第34話 ライ
うす桃色の雲に案内された先には、大きな扉があった。そのすぐ隣で、しゃがみこんでいる天使の姿がある。
ナルシスだ。赤い糸のあやとりをしている。
「やあ、ノア。また会ったね」
「あの時の……プリンの人」
ナルシスは目を細めて笑う。
「当たり。また会えてうれしいよ」
そう言いながらも、ナルシスは手元のあやとりに集中している。
「この扉の先に、ルカスがいるよ」
はっとして、ノアは扉に手をかけた。
「その前に、ちょっとだけ話を聞いてくれる?」
あやとりの指がピタッと止まる。ナルシスが顔を上げた。
「君はルカスが好き?」
「好きです」
はっきりと答えると、ナルシスが一瞬目を見開いて、それから弱々しく笑った。
「ぼくもルカスが好きだよ」
手に持っていたあやとりをぽいと放り投げる。赤い糸が、交差した状態で光の道に落ちた。
「グレンがさ、羽をもぎとって堕天した時。ぼくね、うらやましいって、思ったんだ。何かに執着できるグレンがうらやましかった。同時に、ぼくにもそんな人間がいてくれたらって、思ったんだよ」
膝を抱えて、その上に頭をのせる。ナルシスの長い髪が地面に垂れて、複雑な模様を作り出している。
「そんな時に、ルカスに出会った――」
続けて何かを言おうとして、ナルシスはやめる。
「ルカスを赦してあげてね、ノア」
「え……?」
ナルシスが片手をあげる。
「もう行って。長話はすべきじゃない」
ノアはうなずいて、扉を開けた。
重たく低い音をあげて扉がしまろうとしている。ナルシスは飛び込んでいくノアの姿を横目で追いながら、小さくつぶやいた。
「結局のところ。ぼくたちは、グレンみたいに地に足をつけることは難しい」
上からのぞき込むことしかしてこなかった。
――だから、ルカスの苦しみを、どうしてあげたらいいか、わからない。
ノアは扉の先で、ルカスを見つけた。
それから、ずっと探していた人物を。
前髪が長くて、少しだけくせっ毛。
身長はそこそこだけれど、背中が広い。
木登りが得意で、足が速い。
雪が積もったら、一番に教えてくれる人。
マフラーを持ってきて、つけてくれる人。
ノアにないものを、全部持っていて、
ノアにないものを、分け与えてくれた人。
甘えたい時に、甘えられて、
大好きで、
突然、いなくなってしまった人。
――でも。
白い顔が振り返った。ノアを見つけて、驚愕する。
その手が動く前に、ノアは飛び出した。
自分がどうやって走って行ったかも覚えていない。ただ、気がついた時にはルカスに体当たりして、押し倒していた。
「ダメダメダメダメダメダメです! 許しますから! おれ、なんでも許しますから。ルカスさんのこと、許しますから! だから、死なないでください!」
ノアの左手は、ルカスの右手を強く押さえこんでいた。その手にはナイフが握られている。
「行かないで……おれを独りにしないで……」
ルカスの顔に涙がぼたぼたとこぼれ落ちて、濡らしていく。
「ゆるしますから……だから……お願い……」
握っていたナイフが床に落ちる。金属の重たい音がした。骨が落ちるような音。
ルカスの顔がゆがむ。泣き出しそうな顔をして、腕で覆い隠す。ルカスの体が小刻みに震えていた。
「ごめんなさい……ノア」
ルカスの無事を確かめてから、ノアはゆっくり起き上がる。隣でずっとこちらを見ていた兄に顔を向けた。
「兄さん」
うつむいたままで、ライは反応しない。手を伸ばして、ライの手にふれてみようとする。手はライの体をすり抜けていくけれど、ノアは兄の手に自分の手を重ねた。
思い出があふれ出して、通り過ぎていく。
(ノア、大きくなったね)
声がして、ノアは涙を流す。
「あの時は、ごめん」
鼻をすする。あごがガクガク震えて、上手く話せない。
「おれが、一緒に行っていれば。兄さんは」
ライがやさしく笑う。
(たらればの話をしたって、もう過ぎたことだよ、ノア。それに――)
「ちがうんだ」
ノアは首を横にふった。もう一度小さな声で「ちがうんだ」とつぶやいた。
「兄さん」
ノアは顔をあげる。涙で汚れた顔だったけれど、ちゃんと笑っている顔をライに見せたかった。
――もし、兄さんの魂を見つけたら。
毎日同じことを考えてきた。
ライになんて声をかけようか。
突然いなくなったことを怒って、泣いて、いかないでよとすがってみる。
本当はそれをしたい。
慰めの言葉をもらって、安心したい。
でも、ノアがすべきことは、それではない――。
「もし、時間を巻き戻せる力を持っていたとしても、おれは兄さんが死なない方法を探しにはいかないよ。おれは、何度だって兄さんの弟になる方を選ぶ。兄さんに会えたことが、幸せだから」
