第3話
揺れている。
気がした。
「──チ。おい、ポチ」
体を揺すられている。
ぼんやりと目を開けると、暗闇の中でも白く輝くようなユランの整った顔があった。
「う、美しい……」
「寝ぼけるな」
顔を掴まれる。
「上級の気配がするらしい。起きろ、行くぞ」
「え、い、今からですかぁ?」
窓から見える外は真っ暗だ。
「5分で支度しろ」
無慈悲な命令に飛び起き、ポーチカはまだ働かない頭で必死に準備をした。
武器とランプを準備して階段を降りると、物音に気がついたのか、ガルデニアが自室から出てきた。
「どうした、夜中に」
ユランももちろん隣にいるが、説明するのは自分だ。
「山の方に上級魔物が出たようなんで、ちょっと行ってきます。ここからは離れているようですが、何かあったら逃げられるようにしてくださいね」
「あ、ああ……」
ガルデニアはやや困惑気味に頷きながらも、「だが」と続けた。
「別にいいんだ、無理に上級を狩らなくても」
「え?」
ポーチカは僅かに首を傾げた。
「放っておけば、そのうちにいなくなる」
「ですが……」
「あんた達は何のためにそんな危険を冒す」
目尻に深い皺を刻んだガルデニアの瞳が、どこか悲痛そうに揺れる。
「俺のためならそんなこと」
「ちがいますよ」
喉の奥に僅かな引っかかりを自覚しながらも、ポーチカははっきりと告げた。
「ぼくたちのためですから。上級の奇晶が欲しいだけで、他の誰のためでもありません。だからガルデニアさんに止められても、ぼくたちは行きます」
ガルデニアはじっとポーチカを見つめ、小さく息を吐いた。
「……気をつけるんだぞ。くれぐれも、命は落とすんじゃない」
「はい。……あっ、ユランさん!」
まだ話の途中なのに外に出ていってしまったユランを追いかけた。
黒い山の夜は異様に暗い。月も分厚い雲に隠れ、ランプがなければ1歩踏み出すのも難しい。また怪我をするわけにはいかない。
ユランには精霊の囁きがあるのか、ランプを持たずとも迷わず進んでいく。
もちろん、ガルデニアがきちんと道を整備してくれているおかげもある。
途中襲ってくる小物の魔物は、ユランの鉈であっさりと追い払われた。精霊の力が本格的に使えなくても、このレベルだとユランにはあまり関係がないのでポーチカも安心してついていく。
「はぁ……ど、どのあたりまで、はぁ…、行くんですか……?」
しばらく山道を登って息が上がっていた。一方でユランはいつもの涼しい顔である。
「向こうも移動している。すばしっこいやつみたいだな」
この山に現れる上級魔物──シノド。
図鑑にも情報は少ない。
刃物状の両手を有し、個体差はあるがユランよりも大きいくらいの人型の魔物らしい。聴覚を麻痺させる魔法を使い、闇に紛れ人を襲う。その程度の限られた情報しかないのは、シノドを相手に無事だった人間の少なさ証明だ。
ユランがいるとはいえ、さすがにポーチカも緊張してくる。
上級魔物は普通、熟練した狩人ギルドが集団で狩るもの。あらかじめ地形を調査し、相手の行動を監視し、綿密に計画を立て万全の準備をして向かうのが定石とされている。
それを2人で……実質的にはユランひとりで狩ろうなどとは正気の沙汰ではない──とよく言われる。
しかしこれまで何度も狩ってきた。
無謀だと、他人からどれほど馬鹿にされても構わないのだ。
──ユランさんについていく。
恐れも緊迫感すらも何も感じさせないユランの後ろ姿をしっかりと視界に捉え、疲労感に耐えながら足を運んでいく。
山の中腹あたりまで来ただろうか。
夜空は相変わらず濃灰の雲に埋め尽くされて、一筋の月光も降りてこない。
この辺は、まるで木々のように尖った黒剛石の岩が天に向かってそそり立つ一帯だ。
それらの隙間を風がびゅうびゅうと音を立てて吹いている。
ユランはようやく足を止め、一際太い岩の柱の影に身を隠した。白いコートの裾で、下級魔物を払った際についた鉈の血を拭う。
「──灯りを消せ」
すぐに言われたとおりにランプを消すと、ポーチカにはほとんど周りが見えなくなった。
唾を飲み込み、片手に持っていた調理用のナイフを握り直した瞬間。
音が消えた。風は強く吹いているのに。
耳に何かが詰まったようだ。
魔物──シノド。
暗闇に無音。
それは想像よりも恐怖だった。
「ゆ」
名を呼ぼうとして、手で口を塞がれる。心臓が止まりそうになった。
背後にいるのはユランだ。声を出すなと言うことだろう。
ポーチカが頷きを返すと、「そこにいろ」とでも言うように岩肌にポーチカを押し付け、ユランは離れていった。
岩に背をつけたまま、ナイフを持つ手が震えるのをもう片方の手で押さえつける。
──足手まといにはなりたくない。なるわけにはいかない。
ひっそりとした闇の中に目を凝らす。
少し先の岩の向こうで音もなく火花が散った。
一瞬照らされたのは、ユランの顔。そしてユランが振るう鉈の一撃を弾き返した黒い影、シノド。異様に細い体躯に、剣のような両手がちらと見えた。
数度、打ち合う。
自分が入る隙などないほどの速さだ。隠れて見ているしかない。
時々弾ける火花は徐々に遠ざかっていく。力は、互角らしい。
──精霊魔法さえ使えれば。
ユランに付き従う土の精霊。土を自在に操るその魔法は、屋外では無敵ともいえる力を持つ。
なのにこの硬い岩山は、条件が悪い。それに精霊の導きがあっても、視界の悪い戦闘はやりにくいはずだ。
次第に目は暗さに慣れてきた。
岩の輪郭と素早く動くユランの白い影。
直後、数歩先の岩柱が崩れ落ちてはっとした。
黒剛石はユランの鉈では砕けないはず。つまり、シノドが壊したということだ。
あの刃物状の手の威力はそれほどまでに凄まじいらしい。ぶつけ合っているユランの鉈は大丈夫だろうか。
次々と岩が砕かれていく。ユランが逃げに徹しているということだ。
──何か勝機を。
ポーチカは唇を噛んで腰の鞄に手を突っ込み小瓶を取り出した。
そして消していたランプに再び明かりを灯し、闇に向けて高く掲げる。
岩の影から橙色の4つの丸い瞳が──ゆらりとポーチカに向けられた。
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