第四章 残響
春が来たのは、その冬が終わる頃だった。
屋根の雪がゆっくり解け、軒から水の糸が落ちていた。
あの夜の火の音を、私はまだ覚えている。
けれど、その音を聴いていた人は、もういない。
彼女は静かに逝った。
朝、火をつけに行くと、まるで眠っているようだった。
頬に触れると冷たく、しかし穏やかだった。
耳の奥で、まだ何かを聴いているような表情をしていた。
母が逝ったとき、私はまだ赤ん坊だったという。
母は彼女の娘だった。
だから、母の顔も声も知らない。
けれど彼女は、母の“音”を覚えていた。
そして私の中に、その音を探していたのだと思う。
家は静かになった。
薪を割る音も、茶碗を置く音も、呼ぶ声も消えた。
私はしばらく、火を焚けなかった。
音を立てれば、彼女の不在がはっきりしてしまうからだ。
けれど、ある朝。
風が障子を鳴らした。
その響きが、あの声の調子を連れてきた。
「湿ってるね。雪が近いよ」
私は思わず笑った。
音は消えない。
耳を閉じても、体の奥に残っている。
それが、彼女の残した“世界の地図”だった。
私は少しずつ、音を立てることを取り戻した。
薪を割り、火をつけ、茶碗を置く。
そのたびに、家が形を取り戻す。
音が、空白の輪郭を埋めていく。
夕方、火が静かになる時間、私は耳を澄ます。
風の音、雪の音、そして自分の息の音。
そのどれにも、彼女の気配がわずかに混ざっている。
ある日、誰もいない部屋でつぶやいた。
「……ただいま」
その瞬間、薪がはぜた。
ひとつ、澄んだ音が響いた。
私は微笑んだ。
それが、私にとっての“返事”だった。
音が、世界をもう一度つなぎ直したのだ。
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