天使のギロチン

舞月るし

プロローグ

「よく見ておきなさい、ノア」


 ノアが初めて父の仕事を見たのは7歳のときだった。母に連れられ、教会のある広場へと向かう。西日がレンガの屋根を鮮やかな橙に染める一方で、雨上がりの地面は暗くぬかるんでいる。水溜りを飛び越えながら進んでいると、やがて地面は舗装された石畳に変わり、視界がひらけた。

 

 広場には多くの人だかりができていた。誰もが、何かを熱心に見ようと背伸びをしたり、体をくねらせたりしている。母の手を振りほどき、ノアは好奇心のままに群衆の中に飛び込んだ。スカートやズボンの間をかいくぐりながら、ひたすら目線の先へと突き進む。


 気付けば自分の前に人の脚はなかった。その代わりに、小高い木造の舞台がノアの視界いっぱいに映る。台の下には数名の役人が姿勢を正して立ち、幼いながらもそのぴりついた空気を感じ取った。そのとき、不意に群衆の中でざわめきが起きる。はっとして顔を上げると、ちょうど、小太りの中年の男が壇上に上がったところだった。男の両手は体の後ろで縛られており、ふらふらと舞台の上に跪く。


 続けて父が壇上に現れた。堂々とした足取りで、黒い外套から1枚の紙を取り出す。そして高らかに宣言した。

「これより、この者の刑を執行する!」

 広場中に響き渡る勇ましい声に、人々は息をのむ。陰から影へ。冷たい風が広場を横切った。


 少し間をおいて、父は淡々と続ける。

「被告ロラン・ド・ユベールは、反社会的思想をもって民の秩序と安寧を乱さんとする大罪人にして、万死に値する」

 その言葉が広場にこだますると、男は自分の影を一点に見つめたまま、体を小刻みに震わせ始めた。


 空気がぴんと張り詰める。息をするのも忘れるほどに。

「よって―――被告を、斬首に処す」

 男の背中がびくりと跳ねた。父は罪状の書かれた簡素な紙を外套の内へしまい、数歩、後ろへ下がる。そこへ颯爽と現れた役人たちが、男の腕をそれぞれつかんで立たせた。男は千鳥足のまま、装置の台に腹から押さえつけられた。


 男の目は大きく見開かれ、群衆の顔を一人ひとり見つめているようであった。荒い鼻息の下、波打ちながらもきゅっと結ばれた唇は、貴族としての威厳を保つ最後の薄膜のようだ。首を固定された男の遥か上で、銀色の刃が不気味に煌めく。父は黒い手袋をはめながら、首切り装置の横にゆっくりと歩み寄る。革靴の足音とともに、床板がぎしりと軋んだ。


 父は装置に絡む錠前を小さな鍵で外し、柱に巻き付けてあったロープを一筋ずつゆっくりと解いていく。刃が落ちぬよう、慎重に。刃の重さと重力の天秤にかけられたそのロープが、ぎりぎりと音を立てた。男の命は、まさに今父の手の中にあった。


「では、神の御加護を」

 父は男を見下ろしながら冷たく唱える。

 そのときだった。男の口はついに沈黙を破り、群衆に向けて叫んだ。


「私の名はロラン・ド・ユベール!この国の政治は狂っている!」

 その声は震え、時折裏返る。

「私は死刑制度に異を唱えた、それだけだ!人間に――神の行為が務まるものか!」


 父はうるさいと言わんばかりに、ひとつため息をついた。そして、男が言い終える一瞬手前で、ロープを握る手を緩めた。刃は重力とともに、まっすぐに男の首へ落ちる。


 鈍く低い音が、広場に響いた。男はひとつ呻き声のような音を出しただけで、もはや叫ぶことはなかった。群衆は一斉にどよめく。ノアは、物見高さで後ろからなだれ込んだ人々に押し出され、気付けばひとり、処刑台を仰いで立っていた。


 刃は再び父の手によって男の上に戻される。男の首からはいまだ鮮血が溢れていたが、その断面は、生々しくも、美しい。ノアは、人が死ぬのも見るのは初めてだったが、不思議と恐怖は感じなかった。


「ノア」

 不意に声を掛けられ、見ると父が手袋を外しながらノアの横に立っていた。

「見たか。これが私たちの仕事であり、''正義''だ。」

 少年は、再び夕日に照る刃を見つめ、静かに一度だけうなずいた。


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