第2話

パーティー会場の重い扉を閉ざした俺は、そのまま王立学園の廊下を迷いなく進んだ。 背後で再び音楽が始まったようだが、もう知ったことではない。今この瞬間の俺ほど、晴れやかな気分の卒業生はいないだろう。


(さて、まずは荷造りだ)


この学園には公爵家の子息として割り当てられた、貴族寮の豪奢な一室がある。 だが、俺がそこから持っていくべきものは、驚くほど少なかった。


「これは不要。これもいらん。これもだ」


壁一面の書棚に並ぶのは、『王政論』『貴族の系譜』『古代魔術の系譜』といった、権力闘争と自己顕示欲を満たすためだけの本ばかり。こんなものは辺境では何の役にも立たない。 クローゼットに詰まった、金糸銀糸で刺繍された式典用の礼服や、肌触りだけを追求したシルクのシャツも同様だ。これでは畑仕事ひとつできやしない。


俺は大きな革の背嚢(バックパック)をベッドに放り投げると、実用的なものだけを選んで詰め込み始めた。


まず、寮の制服ではなく、乗馬の授業で使っていた丈夫な革のブーツと、厚手のズボン、そして麻の簡素なチュニックを数枚。 次に、暖を取るための上質なウール毛布。これはありがたい。辺境の冬は厳しいだろう。 それから、白紙のノート数冊と、インク、そして予備のペン先。俺の頭の中にある「知識」こそが最大のチートだが、それを整理し、他人に指示を出すためには記録が必要だ。 最後に、本棚の隅に埃をかぶっていた一冊の本を抜き取り、背嚢にねじ込んだ。


『王国全土地図鑑』。


貴族としては基本的な教養だが、今や俺にとって最も価値のある本だった。 ヴァルケン領の地形、気候、そして周辺の森や山に関する(おそらくは古いが)情報が載っているはずだ。


「よし、こんなものか」


金目の物? 宝飾品? そんなものは一切持っていかない。 下手に持っていけば、道中で盗賊に狙われるリスクが上がるだけだ。それに、そんなもので領民の腹は膨れない。 必要なのは、当座の「金」だ。


そう考えていた矢先、部屋の扉が乱暴にノックされた。


「入れ」 「……失礼いたします」


入ってきたのは、学園の寮監と、実家であるヴァルケン公爵家で執事長を務める男だった。 執事長は、俺のことを幼い頃から「感情のない人形のようだ」と公然と嫌っていた、父親の忠実な僕(しもべ)だ。 彼は、いかにも汚物を見るかのような目で俺を一瞥し、一枚の羊皮紙を突きつけてきた。


「公爵様からだ。……いや、今は『アレクシス殿』とお呼びすべきか」


その声には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいる。


「公爵閣下より、貴殿への勘当が正式に通達された。これ以降、ヴァルケン公爵家の名を名乗ることは許されん」


(おお、仕事が早い! 素晴らしい!)


俺が内心で拍手喝采を送っていると、執事長はさらに忌々しそうに眉をひそめ、小さな革袋を床に放り投げた。 チャリン、と硬貨がぶつかる乾いた音が響く。


「……閣下、並びに王家からの『最後のご慈悲』だ。その金で、王都から立ち去るための最低限の準備を整えろ、とのこと」 「ほう」 「馬は、西門の外にある厩舎に一頭、手配してある。……最も安価な雑種だがな。それと、護衛として兵士一名が、王都の境界まで『監視』として同行する」


まるでゴミを処理するかのような事務的な口調。 そして彼は、決定的な一言を口にした。


「明朝、日の出までに王都から立ち去れ。もしそれ以降も王都に滞在しているのを発見した場合、即刻『不敬罪』で拘束し、処刑する。……よろしいかな?」


「ああ、よくわかった」


俺はあっさりと頷き、床に落ちた革袋を拾い上げた。 ずしり、とした重み。金貨ではなく、銀貨と銅貨が数十枚といったところか。だが、無一文より遥かにいい。これで道中の食料と、現地での当座の道具は買える。


「ご苦労だった。公爵閣下には、ご配慮痛み入るとお伝え願おう」 「なっ……貴様、自分がどういう立場か……!」


俺が予想外にも晴れやかな、いや、むしろ嬉しそうな顔で礼を言ったものだから、執事長は完全に面食らっていた。 彼としては、俺が泣き崩れるか、逆上するか、あるいは土下座して許しを乞う姿を期待していたのだろう。


「立場? よくわかっているさ。俺は『追放者』だ」 俺は背嚢を肩に担ぎ、部屋の隅に立てかけてあった、これも乗馬用の簡素な剣だけを腰に差した。


「執事長殿」 「……なんだ」 「明朝の日の出まで、か。悪いが、そんなに待つつもりはない」 「何?」 「今すぐ出ていく。ここにはもう、何の未練もないのでな」


俺は目を丸くする執事長と寮監を置き去りにして、学園の寮室を後にした。 もう夜も更けていたが、パーティーの喧騒はまだ続いている。誰も俺のことなど気にも留めない。


西門までは、人気のない裏通りを選んで歩いた。 指定された厩舎には、案の定、みすぼらしい栗毛の馬が一頭だけ繋がれていた。そして、あからさまに不機嫌そうな顔をした兵士が一人、壁に寄りかかって待っていた。


「……お前がアレクシスか。チッ、とんだ貧乏くじだ」 兵士は悪態をつきながら、自分の馬に跨る。 俺も無言で栗毛の馬に跨った。乗り心地は最悪だが、文句はない。歩くよりはマシだ。


「さっさと行くぞ。国境までお前を送り届けるのが俺の仕事だ。途中で逃げようとしたら……斬る」 「ああ、頼む。最短距離で頼む」 「……妙に素直だな。まあいい」


ギィィ、と重い音を立てて、夜間通用口である西門が開かれた。 兵士が先に馬を進め、俺もそれに続く。


門をくぐり抜けた瞬間、王都を包んでいた喧騒が嘘のように遠ざかった。 振り返る。 高くそびえる王都の城壁。その向こうには、王城や貴族街の明かりが、まるで夜空に浮かぶ偽物の星のように輝いている。


(さようなら、息苦しいだけの黄金の鳥かご)


俺は一切の未練も感慨もなく、すぐに前を向いた。 北へと続く、暗い街道。 冷たい夜風が頬を撫でる。 道中、あの兵士にどう思われようと構うものか。


俺は、前世の記憶からお気に入りの曲を引っ張り出し、小さく口笛を吹き始めた。 辺境でのスローライフを思い浮かべながら。


兵士が「気味が悪い奴だ」と呟いたのが聞こえたが、俺の知ったことではなかった。 自由への道は、今、確かに開かれたのだ。

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