第7話 虚影
ノアたちは、北西の海岸沿いを歩いていた。岩を打つ波しぶきが、凍えるほど冷たい。
「ルカスさん、どこへ向かっているんですか?」
教会を出てからルカスは、行先を告げず、ただついてくるようにと言ったまま、ノアたちの前を歩いていた。
「ぼくは、なんとなく想像がつくよ。ガキんちょには、まだ早い場所かもね」
「おれは、もうガキって歳じゃない。もう大人だ」
「ガキでしょ。どう見たって」
ほら、っとグレンが前方を指差した。
「あそこがどんな場所か、知らないくせに」
生臭い風が顔をなでていった。顔をしかめたノアの耳に、ノイズが入った。
耳鳴りがする。
グレンが指さした先、黒い塊が見える。灰色のもやが、その塊に覆いかぶさっている。
――あれは、なんだ?
「この国の影だよ」
耳元でグレンがささやいた。
「影?」
「光があれば、影くらいできる。当たり前のことさ。お前たちガキんちょは、きれいだねって光ってるものばかり見てるから、影に気がつかない」
「どういうこと?」
「行けばわかる」
戸惑いを覚えて視線をルカスに向けると、彼はノアの方に体をむけて立っていた。悲しそうで、それでいて、どうすることもできないといった表情で。
黒い塊に近づいていくと、いくつかの住居が集まった場所だと気がつく。
――崖の下。海の近く。どうしてこんな場所に、集落が?
住居はどれも触れば崩れてしまいそうなくらい、朽ちている。時折、海から吹き付ける風とこの場所の匂いが混ざり合って、ドブのような悪臭がした。
気味が悪いほど、静かだった。
住居と住居の間をすり抜け、ルカスは岩壁に向かって歩いて行く。後をついていくノアは、剣に手をかけたまま進んだ。
人の気配を感じられないのに、何者かがこちらの様子をうかがっているような気がした。
パキリ、と足元で音がしてノアは視線を落とす。
「なんだ、これ?」
踏んづけたものは、粘土でつくられた羽のようだった。割れた場所から崩れて、塵となっていく。一体どんな人たちがここに住んでいたのだろうか。
「ノアとグレン。こっちに来てください」
岩壁の真下でルカスが、手招きをしている。近づいてみると、壁に大人が一人通れるくらいの穴が開いている。
「意図的に掘ったのでしょう。中は広いようです。入ってみましょう。グレンは入口を見張っていてくれますか?」
「ルカス。君は、ぼくが君たちを閉じ込めちゃうとか、考えないわけ?」
「あなたは、そんな小賢しいまねはしません」
ルカスが言うと、グレンは鼻で笑った。
「信用されてんだか、されてないんだか……。まあ、いいよ。洞窟探検に行ってきなよ」
グレンは、入口を背にしてしゃがみこむ。大きなあくびをして、見張るというよりひと眠りしそうな雰囲気だった。
「行きましょう、ノア」
ルカスが携帯していたランプに灯をともす。洞窟の中は、一部屋分の空間があった。ランプの明かりでは、細部までよく見渡すことは出来なかったが、教会の礼拝堂に似ていることに気がつく。
朽ちかけた木の長椅子。蝋燭を灯した跡。それから、月神像。
「……いえ、これは……」
ルカスが月神像の足元から照らしていく。
「堕天使像」
腰から上が砕かれた、堕天使像。月神像も他の天使像もそこにはない。
「堕天使像を礼拝していた?」
ノアはつぶやいて、グレンが言っていたことを思い出す。
――知ってた? 堕天使だけは、願いをきいてくれるって。
その瞬間、ノアは膝をついて頭を抱えた。
ひどい耳鳴りがノアを襲う。頭の中をかき回されている、あの感覚に陥った。
誰かがノアの体の中に入りこんで、内側からぐちゃぐちゃにしているような不快感と激しい拒絶。
「ノア!」
ルカスが素早く駆け寄って、ノアを片手で抱え上げた。そして、後ろに大きく跳躍する。
空間が大きく揺さぶられた。頭上から、砂と小石がバラバラと落ちてくる。
――一体何が?
朦朧とする意識の中、ノアは顔を上げた。
ルカスが舌打ちをした。
「初めて見る虚影ですね」
その声色からは、ルカスには珍しく恐れがふくまれている。
目の前にいるのは、人ではなかった。人の形をした虚影でもなかった。
「……化け物」
堕天使像に絡みついて、こちらをうかがっている虚影は黒い塊だった。馬車ほどの大きさで、足の数は増えたり減ったりを繰り返している。触手に見えた黒いもやが、人の手や足であることに気がついて、ノアは言葉を失った。
ガラス玉のような赤い二つの瞳が、ノアとルカスを見ている。
「撤退します」
ルカスはノアを抱えたまま、出口へ走る。
「グレン! 撤退です!」
外へ飛び出したルカスは、目の前の光景を見て絶句した。
「何? こっちはこっちで忙しいんだけど」
グレンが複数の虚影を相手にしていた。
「どうしてこんなに虚影が?」
「そんなことより、ガキんちょを降ろせよ。動けるようにしてやるよ」
背後から迫ってくるものを感じて、ルカスはノアをグレンに押しつけた。
「ノアを頼みます。これはスタンプ三つ分以上の価値がありますよ」
「ははっ。じゃあ、大事にしてやんないとな」
轟音と共に虚影の塊が追いついてきた。ルカスはそれを跳躍してかわす。着地した先で、人型の虚影がルカスを襲おうと手を伸ばした。
獣のような咆哮をあげる虚影を見上げて、ルカスは長いため息を吐いた。
「雑魚が」
ルカスが剣を抜く。澄んだ音色が空気を震わせ、月光が刀身を伝う。音が波紋のように広がり、世界が一瞬、静止した。
剣光が一閃。
虚影は灰となり、霧のように散った。
「一、二……五体か」
目の端で虚影の数を確認する。巨大な化け物の虚影は後回しにして、先に倒しやすい虚影を片付けることにした。跳躍し、駆け抜け、切る。その間に、ルカスはノアの位置を把握しておく。屋根の上にグレンと共に退避している姿が見えた。
――正しい、判断です。
最後の虚影を斬り捨て、ルカスはゆっくりと息を吸った。
あの化け物のような虚影は、どうやら頭が悪いらしい。突進して岩や物にぶつかり、もたもたと方向転換をする。そればかりを繰り返しており、動きはにぶい。
「複数の虚影が集まった化け物、と考えるべきでしょうね」
ルカスは剣を軽く振るう。
「さて、一体何回斬りつければ、死にますかね」
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