「コイキング」の向かいに

三月

第1話




 落ちて来るものを見た。


 視線が向けられるとおのずから分かるように、自分のもとへとやって来るものにはあらゆる警戒が向けられそれが体内で収まり切らないので筋肉が動き、関節が伸び縮んで、骨がきしみ、それを覆う皮膚の先に生え揃った毛先が全身にめた甲冑を留めておくための紐を固く結ぶように凛と立ち、肉と皮膚の外についた水晶体や内耳といった器官が光と空気が震える波形と衝撃を受け止め木の上に潜む見張り係のごとく銅鑼どらを打ち鳴らし、反響して心臓が目一杯血を送り出す。彼らは上から下に物が移動するという現象について、つまりは地表にある限りすべてのものが落ちてくるがその逆はほとんど起こり得ないと知っていた。けれど実際落下物が何であるのか、落ちて来る間に判別することはできなかった。物体の正常な状態を考えれば、落ちている状態にあるよりまったく落ちていない状態にある時間の方が長いのであるから、すっかり落ち切ったのを待ってそれから確認しても遅くはないだろうと思われたためである。


 見ていたのは三人だけだった。杉宮亨スギミヤトオル相間来玄ソウマコハルの瞳のなかに映る像を、その瞳の持ち主よりずっと真剣に見ていたのだが、別のより強い関心を持つ現象のためにそれを中断することとなった。加篥李央カリキリオは唯一落ちて来るものから視線を外さなかった。それが飛び立つように落ち始め、地中から天に浮かぶ星々までを管理する法則は気紛きまぐれのように落下よりも前進を優先させたがそれは一瞬ですぐに分厚い大気の壁にぶつかりながらも止まることなく落ちていくのでようやく夢だと気付いたようにばたばたとはためき暴れながら加速していきあっけなく着地するまでの一連の動向を確認した。彼らはそれぞれのやり方で、ある者は戸惑いながらも好奇心というよりそのまま見過ごしてしまうことの違和感それ自体への嫌悪のために近寄り、ある者はたとえ災難が降りかかるとしても先を行く者が背負い受けるだろうと安心して後に続き、最後の一人は、時に床をい悪臭にたかる蟲への警戒と同じものを抱いて落下地点からの同心円をなぞっていたがしかし、山に登れば遠くまで見通せるというようにじりじりと首を伸ばすのと連動して生じる衝動に抗えずに足先はにじり寄っていく。

 三人は腕を伸ばせば触れられる距離まで寄って来るとお互いの顔、お互いの目とお互いの鼻、お互いの口などを見てそれぞれが特徴的に整っているか歪んでいることを確認した。奇妙なことだ。地面に転がる落下物を見るつもりが、なぜ互いの顔をお見合いすることになる? 最初に気が付いたのは加篥で、二人も数秒ののち気付いて驚いたがすでに目一杯にまぶたを開いて見入っていたのでほおのすぐ横の筋肉がひくつく以上の反応が現れることはなかった。


 ひとりがそろそろ構わないかとうかがうように地面に再度手を付いて立ち上がろうとしたので他の二人は見守るように眺めていたが、いくら待っても起き上がらず代わりとなるような結末が到来することもなく、いっそ期待などもとから有りもしなかったという喪失感が空気感染のように彼らをおかし遠く聞こえるは沈黙以上に聴覚を狂わせ、穴が詰まったように何も聞こえなくなったりした。しばらくして金縛りが解けたように顔を寄せてから覗き込んだが、立ち上がろうとした同人は瞬きを三度ほど繰り返すだけで何も言わず、先程までと変わらず身体は動くばかりか、その持ち主の命令を聞き入れることすらできそうに無かった。横たわりなにか口走るようにひゅうと空気を吐き出す瀕死の身体を囲んだ二人は、生命維持器インキュベータに入った嬰児に向ける憐れみや、暴君に仕える王笏持ちや厚い黒雲を目にした船乗りと同じく、制御できない力のもたらす結果へのおそれに似た、しかし決していずれでもない色が浮かぶ瞳孔を通してみる景色にただ嘆息するように立っていた。

 それからゆっくりと誰かが手を伸ばした。それは触れようとするものとの間の距離を測るための道具である。必ず辿り着くからこそ距離を測るのであり、決して触れられないものにとっては遠近の概念すら過ぎた道具である。


 ハイ、あなたが鬼よと誰かがいった。



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