「溢れ出す影」
人一
「溢れ出す影」
その日は唐突に訪れた。
友達と遊んだ帰り、家の雰囲気がやけに変だった。
ひしひしと感じる嫌な予感を横目に、扉を開くとそこは地獄だった。
家族みんな血の海に沈んでいた。
お父さんお母さんお兄ちゃんに愛犬までも全て。
誰に恨まれることもなく静かに生きていたのに。
当時の記憶は忘れたくても忘れることができない。
頭にこびりついて私を離してくれない。
ただ、理由が知りたかった。
でも、終ぞ知りえなかった。
警察の方達は決して怠ることなく、全霊で捜査をしてくださった。
それでも犯人を捕まえることができなかった。
無念と言えば早いが、私が抜け殻になるのに十分すぎる理由だった。
何度も何度も死のうと思った。
みんなの後を追おうと考えた。
でも勇気がなかった。
それ以上に、罰を与えるべき相手がのうのうと生きているのが許せなかった。
人の力ではもうどうしようもない。
最後に残るのは神頼み、それしかもうなかった。
「神様。どうか家族みんなを殺した人間に罰を与えてください。
己が犯した罪を自覚させ、その魂を食いちぎってください。」
街中にある年寄りの集会所と化してる、神社で誰ともいえぬ相手に祈った。
心の中で、強く強く願いが叶うように強く祈った。
――こんなこと神様に頼むべきじゃない。
よく理解しているが頼らざるを得ない。
鳥居を出る前、本殿に向き直りもう一度頭を深く下げて立ち去った。
男は漫画家のアシスタントをしていた。
とりわけ有能でも無能でもない、どこにでもいる平凡な男。
それがこの男に対する周囲の評価だった。
――ガタン
「うわっ!」
「おい!なにインク倒してんだ!」
「すんません!すぐに手ぇ洗ってきます!」
「はぁ~やっちまったよ……早く落とさないと。」
――ゴシゴシ、ゴシゴシ
「いや、全然落ちねーな……」
男はそれでも、手を洗い続けた。
「ほんとなんだこれ?どんだけ洗っても落ちねーじゃねーか……」
「おい!なにやってんだ!手ぇ洗うのにどんだけ時間かけてんだ!」
「すんません!すぐに行きますんで!
……やばいやばい早くしないと。」
男の手から流れ落ちるその水は、じわじわとその色を変えていた。
墨の黒色から……鈍い血のような赤色に。
「おい、なんだこれ……血か?
どこか……切ってるわけでもないし、水道も普通か。」
男は水を止め水滴を払って、その手を見た。
インクで汚れていたはずの手は、大怪我したかのように赤色の液体がべったりと付いていた。
――さっきはインクを零した。
それは覚えている。
――手は見た感じどこも切り傷ひとつ無い。
刃物には長い間触っていない。
――じゃあどうして?
それは俺が……
頭をよぎる考えを振り払い、ブラシを手に取り強くゴシゴシと磨く。
肌を削り落とす思いで擦ったが、なおも手からすり抜ける水は赤いままだった。
「くそっ……なんだこの役立たずのボロブラシが!」
床に叩きつけるように捨てた。
ふと周りを見ると、ひどい光景だった。
乱暴に洗ったせいで、洗面所の壁や床に水滴が飛び散っている。
水道も出しっぱなしで、今にも溢れそうになっている。
「なんでだ……どうしてだ……なんでこの汚れは落ちないんだ。」
水栓なんてしていないのに何かが詰まってるかのように、流れないままでいる。
男は1歩後退りした。
とめどない水が洗面台の縁を乗り越え溢れ出した。
その時――
男の中で、何かがプツンと切れた。
「う、う……うわぁぁぁぁぁぁあああ!!」
「おい!どうした!って、おいどこ行くんだ!」
男は脇目も振らず走って、洗面所から家から逃げ出した。
手から滴り落ちる赤色もよそに、今はただ異常な洗面所から逃げたかったのだ。
男は逃げ出した行く先々で、手を何度も洗った。
ふやけて指先がボロボロになるが、赤色の水が消えることは無い。
公園、公衆トイレ、コンビニ、スーパー、至る所で。
「なんだよこの汚れはよ……過去の報いとでも言うのかよ!
もうこっちは足を洗って、真っ当に生きてるってのによ!」
手を洗いながら虚空に叫ぶが、返事はない。
状況も変わらない。
ただ汚す洗面所だけが変わっていく。
溢れ続ける水を止めることができない。
どうしようもできなくなり、その場にへたり込み顔を覆う。
こんなことになった理由に心あたりがある気がするし、全く思い当たる節がない気もしている。
自然と涙が零れるが、手から滴り落ちる赤色に混ざる。
――どれくらい時間が経っただろうか。
男はその意識をすでに手放していた。
私は日課のお参りに向かうと、いつもの神社が赤色灯で赤く照らされていた。
峙つ警官、厳重な規制線、覆い隠すブルーシートが目に入る。
……なにかあったんだろうか。
「あの……すみません。ここでなにかあったんですか?」
「あら、あなた知らないの?
なんでも……この神社のお賽銭箱の上に、男の死体が放置されてたってのよ。」
「死体……ですか?」
「そう。しかもただの死体じゃないわ。
もう考えられないくらいに、干からびてたみたいなのよ。
昨日までは普通だったのに、急に怖いわよね~」
「そうなんですか……ありがとうございます。」
野次馬のおばさんに話を聞いた時。
なぜか胸がすくような感じがした。
死んでしまった相手は、どこの誰かも知らないというのに。
日課は死ぬまでやめないと誓った。
それでも今日は、もういい気がする。
隠された本殿に向き直り、私は深く頭を下げた。
――神様ありがとうございます。
勘違いかも知れませんが、お礼を言うべきだと感じました。
心の中で確かにお礼を言って……
私は立ち去った。
明日も明後日もその先も。
私はお参りを続ける。
いつか罰が与えられる日まで。
気づかぬままお礼参りになっていてもいい。
私はお参りを続けるのだから。
「溢れ出す影」 人一 @hitoHito93
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