第25話 秘密の部屋

 天使にとって、ルナリアの国を移動することは息を吸って、吐くのと同じくらい簡単なことだった。


 エリーナは今頃、密室の牢から抜け出したルカスを血眼で探しているにちがいない。あの生意気な少女が怒っているところを想像して、ルカスはくすりと小さく笑った。


「どうしたの? 疲れた?」


 ナルシスに手を引かれて、ルカスは光の道を歩いていた。どこに繋がっているのかわからないが、この道をナルシスと共に通るのは、二回目だった。


「とても疲れました。ボコボコに殴られましたし……」

「きみって、意外と根に持つタイプなんだね」


 前を歩くナルシスが肩をすくめた。


「最近、眠れないんです。夢を見るんですよ。自分が虚影になって、自分自身にとどめを刺されるところを」

「ふうん。怖い夢だ」

「怖いとは、少しちがいます」

「ちがうの?」


 ルカスはうなずく。


「あるのは、安らぎと、罪の意識。それだけです」


 ナルシスが少しだけ頭を動かして、ルカスをちらっと見た。


「虚影は斬ることで、救われる。けれども、本当にそうでしょうか?」

「哲学的な思考だね、ルカス。ぼくは、おかたい話は嫌いだよ」

「それは失礼いたしました」


 ナルシスがふと立ち止まる。


「きみは今、分岐点に立っているんだ。右に行っても正解。左に行っても正解。不正解になるのは、振り返った時さ」

「ナルシス様こそ、おかたい話をしていらっしゃる」

「そうかな? 単純な話だよ、ルカス。そろそろ君は道を選ぶ時がきた。それだけさ」


 ナルシスが手を掲げると、青白い光を放つ巨大な扉が現れた。


「きみがボコボコに殴られちゃったおわびに、ぼくはここで待っていてあげる。久しぶりに二人で過ごしてきたら?」


 真横にずれて、ナルシスは丁寧な仕草で扉を指さした。ルカス背筋はほんの少しの緊張で上に伸びる。扉に手をかける。少し力をこめて押すと、扉が開いた。




 ナルシスの秘密の部屋。

 それは、教会の一番上にある部屋だ。誰もそこに部屋があるとは気がつかない。例え気がついたとしても、部屋には入ることが出来ない。


 大きなステンドグラスの窓が、白い壁にはめこまれている。差し込んだ月の光によって、絨毯に影が織りなす模様が浮かび上がっている。


 部屋は静寂そのものだった。時間が止まっているような場所。


 ルカスはその部屋の中央に座っている人物に近づいた。

 彼はルカスが入ってきたことに気がつかず、うつむいたまま動かない。

 ルカスの足音だけが、今ここで聞こえる唯一の音だった。

 息を吐く。

 手を伸ばして、ルカスは彼の肩にふれようとした。その指先が、彼の肩を通り過ぎていく。


 ルカスは、彼の足元で片膝をついてひざまずいた。

 もう、ふれられないその体。感じることの出来ない、体温。

 亡霊になってしまったまま、時を止め続けている、ルカスの大切な――元相棒。


「ライ」


 ライの膝にルカスは頭をのせる。ライが反応することはない。

 光を映さない瞳は、うつろなままルカスを見下ろしている。


「私は、もう、限界なのかもしれません」


 何もかも放りなげて捨ててしまいたい。そんな気持ちだった。


「疲れてしまいました。あなたがいなくなってからの私は、今にも切れそうな糸で吊られて動いているようなものです。何のために生きるのか。わからなくなってしまいました」


 ライがこのままの姿でいることが、正解だとは思えない。残響師として、人として、間違ったことをしている。

 それでも、自分の心を曲げてでも、ルカスはライを手放せなかった。


「ノアは大きく成長しましたよ。ライに似てきました。でも、最近はノアを見るだけで心が痛い。自分の罪が何重にも塗り重ねられていくようで――」


 ふと、ルカスは顔をあげる。

 濡れたまつ毛をあげ、ライを見つめる。


「ねえ、知っていましたか? 虚影に襲われた人は、数時間で虚影になれるそうですよ」


 ルカスはライの唇にふれようと手を伸ばした。


「もし、ライの時間を動かしたら。あなたは、すぐに虚影になるでしょう。そして、私を襲ってほしい」


 ルカスは重たいまぶたを下ろす。


「あなたに融合できるのなら、私は、そうしたい」


 流れた涙は、ライの体をすり抜け、椅子を静かに濡らした。

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