涙が一筋こぼれた。


「わかった」 老人はクワやカマを持った男たちに「……お前ら、しまえ。このお方は、今までの連中とは違うかもしれん」と手で制した。 「立ち話もなんだ。こっちへ来い。……あそこが、領主様の館(だった場所)だ」


老人が指差したのは、集落の中央にある、石造りの二階建ての建物だった。 ボロボロなのは他と変わらないが、かろうじて原型を留めている。


「この村のこと、この土地のこと、すべて話してやる。……もっとも、聞いたら最後、あんたも絶望して逃げ出したくなるだろうがな」 「結構だ。絶望には慣れている」


俺は背嚢を再び担ぎ、領民たちが開けた道を抜け、老人に続いて歩き出した。 背中に突き刺さる視線は、もはや純粋な「憎悪」ではなく、「戸惑い」と、ほんのわずかな「何だコイツは」という「好奇心」に変わっていた。


悪役貴族の領地経営は、まず領民とのハードな「情報交渉」から始まる。 上等だ。すべて聞き出して、すべて解決してやる。 俺が快適なスローライフ(という名の開拓生活)を送るために。

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