ライの息づかいを感じる。声はきこえない。
たぶん、ライも泣いているんだ。
「ノア」
ルカスが体を起こしたので、ノアはその胸に飛び込んだ。背中にルカスの手の温もりを感じる。
「ルカスさん。兄さんを、送ってあげましょう」
ルカスの体が一瞬だけ固くなって、それから脱力するのがわかった。
「ライ……。私があなたにしたこと、許して欲しいだなんていいません。今だって、あなたと一緒に死んでしまいたいって思ってます」
でも、とルカスはノアの頭をなでる。
「残響師の先輩として、あなたの元相棒として、そろそろ心に傷を負う覚悟を決めなければなりませんね」
右の道を選んでも、正解。左の道を選んでも、正解。
不正解は、振り返った時だけ。
傷を抱えたまま、ルカスもノアも生きていかなければならない。大切で勲章のような、癒えない傷を抱えたまま。
(ルカス、愛してくれてありがとう。君は何ひとつ、間違ったことはしていないよ)
ライの言葉を、ルカスに伝える。
(俺たちには、時間が必要だった。ただ、それだけ)
目を閉じて、ルカスは首を横に振る。
「これから何度も、想い出すことにしますよ。あなたのこと」
ルカスはほほ笑んで、それから扉の外へ声をかける。
「ナルシス様、いらっしゃるんでしょ?」
ほんのわずかに扉が開いて、鼻先だけナルシスが顔を出す。
「――呼んだ?」
「どうして、あなた様がそんなにしょぼくれているのです?」
「別に。よくわかんなくなっちゃっただけ」
するりとナルシスが部屋に入ってくると、ライの隣に立った。
「止めていただいてもらったライの魂の時間を、動かしてもらえますか?」
「もう、いいの?」
「ええ。そうですよね、ノア」
涙をぬぐって、ノアはうなずく。
「兄さんの魂の時間を動かしたら、どうなりますか?」
「彼の魂が亡霊になった時に、ぼくが時間を止めて、引き留めてあげていた。だから、単純に再び時間が動き始めるだけ」
「その……。虚影になったりしませんか?」
「しないと思う。ただ、送ってやるのは早い方がいいね」
ノアはルカスと顔を見合わせる。
ルカスが手を差し出したので、ノアは握り返した。
「お願いします」
ナルシスがうなずいて、さっと指を真横に動かした。
ライの瞳に力が戻ってくる。ゆっくりと、ライは立ち上がった。
「やっ、二人とも」
いつもの感じでライは笑った。
「やっ、じゃありませんよ。さみしいです」
「でも、ほら、しんみりした感じはいやじゃん?」
ライが動いている。けれども、実体のない魂だと改めて気づかされてしまう。
「俺の最期の声をきいてくれるんでしょ? わー……ずっと考えていたけどさ、いざってなるとなんて言っていいかわかんないや」
「あなたって、最期まで変わりませんね」
ルカスの言葉にノアは笑ってうなずく。
いつも場を明るくしてくれるのは、決まってライだった。
「じゃあ、二人に言葉を残そうかな」
ライは人差し指であごをかく。照れた時によくやる仕草だ。
「俺の声をきいてくれて、ありがとう。きくって、難しいよな。ただ耳をかたむけるだけじゃなくて、同じ目線で、同じ気持ちで、声をきくんだ。だから、俺は残響師の仕事が好きだった。時にはさ、声をききすぎて疲れることもあったけど。そういう時、二人がいてくれて、俺、どんなにうれしかったか……。
ノアも残響師になったんだな。あんまり、がんばりすぎるなよ。それから、ルカスの言うことはよく聞くこと。小さな声も拾ってあげること。だから、残響師っていうんだ。俺たち」
「わかった」
ノアはうなずく。ちゃんと返事をしたつもりだったが、また鼻声になってしまった。
「ルカス、お前と一緒にいた時間は最高だった。それで、最低なこというけど……。お前の相棒は、ずっと俺だから。そこは、譲らないで」
「当たり前です」
「タバコはやめとけよ」
ライが笑って、ルカスも泣き笑った。
「じゃ、そろそろ送ってくれない? 虚影になんかなりたくないからね」
腰に手をあて、ライは胸をはってみせる。
ライの最後の強がりかもしれない。
三人は輪になった。互いに手を繋いで、目を閉じる。
「月は耳をすませている。光と影を分たずに、汝の声の行く末を、月光で照らさん」
ライの体が静かに光の粒へと変わっていく。頭の先から指の先まで、月光のような光がこぼれ落ちる。
「ルカス、ノア。ありがとう」
その声が光に溶け、ライのほほ笑みだけが余韻として残った。
ノアとルカスは肩を寄せ合う。ライの魂が空へと昇っていく。
まるで、月に抱かれているようだった。
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