かくれんぼ
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第一章 静寂の家
昭和五十五年の冬、旭川の家には、まだ土間があった。
外はいつも雪に覆われ、音という音が吸い込まれていた。
だから、家の中で響く音だけが、この世の輪郭だった。
私はまだ六つだった。
外の世界よりも、この家の音のほうが、よほど確かだった。
薪ストーブのはぜる音が、朝と夜を区切っていた。
「パチ、パチ」と乾いた音が弾けるたび、家が目を覚ます。
火の音は、この家の心臓の鼓動のようだった。
木の床はとても冷たく、火が起きる前の朝は、足を乗せるのもためらわれた。
私はそっと足を置いては、跳ねるように歩いた。
その動きが、自然と音を消していた。
足裏が床に触れる時間を短くすれば、冷たさも、音も、同時に避けられた。
音を消せば叱られない――それに気づいたのは、この頃だった。
火の気配がないとき、家の中は静かすぎた。
外の雪がすべての音を閉じ込めてしまい、世界が止まったように感じた。
だから、薪をくべる音、鉄の扉を閉める音、火が空気を吸う音――
それらはこの家にとって、生きている証のようなものだった。
育ての親は、目の見えない女性だった。
明治の終わりに生まれ、若くして夫を亡くしたという。
その後、見えぬまま子を育て、家を守り、老いてなお、音で世界を支えていた。
耳で人の気配を測り、手で風の向きを読む。
その姿は、まるで音そのものが人の形をとったように見えた。
彼女は、音に対して厳しかった。
足音が二度踏みしたり、歩幅が揃わなかったりすると、すぐに呼び止められた。
「そこで何をしているの」
声は穏やかでも、音の乱れを許さない気配があった。
音が彼女の目であり、秩序だった。
かつては、はたきの棒で自分の娘を躾けていたと聞いた。
叩く音が、この家の規律を保っていたのだという。
その音が鳴るたび、娘は「ここにいる」を学び、
音が止むと、静けさの中で自分の位置を確かめた。
けれど、孫ほど年の離れた私には、不思議なほど甘かった。
叱る声の代わりに、耳を澄ませていた。
その静けさの中で、私は何をしているかを、音で測られていた。
私が息を止めれば、音が消える。
音が消えれば、彼女には私が消える。
だから息を止めると、私もまた、消えたように感じた。
世界の動きが、呼吸の音ひとつに繋がっているようだった。
薪が爆ぜ、火の粉が短く跳ねる。
そのたびに、彼女は顔を向け、微笑んだ。
「いい音だね。今日も生きてる音だ」
その言葉を聞くたび、私は安心した。
火が鳴っているかぎり、この家も、彼女も、そして私も、生きていた。
⸻
火が音を立てている限り、
世界はまだ、温かかった。
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