第37話 光と影

 エリーナはその様子を上から見ていた。


「ルカス。……逃げたと思っていたのに」

 ピンピンした体で、虚影の塊に立ち向かっている。

「敵なのか、味方なのか、わからないわ!」


 無意識にエリーナは足を踏みならしていた。

 計画が進んでいるはずなのに、何も思い通りに動かない。

 他の残響師たちはなぜ沈黙しているのか。頼りのハロルドは眠ってしまっている。エリーナにとっては、全く面白くない展開だった。


「どうしてみんな、わたくしの思い通りに動かないの?」

 欄干を掴む手を白くなる。


「ねえ、女皇陛下? 何か聞こえてこない?」

「――え?」


 振り返ってヴィーナを見る。ヴィーナのぷっくらした桃色の唇が、ツっと上を向いた時、エリーナは頭を抱えてしゃがみこんだ。

 突き刺すような痛みがエリーナを襲う。体中に釘を打ち付けられているようだった。


「何? 何これ?」

 悲鳴をあげてエリーナはのたうち回る。


「何か声がきこえるでしょ?」

 顔を上げると、ヴィーナはティーカップを持ち上げていた。長い足を優雅に組む。衣が流れて白い太ももがあらわになった。

 エリーナを見下ろして、天使は笑った。悔しさのあまり、エリーナは息を荒くしてにらみつける。



(たすけて)


 エリーナの耳に声が届いた。


(くるしい)

(どうして誰も)

(こっちを見てくれないの?)

(助けてほしいのに)

(助けてくれないの?)


 声の濁流に、エリーナは耳を押さえて、絶叫する。


「やめて! やめさせて! 頭がおかしくなっちゃう!」


 テーブルに這い上がり、頭を打ち付ける。ティーカップが砕け、床に破片が散らばった。


「神になりたいんでしょ? なら、このくらいの声、きいてやらないと」

「このくらいですって?」


 エリーナの顔は冷や汗で濡れていた。


「わたくしの言うことをきかない人の声をきいたところで、何になるっていうのよ。会話ができないの。理解もできないし、雑音なだけなのよ!」

「そうね」

「助けて欲しいっていうなら、ちゃんとわたくしに従えばよかったのよ」

「そうよ」

「助けてほしいなら、それなりの態度をとるべきよ! こうなってしまったのは、みんな、あんたたちが悪いんだから!」


 エリーナは欄干に身を乗り出して、虚影に向かって叫んだ。

 そして、息をのむ。


「――え?」


 眼下で起きている光景に、エリーナは目を見開いた。


「あの子、一体何をしているの?」


 残響師の少年が剣を放り投げ、片翼の天使と共に虚影に飲み込まれていくところだった。

 




 ノアは両手を広げ、虚影を受け入れた。

 吹き飛ばされそうになる体を、グレンが支える。


「もって十秒だ。それ以上超えたら、ぼくが動く」

 グレンの声にノアはうなずく。


 悲しい声がする。

 みんな、憎しみを抱えている。

 きかれなかった声。

 存在をなかったことにされた人々の嘆きを、ノアはきいた。

 全てをきくのは難しい。けれど、できる限りの声をきいた。


 ノアの右目から涙が一つ流れ落ちた。その涙に血が混ざっている。


 影がうごめいていた。光は届かない。彼らは、幾度となく絶望し、影となって生きてきたのだ。


 「生きている時に、きいてあげられなくてごめん。見つけてあげられなくて、ごめん」


 ノアは残響師の祈りを口にする。その祈りにグレンの声が重なる。


「おれたちは、耳をすませる」


 月の光が二人の周りに満ちていく。光と影が混ざり合っていく。

 光の波は影の中に流れこみ、星のようにやさしく明滅を繰りかえす。

 虚影の塊が、ほどけて、人の形にもどっていく。


「光と影をわかたずに」


 そのとおりだ、とノアは思う。

 光も影も、一緒なんだ。

 みんな同じ場所にある、命なんだ。

 両手を空にむかって掲げる。


「きみたちの声を、きくよ――」


 光と影が弾けた。

 ノアの周りに光の粒が舞っている。

 虚影になった人たちの魂が、光の粒となって空へと昇って行く。


 灰にはならなかった。


 

(ノア、ありがとう。声をひろってくれて)



 心の中でライの声をきいたような気がした。

 ノアは空を見上げる。この空のどこかに月が隠れている。

 見えなくても、そこにいるんだ。

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